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(1765) 第6章(1)日本は始めから脱亜していた

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(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』

目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )





H.E.A.T
Living On The Run (2012)



第6章 別亜論とは何か

1.日本は始めから脱亜していた
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
6.朝鮮植民地で「別亜」に気づいた人々


NEC_0007.JPG
人民公社の理想 (『人民中国』 1956年4月号)



1.日本は始めから脱亜していた


日本と東アジア諸国という観点からここまでの各章を振り返れば、
第二章では
冷戦中の両者の関係とその認識が今日保ちがたく壊れていることを述べ、
第三章では
同じく冷戦中の中国共産党と朝鮮労働党の対日工作と、
それに対する日本国内のインテリの 「連帯」 による世論操作に関して縷々(るる)語った。


第四章では、
日本と東アジア諸国との社会組織の彼我の相違点や
宗教観・世界認識の違いなどについて記し、
第五章では
日本文明圏の内実を論じてきたのであった。

そこで、うがった見方の読者諸兄姉は、古田がすでにアジア離れをしてしまった、
いわゆる 「脱亜」 の徒に成り下がったのだと思われるやもしれない。


さても日本には 「脱亜論」 という論がある。

それは戦後、アジア連帯を求める人々からは蛇蝎(だかつ)のように嫌われた論であり、
普通、福沢諭吉の1885年における次のような言説に端を発するものだといわれている。


   左れば今日の謀を為すに、
   我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、
   寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、
   其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、
   正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可のみ。
   ( 『福澤諭吉全集』 第十巻、岩波書店、1960年 )


もっとも福沢もここまで至るのに、朝鮮独立党の金玉均を援助したように、
アジアの改革派と結ぶことに吝(やぶさ)かではなかった。

しかし、甲甲事変により朝鮮の改革派が挫折するや、
政策判断も含めてそのような道を選択するのである。


だが筆者にいわせると、どうも福沢の前提自体が腑に落ちないのである。

日本は始めから東アジア諸国と同じ文化圏にいて、
それを離脱して西洋の文明国と進退を共にするといっている。

いったい東アジア諸国とどのような共通の紐帯に繋がれていたというのだろか。

日本はかつてそのような 「東アジア的存在」 だったのだろうか。


私の考えでは、これまでも繰り返し述べてきたように、
東アジア諸国の社会組織(宗族)・宗教観(宗族絶対主義)・世界認識(中華思想)などとは、
文明的なものの生い育つ基盤をあらかじめ異にしていたのが日本なのであり、
とうてい同じ文化圏にあったとは思われない。

もしそのように思うものがいたとするならば、それは単なる思い込みであり、誤解であろう。

すなわち、日本は当初から脱亜していたというべきだと思われるのである。


日本と東アジア諸国はそもそも別ものなのであり、
もしその関係に何かの語彙を冠するとすれば、
「脱亜」( Leave Asia )の要はなく、
「別亜」( Another Asia )といわなければならないだろう。

日本は深い日本海を挟み、その対岸の国々と何らの文明的共通点をも有しない。

その日本をアジアというのならば、当初から( a priori )別のアジアであり、「別亜」 なのである。


新しきを知る話だが、もし両者が同じ文明的な基盤にあったとするならば、
司馬遼太郎が日本のみならず中国や韓国の各地を巡り、
「中国・江南のみち」 「中国・閩のみち」 「中国・蜀と雲南のみち」 「韓のくに紀行」 などと、
独特な中華文明を紹介する 「街道をゆく」 東アジア編は
書く要も、書ける可能性もなかっただろう。

そこが日本とは異なる文明圏であったからこそ、
彼の描写のひとつひとつが日本人の耳目を引いたのである。


では古代から近世にかけて、
日本が東アジアに連なっているという幻想をかき立てたものは
いったい何だったのか。

それは船によって舶来される彼の国からの厖大な漢文献であったのだろう。

それを読むことにより、日本人は辛うじてかの国との連帯感を幻想したに過ぎなかった。

なぜならば漢文力の低下によりそれらが自在に読めなくなった近代以降は、
中国哲学・東洋史の研究者や一部好事家をのぞき、
その連帯幻想が急速に醒めていったからにほかならない。


古きを尋ねれば、第一に、
「アジアは一つである」 「この愛こそはすべてのアジア民族に共通の思想的遺伝」
   ( 「東洋の理想」 1903年、『明治文学全集38 岡倉天心集』 筑摩書房、1968年)
などと語った岡倉天心自身がすでに漢文がそうとうに下手だったという事実がある。

以下、中国人の中華思想を語って、

   敢然中華ヲ以テ自ラ居リ他邦ノ人ヲ異狄視スル人ニ在テハ
   改進的ノ人物ニ非サルヨリハ交際ヲ求ムルモノ少ク
   我在留人ト十年以上ノ交際ヲ結フモノニシテ
   未タ一回モ其家ニ招請スルコトナキモノ往々之レアリ

   ( 「支那行雑綴」 1893年、『岡倉天心全集』 第五巻、平凡社、1979年)

などという今日では漢文調に何とか見える文章も、夷狄を 「異狄」 と間違えるのみならず、
背後の漢文自体に全然格調がない。

文の後半のところなどは、

「我在留人にして十年の誼を交はすといえども、
いはく、かつて招聘の使い未だその屋に至らずと、
漸く慨するもの往々これあり」(←さ、さすが!!ぐっと格調が高くなった感じですよね!)

くらいには、驕慢(きょうまん)の筆を弄ぶわけではないが、ぜひとも書いてもらいたいものであった。


漢詩に至っては、橋川文三にまで
「彼の漢詩のごときもの」 (同第五巻 「解脱」 )などと酷評される出来栄えであることは、
ここに原詩は掲げないが、本当のことである。

加えて同解説において、橋川は、
「そしてまた、『アジアは一つ』 というのも恐ろしいほどの欺瞞であったと思っている」
と、これもまた恐ろしいほど率直に述べるのであった。


岡倉はフェノロサにより東洋美術の認識を深め、西洋を歴訪して帰国後美術学校の設立につとめ、
明治37年にはアメリカに渡り、ボストン美術館の東洋美術部長となって米国各地に東洋美術を紹介、
その間英文で著書を書いていた人物であるから、もともと英語得手の人であったのみならず、
中華文明圏など若い頃にバック・バッカーで旅行したくらいしか知らないのである。


うがった見方をすれば、彼を含めた明治人が急速に漢文力を失い、
アジアとの連帯幻想をすがれさせていった当時、
豁然貫通 (かつぜんかんつう) (朱子 『格物補伝』 )するがごとく、
一言、「アジアは一つ」 と言い放ったところに、
おそらく岡倉天心の人物的な意義があったのだろう。




2.東アジア音痴のアジア主義者たち
に続く。





私は、まず第一に 「言葉が違う」 ということで、日本と、朝鮮・中国は別物だと思っていましたw

たとえば英語とフランス語なんかも、大阪弁と津軽弁くらいの違いはあっても、
どこかで通じる部分もあるのに対して、日本語と、朝鮮語や中国語なんて、まるでチンプンカンプン。

日本語と英語よりも違う気がするwww

かろうじて漢字を見て、なんとなく想像できるものもありますけど、ほとんどお手上げですね。


唯一、共通点として 「蒙古斑」 があったのですけれど、なんと、イギリスの小説を読んでいたら、
どうやら蒙古斑を言ってるらしいセリフが出て来て、ありゃ?!

インド=ヨーロッパ語族にも少数ながら、あるんだそうです、蒙古斑が\(^o^)/

しかも、「音楽のリズム」 がまるで違いますから、これは別物だなと確信しました。


それで、『日本人の骨とルーツ』 とか読んだりしてたワケですけれど、
朝鮮からもたらされたとされていた 「稲作」 にしても、
インドネシアの田んぼの風景や音楽の方が、朝鮮のそれより、よっぽど日本のものに似ている。

ああ、これは西からじゃなく、南から来たんだな、日本民族はと思いました。


そういえば、民主党が政権を獲る前に、やたらと出回ってましたよね、「世界は一つ」みたいな思想。

「世界の中心で愛を叫ぶ」 とかいう映画なんかもヒットしましたけど、地球は円形ですからね。
しかも廻ってますから、その中心といったら、マグマがドロドロと渦巻いてる、核心、ですw

かなり可笑しな言葉だと思っていたのですが、考えてみると、「中華思想」ですね。




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