(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
QUEENSRYCHE
Redemption (2013.03.26 up)
えっ、まさかロブ・ロック?!と思いました、新ヴォーカルw
なにやら2つのクイーンズライク。どうなることやら。
第5章 神々の復権
1.日本の茶化し文化
2.2ちゃんねらーのティーゼイションと左翼の堕落
3.ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
4.自己をテイーゼイトする私小説
5.何を言っているのか分からない人たち
6.大本営的虚構の背景
6.大本営的虚構の背景
しかし物事は功罪相半ばするのが世の常であり、
日本文明圏に写実(リアル)と共に確固たる茶化し(ティーゼイション)は、
前述のように立派な日本の文化因子なのであるから、
いまさら
近代頭の道学先生が不真面目であるとか、
西洋思想かぶれの文化人先生がアイロニーの果ての危険因子であると叫ぼうが、
それはなくなる類のものではない。
かくして近代の終わる1980年代、近代化の目標が完結し、進歩の思想が終焉を迎えるころに、
日本のティーゼイションはふたたび息を吹き返した。
それはまず、コピー・ライターという人々を中心に、
サブ・カルチャーという分野で復活したものと私は見ている。
80年代の糸井重里、90年代の佐藤雅彦、やがてサブ・カルチャーは社会批判に波及し、
大塚英志や大月隆寛などのティーゼイションの騎士たちを次々に生み出した。
そしてパンドラの箱があくように、
名もないブロガーたちがティーゼイションとなってインターネット上に現れ、
メイン・カルチャーへと進出し、ロドスを軽々と跳び越えていったのである。
こうして茶化しの神々はふたたび江戸の活気を取りもどしたのであろう。
しかし近代の道学先生からそれを見れば、ティーゼイションは個人主義の欠如であり、
孤独な個人として自己定立できぬ日本人の単なるお茶らけである。
そして、その基底部にはおそらく、
「態とらしいものをきらひ」 「肌身に感じないと信用せず」 「観念論を机上の空論だとあざわらふ」、
日本人の実感依拠があるに相違ないと筆者は睨んでいる。
福田恆存(つねあり)は、かつてそれを語り、
「近代文学にかぎりません。
日本人の思想的態度に見られる 『実感依拠』 の傾向こそ、
日本に 「観念論」 も 「唯物論」 も生みえなかつた大きな原因ではないでせうか」
(「個人主義からの逃避」 『福田恆存全集』、前掲)
と、実に的確に捉えている。
日本人をティーゼイトさせる動機は、
物事・人間・社会をそのまま写実的に細かく描き、
観念の入りこむ余地をあらかじめ 「態とらしい」 として削り落としてしまうような、
例の日本的リアリズムと大いに関わっているのではないか。
前の章でも述べたが、これは現実的であることとはすこし違う写実性である。
ここがなかなか難しくて、
写実一辺倒で、西洋的な現実性を極力排除してしまうと
今度は世界の見方・読み方まで失ってしまい、そこに大本営的虚構が入り込み、
結局戦争に負けてしまうことになりかねないのである。
もっとわかりやすい例で言おう。
神仏を敬う日本の仏教は、もちろん宗教であるか本来観念的なものである。
しかし人は葬式をしなければならないという現実があり、
この葬儀に意味を与え、万事滞りなくお骨を墓にもっていくという仏教は現実そのものなのであり、
「理念的なものは実在的である」 の極致ともいえる。
ところがあるケチが、寺の坊主なんか 「坊主まるもうけだ」 と写実一辺倒に突っ走れば、
「坊主に金やってたまるか。葬式なんかいらねえ」 と仏教をティーゼイトしてしまうことになる。
こうなると現実的に葬式ができなくなり甚だ困る。
お骨のやり場にも困るから、家に祭壇まがいのものを自分でこしらえて、
木札を探してきてそこに戒名を下手な墨筆で書く。
すると、これはもう立派に大本営的虚構となるのである。
な、なるほどぉ・・・
実は先日、葬儀屋のチラシに 「家庭葬」 が載っていたので、
「そういえば昔はみんな自分の家でやったのよね。
私も付き合いがないから呼ぶ人も少ないし、この座敷で十分だから、ここでやってよね。
お経はいらないから、坊さんは頼まなくていい。HM/HRでも流してよね。
墓石を頭に乗っけられるのは自由人としてガマンできないから、灰はそこらへんに撒いといて」
と言ったら、息子がなんと言ったと思います?
「葬式なんてやんのけ。いまどき葬式なんて流行らねえ」
こういうのは、なんなんでしょうね\(◎o◎)/!
先祖からの墓はあるので、火葬場で焼いて墓に納めて終わり。になりそうw
日本的リアリズムもティーゼイションもこのように現実的には不備な点を多々もっているのであり、
無軌道に突っ走ってはならないである。
復権されたティーゼイタ―としての庶民の神々も全能なわけではなく、
せっかく西洋近代リアリズムのシャワーの時代を痛い熱湯を浴びながらも経てきたのだから、
西洋思想流にときどき自らを振り返り、
福田恆存や橋川文三や北田晄大をティーゼイトしつつも
彼らの言葉にちゃんと耳を貸すことが大事であろう。
そうでなければ
戦時中の軍事指導者たちや日本浪漫派、戦後の進歩的文化人・良心的知識人の愚を、
こんどは復権した神々が背負うことになる。
まずティーゼイションを生かすも殺すも、メディア・リテラシーの有無の問題が第一であろうと思われる。
これは2ちゃんねらーに限らず、筆者の本を茶化しまくっている左翼系のブログにも同様の話である。
ただ、左翼系の方は根に妙な生真面目さが残っているので、
あっけらかんとせず不気味に正義ぶる厭らしいところがある。
これは彼らの今後の問題点であろう。
第二に、
ブログから誤解や誤謬(ごびゅう)が広範囲に広がるのをどう防ぐかという問題があり、
これは結構深刻なことである。
たとえばシナの古典に 『酉陽雑爼』(ゆうようざつそ)という本がある。
ところがこの冒頭の文字の 「酉」 を 「西」 だと思い込み、
『西陽雑爼』 と書き込んでいるブログが30以上あるのを先日、偶然発見した。
この本を読んだ当事者の方がいらっしゃれば、早晩なおしていただきたいものである。
おそらくこれは氷山の一角、大洋の釣り針のようなものであるから、
筆者が一人でなんとかしようにもできない相談であろう。
誤解や誤謬を指摘する専門のブロガーたちの登場が必須であると思われる。(←耳、いや、目が痛い(^^;)
第三に、現行のブログのほとんどが日本の新聞や本などの二次資料に情報を頼っていて、
高度なブログを展開できないという点を、耳が痛いかもしれないが挙げておかねばならない。
たとえば、筆者のゼミの学生など何か分からないことがあると、
自分で調べずに直ぐに Google (グーゴル= Googol が語源というが、これは耳障りな音の語彙である。
何とかならないものか)。 ※1グーゴル=10の100乗
図書館でちゃんと調べろと言ってもいうことを聞かない。
そういうときには、
「必殺仕置人・中村主水(もんど)の名前は、なぜ主水でモンドと読むのか、 Gugutte みろ」
ということにしている。
彼ら彼女らはすぐさまパソコンに向かい作業を開始するのだが、
こういう高度な問題はまず解けないのである。
正解は、古代に日本語では器に盛った水を 「もひ」 と言っていた。
この 「もひ」 を貴人に差し上げる、水を主(つかさど)る人を 「もひとり」 といったのである。
この 「もひとり」 が後世訛り、「もんど」 となり、
主水の訓となった(本居宣長 『古事記伝』 古事記伝十七之巻 、神代十五之巻 「綿津見ノ宮の段)」。
要するにインターネットのブログというのは
知識の宝庫ではなく、知識を広く浅く庶民のものとするのであり、
本当の知識の宝庫は図書館であり、
そこを捜索できる能力でその人の教養が試されるという点は、しっかり押さえておきたいものである。
以上、余計なお説教をしたが、
ティーゼイタ―たちの今後の活躍に大いに期待したい心では、筆者は人後に落ちないと思う。
だいたいが道学先生やインテリたちは
先述のように理念や理想で突っ走るものであり、そのほとんどの者が外国からの舶来思想に弱い。
多くの庶民が 「無限増殖する偶像なき身体」 となって彼らを絶えずティーゼイトすることは、
ほんとうはとても大切なことなのである。
第6章 別亜論とは何か
1.日本は始めから脱亜していた
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
6.朝鮮植民地で「別亜」に気づいた人々
に続く。
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(1764) 第5章(6)大本営的虚構の背景
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