MEGADETH
13 (2011)
メガデスは現在、新作づくりをしているらしく、時々、その様子が1分くらいの動画で紹介されて、
ムステインか誰かの愛犬チワワ(だと思う)が、すっごい良い味を出してるので、
それを載せたいのですけれど、ちょっと短すぎるので、えっ、見たいですか?
ではw(↓)
http://youtu.be/0qIeQNTon20
(6) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
第4章 日本文明圏の再考
1.中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
2.宗族という異質な社会
3.靖国の誤解をただす
4.日本文明の写実性
5.現実性と写実性の狭間で
6.古代や中世に固着する東アジア
1.中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
時は18世紀初頭、李朝時代の後期、慶尚道の星州である墓争いが起きた。
この事件を国王に報告したのは、王権を脅かす重罪人を主に審問する義禁府の主職であったから、
ことは尋常ではない。
義禁府の記録を見ると、この時、朴慶余(ぼくけいよ)と朴寿河(ぼくじゅが)両家の間で山の所有を
めぐって争いが生じていた。
朝鮮の墓はみな日当たりの良い山の中腹にあるから、山争いはすなわち墓争いとなる。
18世紀頃から李朝の崩壊まで、朝鮮半島ではこの墓争いが熾烈を極め、地方政治は完全に
紊乱(びんらん)してしまう。
朴寿河の息子の訴状によれば、
「近頃、人の墳山を奪う弊害が次々と起こっている。
朴家の塚を掘り、柩(ひつぎ)を焼き、私(ひそか)に攻め殺すなどという変事があってよいものか。
家の勢力の強弱で査察に手加減を加えるようなことがあれば、厳正にいさめるべきである」
とある。
され一体何が起きたものか。
両家は朴という姓だが、全く血縁を別にしている。
兄弟でもなんでもない。
そこで話の都合上、紛らわしいので、名前の頭文字をとって前者を K家、後者を J家と仮に呼ぶことに
しよう。
そしてその後、宮中でのやり取りを王側の日記 (『承政院日記』 「雍正4年12月20日丁丑晴条」 に最も詳しい) でたどっていくと、しだいに恐るべき事実が明らかになっていった。
両家の山争いはまず地方の役所のお白州で始まったが、役所の長は既に有力な K家と結託していた。
その結果、J家の朴寿河が弁論すると、たちまち長を侮辱したと取られ、捕えられて殺されてしまった。
その死体は、4か月行方不明となった。
J家の娘、朴文娘(ぼくぶんじょう)は悲しみのあまり激昂し、K家の墓に行って、塚を掘り返し、柩を炭で
焼いたという。
K家の家人がこの変事を聞き、墓を移そうとしたが、J家の来襲を恐れ、装丁数百人で山を占拠した。
このとき、K家のあるものが朴文娘に伝えた。
「お前の母の墓を暴いて炭焼きの復讐をしてやる」と。
朴文娘はこれを聞き、村人や下僕を麓に隠し、両手に刀をひっさげて、馬で山を駆けのぼり、K家のものたちの間に突入しようとしたのであった。
ところが、彼女は遮られ、馬から引きずりおろされた。
だが、烈女の気性はその辱めに忍びず、刀をとって己の首を貫き、その場で果てたのであった。
それを見ていた朴文娘の下女が 「人殺し!」 と大声で叫ぶや、麓にいた J家のものたちがどっと山に
押し寄せ、K家の家人たちに襲いかかった。
K家のものたちは四散したが、逃げ遅れた老人と五親等の男子が捕えられ、老人はその場で蹴り殺さ
れた。
後に、中央から派遣された役人が当地に入り、調査したところ、J家の家中で老人の遺体が発見された。
五親等の男子は朴文娘殺しとして捕えられ、そのまま10年以上も家の中の獄につながれていたことがわかった。
され、この事件の結末はどうなっただろうか。
なんと王や大臣たちは、朴文娘の豪胆さをほめ、あっぱれな烈女として表彰したのであった。
朴文娘の墓暴きが対立に火を注いだことを知りながら、この地方の両班知識人たちはその事実を覆い
隠し、彼女の孝徳をひたすら褒め称えたのであった。
事件発生から14年後、墓暴き乱闘事件はこのように幕を閉じた。
2.宗族という異質な社会
さて、この墓暴き乱闘事件は東アジアの伝統社会を物語るものとして、異国のわれわれに最も鮮やか
な印象を与えてくれるのではないかと思われるのである。
そもそも朝鮮社会は、宗族(そうぞく)という細胞の集合体としてある。
宗族とは始祖との血縁的なつながりが記録によって確認できる集団のことであり、その記録を族譜と
いう。
そして同じ一族の中では、どんなに遠縁でも結婚することができない。
それはこれまで、韓国でも頑(かたく)なに守られてきており、「民法809条同姓婚等の禁止」という法律になっていたほどで、反して子をなしてしまった場合、その子らはすべて私生児とされていた(1997年、
憲法裁判所で違憲判決が出、1999年1月に失効した)。
そのような厳しい儒教の世界の話である。
ちなみに彼らにとっての日本人とは、イトコ婚までする野蛮な夷狄(いてき)だということになる。
というわけで、この社会では一族の中で連綿と同じ祖先の血を伝えていかなければならない。
養子もほかの家からとることができない。
では、本家に男の子孫が絶えてしまったときにどうするかというと、分家の後継ぎを連れてきて補填
する。
それでは分家が絶えてしまうではないか、と思われるかもしれない。
だが、それでよいのである。
分家は本家のためにあるのであり、そんなものは二の次だと考える。
なぜ男の血筋を続けなければいけないかといえば、儒教の教義に因っている。
儒教では死んだ後の霊魂はこの世にとどまり、飯を食うのである。
ゆえに、その飯を途切れさせることなく安全に送るために、男の血筋を続けなければならない。
そこで韓国では、男の子孫のないものは、死んでから 「(祖先)祭祀(チェサ)のご飯(パブル)の食べられない(モンモツケツタ)」 奴だと、揶揄されることになっている。
誰もご飯を送ってくれないと、この世で餓鬼になってさまようからである。
これは相当恐れられており、中世では、疫病などが流行り、多くの人が死んで子孫まで死んでしまうと、飯に飢えた餓鬼が大量発生(←ふ、ふるたせんせぇ~www)することを避けるために、国家で死者に
飯をおくる祭りまでした。
これを厲祭(れいさい)という。
この儒教の世界はわれわれの世界とはとても異なっている。
日本では人が死ぬと、あの世へ行くと普通、誰もが思う。
周知のように、仏教ではあの世とこの世を行ったり来たりし、これを輪廻転生という。
したがって本当の仏教には、墓というものがない。
死んでもいつかは戻ってくるので、空っぽになった亡骸はガンジス川やインダス川に流すのである。
仏教で唯一お墓と言えそうなものは、ブッダの舎利を祀った卒塔婆(ストウーパ)のみである。
ところが日本の仏教ではお墓もあるし、仏壇もある。
その上、仏壇にご飯を供えたりする。
じつは、これはインドから仏教が入ってきたときに中国を経由した結果、儒教化した仏教なのである。
日本の仏壇は儒教の祠堂のミニチュアであり、位牌も儒教のものである。
位牌はこの世に残った霊魂がそこに居続けるための依代(よりしろ)としてある。
だから、飯を供えることになっている。
日本の仏教は、そのように儒教化し変形された仏教であることをここで一つ押さえておきたい。
3.靖国の誤解をただす
に続く。
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(1754) 第4章 (1)中世朝鮮の墓暴き乱闘事件 (2)宗族という異質な社会
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