(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
GAMMA RAY
Master Of Confusion (2013)
第6章 別亜論とは何か
1.日本は始めから脱亜していた
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
6.朝鮮植民地で「別亜」に気づいた人々
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
他方、福沢諭吉について贅言(ぜいげん)すれば、岡倉天心より30くらい年が上である。
諭吉は1835年生まれであるから、坂本竜馬と同い年、木戸孝允より2つ下、高杉晋作の4つ上、
徳川慶喜の2つ上で、半生を徳川幕府の時代に過ごしているから当然漢文は岡倉天心などより
ずっとうまい(逆に英語はしゃべれなかった)。
ただこの人には性格であろうか、ぶっきらぼうで皮肉屋なところがあり、たとえば英米人の偽善を語って、
夜陰に人を突倒して其足を挫き、翌朝これを尋問して膏薬を与るが如し。
仁徳の事とするに足らず。
( 「通俗国権論」 1875年、『福沢諭吉選集』 第七巻、岩波書店、1989年)
などと平然と言い放つところがあった。
もっともこれも当たっていて、E・H・カーが1939年に、ヨーロッパ大陸の人々が英語圏の人々を、
「全体の利益という仮面の下に自己中心的な国益を隠す技術の達人である」
と考えていることを紹介し、
「このような偽善性は、アングロ・サクソンの考え方に独特の特徴である」
といっているそうである。
(ジョン・J・ミアシャイマー 『大国政治の悲劇』 ―米中は必ず衝突する!』 五月書房、2007年)
というわけで、福沢の 「脱亜論」 も、もともと漢文ができてアジア連帯の幻想の強かった人が、
金玉均らの朝鮮人と付きあることにより、その幻想がすっかり晴れてしまったことを、
生来の一撃必殺の皮肉で表現したものかもしれないのである。
筆者などは6年間、彼の地で人々と付きあい、その後も20年間関わっているので、福沢の気持ちが
とてもよく分かる。
だが福沢のように脱亜する必要はないのである。
繰り返すが、日本は始めから脱亜しており、漢文による連帯幻想などまったくない今日、
むしろ連帯幻想を積極的に造りだそうと必死になってもがいているのは日本の左翼人士たちであろう。
韓流の煽り立てなどはその最たるものと思われる。
※ (0312) 日本音楽産業は何を向上させたか。
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2010-04-25-1 )
話をも元にもどして、今度は歴史上、日本のアジア主義者といわれいる人々について、
かれらがどのくらい東アジアについて知っているかを見てみることにしたい。
岡倉天心から20年ほど後に生まれた、1883年生まれの北一輝、1886年生まれの大川周明、
大川と同い年の中野正剛の三人を調べるのが、世代的な横断面を見るのに格好だと思われる。
余計なようだが、北一輝は大正・昭和期の国家社会主義者、佐渡生まれ。
早大聴講生となり、22歳で 『国体論及び純正社会主義』 を著し、辛亥革命に関わり32歳で
『支那革命外史』 を執筆。
のち陸軍青年将校と関係が深く、二・二六事件で助言を与えて逮捕され、軍法会議で処刑された。
つづく大川周明の経歴は、昭和期の国家主義者、山形家生まれ。
東大卒後、満鉄入社、43歳で東亜経済調査局が独立して理事長となる。
その間日本精神を説き、五・一五事件に連座、仮出所後、東亜経済調査局最高顧問。
戦後はA級戦犯容疑で逮捕され、東京裁判で発狂して入院、免訴となり釈放された。
中野正剛は大正・昭和期の政治家、家は旧福岡藩士。
早大卒後、朝日新聞に入社。
頭山満らアジア主義者と親交が深く、朝日退社後、34歳から衆議院議員に8回当選。
張作霖爆殺事件追及で頭角を現した。
その後、急進ファシズムにハシリ、全体主義運動を唱導、翼賛会常任総務となる。
東條内閣の翼賛選挙で推薦を拒否して当選後、反東條色を強め、1943年に倒閣企図の件で検挙、
憲兵隊から釈放直後に割腹自殺した、というのが、大体の彼らの略歴である。
まず、北一輝だが、北の東アジア認識は放縦である。
というのも、日本と朝鮮は
「国民生活ノ根本タル思想ニ於テハ (中略) 全然同一系統ニ属スル者」
であり、
「特ニ純潔ノ朝鮮人ノ血液ヲ多量ニ引ケル者ハ彼ト文明交渉ノ密接セシ王朝時代ノ貴族ニ多ク、
現ニ公卿華族ト称セラルル人々ノ面貌多ク朝鮮人ニ似タルハ凡テ其ノ類型」
( 「日本改造法案大綱」 1923年、『北一輝著作集』Ⅱ、みすず書房、1972年)
だとか言ったり、あるいは、中国に行って中国革命同盟会に参加し、中国の革命家たちと付き合う。
やがて孫文と衝突し、孫文のことを 「国粋的復古主義国家民族主義」者と断定したりする
( 『支那革命外史』 1915年、同著作集Ⅱ)。
だが結局は、中国人の中華思想とぶつかったに過ぎないのだろう。
とにかく、東アジアの社会について真っ当な認識を持っていたとは、その著作集から到底窺うことは
できない。
北は心情的には日韓併合賛成派であり、他方、中国を巻き込む大東亜戦争のような第戦争には
反対の立場だったそうである
(松本健一 「アジア主義と大東亜戦争 ―北一輝・大川周明・石原莞爾・中野正剛」
東北アジアにおけるユートピア思想と地域の在り方研究会講演会記録、
『東北アジア アラカルト』 第18号、東北大学東北アジア研究センター、2007年)。
とすれば、朝鮮人はけっこう好きだったが中国人は嫌いだったのかもしれない。
中国人の頑迷さにこだわっているところは、岡倉天心とよく似ている。
次に大川周明だが、彼の思想は日本人のアジア主義者の中のある一類型を典型的に示している。
まず第一に、彼は東アジア社会にあまり関心がなく、それを飛び越えてすぐにインド文明の方に行った
り、イスラム文明の方に関心が向かってしまう。
こちらの方では社会に対する関心が旺盛であり、戦後のイスラム研究の碩学、井筒俊彦などは、
満鉄時代に大川周明からイスラム学の手解(てほど)きを受けたそうである。
ところが東アジアについては、中国の正史や思想以上のことはあまり知ろうとしない。
ここではこのような類型の人々を、「東アジア社会跳び越え型」 と総称しておこう。(←www)
次に大川の言説の中から、かろうじて東アジアの文化について私見を述べたところを拾い上げてみる
ことにする。
まず朝鮮だが、
「之を内面的即ち文化的に見ますれば、日本と朝鮮とは、ともに儒教及び仏教を精神的根拠と
する東洋文明の場である上に、人種的にも殆ど同種といふべき間柄であり、彼我の往来は建国
以前よりのことであつたのであります」
( 「印度国民運動の由来」 1931年、『大川周明全集』 第二巻、岩崎書店、1962年)
などと言い、北一輝とほとんど同じで、文明的な理解も平板で、まったく深みがない。
儒教と仏教を共有していて、アジア人種だというのならば、ベトナム人だって同じはずである。
中国や日本については、さらに次のように述べている。
東洋に於ては、支那及び印度の思想・文化によつて、夙くも唐代に東洋文化の成立を見、
次で宋代に入りて程朱の理学が生れ、恰も羅馬法王が中世欧羅巴の精神界に君臨せる如く、
宋学が印度を除く東亜全域の精神界を支配した。
蓋し宋学は、華厳・禅・孔子・老子の諸説教が、宋儒の精神を坩堝として混融せられたる偉大
なる思想体系であり、其故にこそ徧く東亜の指導原理たり得たのである。
吾国に於ても鎌倉幕府以来程朱の教学が精神界を支配した。
日本が宋学の支配を脱却し初めたのは伊藤仁斎・荻生徂徠等が原始儒教への復帰を高調
してからのことである。
( 「大東亜秩序建設」 1943年、同全集第二巻)
ここでも、東アジア文化の精髄は儒教であり、とりわけ朱子学、すなわち宋学であると語られている。
自身は陽明学が好きであったにもかかわらず、である。
しかし、総額は理屈っぽくて日本人にはよく理解されず、大川も文末で述べているように、実は江戸の
古学や国学によって骨抜きにされてしまうのであり、宋学の教える儀式や生活規範、行動様式が
かつて日本人の精神生活にまで深く根を下ろしたことはなかった。
おみならず、本家の中国においても、朱子学のリゴリズムは、王陽明、唐甄(とうけん)によって解体の
端緒が開かれ、この傾向は清の戴震(たいしん)によって決定的になったのであった。
結局、朱子学によって骨の髄まで侵され、生活規範、行動様式、そして先祖崇拝の儀式まで、ことごと
く儒教の礼(マナー)にすり替わってしまったのは、東アジアでは朝鮮一国に過ぎなかったのである。
ちなみに朝鮮では、朱子学以外は邪学とされ、陽明学は李朝末期までずっと異端であった。
※ (0741) 朝鮮半島&中国大陸の簡単な歴史
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2010-11-29-1 )
「唐」= 北方遊牧騎馬民族 (やや満洲民族に近い)
老子 (道教の祖) (紀元前6世紀ごろ)
孔子 (儒教の祖) (紀元前551年~紀元前479年) (日本: 弥生時代)
孟子 (儒教の祖) (紀元前372年~紀元前289年ごろ)
「宋」= 南方漢民族 (現在の中国共産党は北方漢民族系)
朱熹 (朱子学の祖) (1130~1200) (日本:鎌倉時代)
「明」= 漢民族+満洲民族あたり
王陽明 (陽明学の祖) (1472年~1529年) (日本: 室町時代)
※孟子の思想を受け継いだ新しい儒教
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
に続く。
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(1766) 第6章(2)東アジア音痴のアジア主義者たち
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