KILLSWITCH ENGAGE
In Due Time (2013)
(6) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
第3章 贖罪大国日本の崩壊
1.戦後日本の「愛国しない心」
2.韓国での俳外体験
3.愛国心とナショナリズム
4.贖罪の宣伝戦
5.「倫理の高み」にのぼった中共
6.軍民二分論の破綻
7.韓国人の中国人評
8.朝鮮への贖罪工作
9.良心的知識人たちの「善意」
10.贖罪大国の崩壊
9.良心的知識人たちの「善意」
藤島宇内と朝鮮総連、ひいては北朝鮮の思想工作は、瞬く間に良心的知識人の間に広まっていった。
中国の方の贖罪宣伝は主に、ソ連と中国の工作員に呼応し、社会主義への 「歴史的必然」 を信じる
進歩的文化人によって担われたが、他方朝鮮への贖罪宣伝とは棲み分けがなされていて、こちらの方は北朝鮮と朝鮮総連の工作に呼応した良心的知識人によって推論される傾向があった。
そして、日韓のみの国交回復を朝鮮半島の平和的統一の阻害要因と見て、日韓会談に反対するという目標への道程で、日本人の朝鮮感を変更させ、日本人に贖罪観を植え付けるという戦略が採られたものと思われる。
1962年の12月号の 『世界』 では、「日韓交渉をどう考えるか」 という題で何人かの良心的知識人たちが寄稿しているが、小椋広勝 (当時、立命館大学教授) が 「何のための 『国交正常化』 か」 で、日韓交渉が日米の軍事ブロック政策の一環であり、それが南北朝鮮統一と日中の国交正常化を妨げ、東アジア諸国から日本を孤立させると非難している。
例のいわゆる 「日本孤立化論」 の煽りである。
また、泉靖一 (当時、東京大学助教授) は 「朝鮮の現実に目をふさぐな」 で、
「民族意識のうえからも、経済的にも、南北の統一がおこなわれないかぎり、朝鮮は20世紀後半の近代国家として存立しえないのである」
と、まさに北の社会主義の現実に目をふさぎ(←www)、
「日本が朝鮮にたいする過去の責任を負うつもりならば、朝鮮が近代国家として成長するために力をつくすべきである。このことは、アジアの共同体を強めることに役立つ」
と、これまた例の東亜諸民族共同体による 「東亜秩序」 を日本人の責任論として語っている。
作家の大江健三郎も登場し、「朝鮮人と日本人の authenticite 」 で、北朝鮮には北朝鮮人としての autentique (真正の) 感覚があり、韓国にはないので、韓国は外国墓地を撤廃して南北統一を推進し、それを阻害する日韓会談を止めろと言っている。
さらに日韓会談を推進することにより、日本人が朝鮮人の真正の再生を妨げることは、「恥の感覚の熱い痛み」 であるとも述べる。
どれもこれも今日から見ると、とてつもない妄言ばかりであるが、当時の彼らはみな北朝鮮の側に 「良心的に」 身を置いており、かつ北朝鮮の近代化を信じるがゆえに、韓国を北中心の正道にもどしてあげる
ことが善意だと固く信じていたのであった。
10.贖罪大国の崩壊
そして極めつきは、1963年12月号の 『世界』 に掲載された、「日韓会談の再認識――日本人の朝鮮観」 という旗田巍の論稿であった。
旗田は戦前の治安維持法をのがれて満洲に渡った、満鉄帰りのマルクス主義者であり東洋史研究者であったが、戦後は本格的に朝鮮史研究に専念した人物である。
旗田の言説はおおよそ次のようなものであった。
しかし忘れてならないのは、日本人が植民地支配国の人間であり、朝鮮人が植民地の人間で
あったという事実である。
個々の日本人をとると、朝鮮人と同様にぎせい者であっても、全体としては加害国の人間であった。
これは重大なちがいである。
そのちがいは、日本の民衆が単に軍国主義のぎせい者だということを許さない。(中略)
日韓会談は単に両国の国交について議しているのではなく、日本の朝鮮統治の後始末を主たる
議題にしている。
それは全朝鮮に関することであって、韓国と交渉するだけでは解決はできない。
これを解決するには、どうしても北朝鮮を無視するわけにはいかない。
ここでは例の軍民二分論すら外され、激しい口調の日本民衆非難が行われている。
旗田は社会主義陣営に立って、北朝鮮を無視した日韓の基本条約に反対しているのであるが、日本が朝鮮に対して 「加害国」 だという認識は、当時鮮烈なる印象を良心的知識人たちに与えた。
なぜならば、誰もそのようには考えていなかったからである。
当時の日本人は戦争の災禍の甚だしきを知っていたので、自分を戦争の 「ぎせい者」 だと思っていた。
しかし時あたかも、日米安保条約改訂により日本は防衛をアメリカに大幅に依存できるようになり、防衛費を低めて経済成長に邁進できるようになった。
こうして社会主義勢力を抑えて安保を乗り切った岸内閣に替わり、池田内閣になると所得倍増計画が
策定され、輸出増進による外貨獲得を主要な手段として国民所得を倍増させる政策がとられた。
これは成功し、日本人の生活水準は徐々に向上していったのである。
安保反対闘争で敗北した社会主義勢力は、そんな手があったかと呆然としたが、他方では旗田のように、豊かになりゆく日本人から 「ぎせい者」 感覚が退潮していくのを鋭く捕らえ、その退潮の隙間に
「加害国」 を巧みに滑り込ませたものがいた。
旗田のこの戦略がどんなに成功を収めたかは、その後、社会主義国が崩壊し、北朝鮮が拉致事件を
自白するまで、北朝鮮が正義の被害国であり、日本が悪の加害国であるという構図が日本人をずっと
呪縛し続けたことからも明らかであろう。(←えっ!!私は日本人じゃないかも。ぜ~んぜん、呪縛なんてされてなかったですw)
だが旗田のいうように、もし日本の朝鮮統治時代を悪だというのならば、それ以前の李朝時代と、それ
以後の北朝鮮の金父子朝鮮王朝はもっと悪である。
なぜならば、両者ともに民生をまったく顧みることなく、国土を荒廃させ、吸血鬼のごとき特権階級が民衆の膏血(こうけつ)をすするがままに委せた時代であったからにほかならない。
また、もしこの時点で、北朝鮮の出版物を日々読み、現状を解読するものが一人でもいたならば、北の
社会主義経済体制の欺瞞はたちまち判明したはずのものである。
しかし戦後の朝鮮研究は残念ながらそのようなレベルにはなかった。
むしろ前述の旗田巍らにより、「作られた善意」 のなかで、ヒューマニズムを推進力として、研究がほそぼそと再開されたというのが実情ではなかったか。
筆者は最近では、
「北朝鮮はいつから、あんなになってしまったのか」
と、人に問われることがよくある。
だが、じつは初めからずっとあのようだったのである。
1970年代まで、北朝鮮のほうが韓国より経済が良かったという人が時々いるが、いったい何の根拠があって、そんなことを言うのあろうか。
30年近く、北朝鮮の 『労働新聞』 を読み続けてきた私には、そのようなことは絶対に信じられないと
言い切る自身がある。
1970年代でも韓国の水道には鉄管が使われていたが、北朝鮮ではまだ素焼きの土器が用いられて
いた (『労働新聞』 1972年7月21日付)。
しかし、そんなことをくどくど言っても詮方ないことである。
1953年生まれの筆者だとて、『労働新聞』 の購読を始めたのは1974年からのことであり、朝鮮語を
学んだのは中国語学習の次、ロシア語学習の前であり、当時は未来の世の中が社会主義諸国ばかり
になると頑固に信じていた。
何のことはない。
中国語、ロシア語、朝鮮語など、得にもならない言語を将来の担保としてやっていた自分が、マルクス
主義や社会主義に騙されていた張本人にほかならなかった。
そして筆者は1979年、26歳の春に憧れがつのって訪問したソ連の裏町で、大量の失業者と、瓜ばかりが積まれ窓ガラスの破れた貧しい八百屋を見ることになる。
また計画経済の人員配置により合理的な就職が行われいるはずなのに、壁に、「旋盤工求む」 「ミシン工求む」 「ベビーシッター求む」 等の求人広告が貼ってあるのが、はっきり読めてしまった。
このときほど自らのロシア語学習を呪ったことはない。
外国語に習熟するということは、世界の暗号に触れるということであり、そのような悲しみは本当は避け
るにしくはないのである。
そして結果的には、このときまで、筆者の社会主義幻想は晴れることがなかった。
加えて北朝鮮研究が資料にのっとった実証研究となるのは、その先、10年の歳月を要しなければなら
なかった。
1980年代の後半に至り、ようやく基礎知識をもち朝鮮語のできる仲間たちが集まり、資料の読み合わせなどが始まっていった。
そして北朝鮮について、いよいよ本当のことが忌憚(きたん)なく言えるようになったのは、2002年9月
17日の金正日による日本人拉致の自白以降である。
それまでは日本のインテリ層に打ち込まれた 「北朝鮮正義の被害国」 の楔(くさび)があまりにも深く、事実を書けば書くほど激しい抗議にさらされたものだった。
初めて北朝鮮に関する実証的論文を勤務校の紀要に載せたとき、お世話になっていたマルクス経済学の教授から、なぜあんあことを書くのだと強く叱責された。
1996年から2年間、岩波書店の 『世界』 に東アジアの紀行文を連載していたが、北朝鮮の現状を揶揄すると、岩波の社内からも社外からも批判の声があがり、戦時中の思想監視下のリベラリストのように
筆を枉(ま)げたことも多々あった。
そしてようやく、2002年9月17日がやってきた。
私にとってこの日は、日本の敗戦になぞらえるべき青天の霹靂(へきれき)であった。
この動転は、朝鮮研究者間にも大きな亀裂を生み出したのである。
拉致はなかったと証言した者や、拉致より日朝交渉が重要だとした者たちは、自らの 「非人権的体質」 を問われ、リトマス紙を赤く染めてしまった。
このとき以来、北朝鮮による拉致事件に対する国民の激怒は、日本の戦後民主主義の成長と深化を
鮮やかに示し、人権概念の実質的な定着を物語る明確な碑となったのである。
だが調べてみたところ、中国や北朝鮮の対日贖罪宣伝工作は1958年を起点にして、もう半世紀にも
及ぶ思想教化の歴史を誇ってしまっている。
その間、日本の知識人たちは中国や北朝鮮の現実に触れることなく、彼らの作った枠の中で土下座し、陳謝し続けたのであり、そのような進歩的文化人や良心的知識人が日本の庶民の手本になってしま
った。
しかし中国や北朝鮮の近代化は、究極的には完全に失敗したのであり、多くの無辜の民を巻き込み
大量の殺戮をもって歴史に深い傷跡を残したのみであった。
その現実から遡れば、日本が彼らにもたらした近代化の輸出は、たとえ侵略の道程に行われたこととはいえ、本質的には正しかったのだと言わざるを得ない。
というようなことを、ある新聞記者に語ったところ、「しかしそれはいじめと同じで、いじめた方が言っても
無駄だ」 と言うのである。
だがこのまま放置すれば、中国や韓国や北朝鮮は自己絶対正義を信じ、永遠に日本を呪い続けて己を卑しくする道から離脱することはないであろう。
なんど精神で謝罪しても、なんど財貨であがなっても、彼らにはまったく無駄であることをわれわれはすでに痛感しているではないか。
北朝鮮のように、水豊ダムや八幡製鉄所を日本人と共に作って繁栄していた当時の朝鮮から、日本統治を嫌って、満洲に逃れた金日成たちの作った偽史が 「革命伝統」 となって神聖化され、そのときの復讐のためには日本に対して何をやってもよい、平和なときに無辜の日本人をさらっても、列島にミサイルを
撃ち込んでもよい、そのような論理が平然とまかり通れば、日本のみならず東アジア全体の秩序が崩壊してしまうのではないか。
日本の植民地統治は、やはり、いじめとは違うのである。
日本がこれまで歩んできた贖罪大国の道は、既に戦後半世紀の間に壊れきっているのであり、われ
われは中国や韓国や北朝鮮がどんなに正義を振りかざしても、それが永遠に続くものではないことを
彼らに知らしめなければならないだろう。
そのような 「正義」 がどのように東アジアの良好なる関係を壊し、日本の進歩的知識人や良心的知識人を誤らせ、庶民の目を現実から乖離せしめたかを、新しい論理の筋道に従ってもう一度再考すべき時に今われわれは来ている。
第4章 日本文明圏の再考
1.中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
2.宗族という異質な社会
に続く。
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(1753) 第3章 (9)良心的知識人たちの「善意」 (10)贖罪大国の崩壊
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