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(1771) 第7章(1)繰り返される儒教の独自解釈

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(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(
http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )




STONE SOUR
Do Me A Favor (2013)

2月の第 1段 PV がすでに 24万回近い再生回数ですが、10日に発表されたこの PV も、
同じ曲の第 2段でありながら、グングンと伸びてます。

個人的にはこの曲は特にいいと思えないですけど、今が旬なんでしょう、ストーン・サワー!!



第7章 和人たちの夏


1.繰り返される儒教の独自解釈

2.日本的和の世界
3.嫌われることを恐れる心性
4.東アジア諸国民に日本の和は通じない
5.中華では存在すると思われる物は実在する
6.和は己を持って貴しとなす
7.最後に別々の残酷さを顧みる


NEC_0008.JPG
戦前の京城府(現・ソウル特別市)に建立された別格官幣大社朝鮮神宮(戦前の絵葉書より)


1.繰り返される儒教の独自解釈


前章で検証したように、日本のインテリたちは、東アジアと日本の共通点を儒教や仏教
や感じだと思い込むことが大層好きである。


日本人だけではなく、フランスのレオン・ヴァンデルメールシュなどはその著書 『アジア
文化圏の時代』 (大修館書店、1987年) で、東アジア文化圏の特徴は漢字と箸だ、
などと言っている。

だが、それならばヨーロッパ文化圏の特徴は、アルファベットとフォークなのであろうか。

そのように置き換えれば、この論のご都合主義は明らかではないか。

今度とも、このような種類の文化圏論は軽率の謗りを免れぬことであろう。


さらに仏教共通文化論に至っては論外である。

さすれば、共通点はスリランカからタイ、ビルマ、インドネシアにまで拡散し、東アジア
地域を超え出で、範疇としての地域文明圏の意味を問えなくなるからである。


儒教に関しても、1987年に、日本では文部省科学研究費重点領域研究 「東アジアの
経済的・社会的発展と近代化に関する比較研究」 が、3年間の大型プロジェクトとして
助成され、東アジアを 「儒教文化圏」 として括る試みがなされたことがあった。

筆者は、この儒教班のメンバーであったが、当然のことのように、日本を東アジアに含
め、それを儒教文明圏として総称することに当初より強い抵抗感を有していた。


すでに述べたように、中世の朝鮮で教化された儒教は人為型のものであり、礼 (マナー、
行動規範) の強制により民衆の生活や風俗を根底から改造するものであった。

これに対して日本のそれは、漢籍によって入った、いわば知識人の遊び道具であり、
民衆によって茶化されたのみならず、江戸の儒者自身がその理屈を骨抜きにしてしま
ったことは既に述べた。


一方、御本家の中国では、清朝の当時、民衆の信仰は仏教と道教の混じり合ったもの
が主流なのであり、儒教は官僚になるための基本の教養に過ぎなかった。

儒教、とりわけ朱子学が成果kつかしたのは、東アジアでは朝鮮一国のみである。


にもかかわらず、日本のアジア主義者たちの儒教好きはいったい何なのであろうか。

すでに本書で登場した大川周明然り、中野正剛然り。

こういうのは彼らの生まれた家に伝えられた、江戸時代からの藩校の学の伝統による
のであろう。


岡倉天心と同世代で、盛岡藩の勘定奉行の子であった新渡戸稲造などは、1899年に
英文で 『武士道』 なる本を著すが、全編に儒教が横濫している。

幸いなことに、朱子学ではなく孔孟に復帰した学の方であるが、儒教を解すること実に
独創的と言わねばならない。


文中に、

   「孔子の貴族的保守的なる言は、武士たる政治家の要求に善く適応したのである」

   (矢内原忠雄訳 『武士道』 岩波書店、1938演初版、1978年20刷)

などとあるのだが、文弱の王朝を営んだ中国や朝鮮では、武士というのは武器を持って
いるから兵のことであり、兵は論語など読みはしないのである。


また、新渡戸は惻隠の心を語って、孟子の 「惻隠の心は仁のはじめなり」 (告子篇) を
引用しつつ、

   「弱者、列車、敗者に対する仁は、武士に適わしき徳として賞讃せられた」 (同書)

と大いに武士道精神を称揚するのであるば、惻隠とはそもそも、乳児が井戸に落ち込も
うとすれば、誰しも思わずはっとして、その方に駆け出し助けようとする。

その心であると孟子は説いているのであり ( 『孟子』 公孫丑篇)、朱子はこれを性 (人
のさが。天理が人の心に内在したもの) より価値の低い、情 (気分のこと。喜怒哀楽
愛 (おしむ) 悪 (にくむ) 欲などの 7つの感情) の方に入れている。


中国の朱子の徒である官僚や科挙受験資格者たちは、情は低いものであるから、
「惻隠」 に特別の関心を持ったことなどついぞなかった。

こういうところに、逆に情好きの日本人の特徴がよく表れている。


他方朝鮮では、惻隠をはじめとして、是非 (よしあし)・辞譲 (ゆずる)・羞悪 (ないがしろ
にしない) の 4つの道徳の端緒を孟子は挙げているのだが、これらが価値の高い 「性」
なのか、低い 「情」 なのか、儒教官僚たちは延々と論争を始めた。

朱子がすでに、惻隠は情の発露であると、『朱子語類』 「性理」 篇で語っているにも
かかわらずである。


朝鮮思想史では、これを 「四端七情論争」 という。

この論争で学閥が分かれ、官僚の派閥が分かれて、科挙の試験問題をどの派閥の答え
で書くかという利害争いに発展し、ついには血みどろの権力闘争を始めたのであった。

といほど、「惻隠」 とは恐ろしいものなのである。


ところが我が国では、最近、藤原正彦という数学の先生が、またもや武士道などと
おっしゃり、その著書 『国家の品格』 (新潮社、2005年初版、2007年 45刷) は、
約 260万部も売れる大ベストセラーとなったそうである。


藤原氏の唱導する武士道精神とは、「卑怯なことはいけない」 という禁忌を中心に、
「慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠」 等を内容としており、惻隠とは 「他人の不幸
への敏感さ」 「それに加えて 『名誉』 と 『恥』 の意識」 だと定義されている。

このような解釈は、日本でも、朝鮮でも、中国でも、これまで目にしたことがないような
稀有かつ斬新なものであり、その独創性はまさに驚嘆に満ちている。




2.日本和の世界
につづく。





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