DUFF McKAGAN'S LODED ~ Mothers Day (2009)
永野護著『敗戦真相記』
2002年7月15日発刊
戦争はどのようにして起こったのか (2)
これらの諸事情の第一には、日本の指導者がドイツのものまねをしたということがあげられるでしょう。
明治維新以来の日本の軍閥官僚は、(21) 伊藤博文公の憲法制定をめぐる顛末の一例でもわかる通り、万事、ドイツ本位で進んできておりましたが、近年、軍部が日本の指導勢力を占めるようになって以来、あたかも日本の国情とドイツの国情が符節を合わすように似た関係になっていたものだから、ますますドイツ心酔の傾向が強くなったのです。
すなわち、日本の軍部が先ほど申したように、東洋制覇を目指して、自給自足体制の完成を急いでおったその頃に、ちょうど日本国民が万世一系の天皇を戴いて、世界無比の国体であり、世界で最も優れた忠勇な国民であるというような自負心を持っておったと同じように、ドイツ民族は世界で最も優れた文化を持って、神に選ばれたる民族、いわゆる選民であるという自惚(うぬぼ)れた思想の下に、欧州新秩序の建設という美名を掲げてドイツ民族生活圏確保の侵略戦争に驀進(ばくしん)していたのですが、このドイツの指導者である (22) ヒトラーは日本の指導者とは比較にならないほど卓越した政治的手腕を持っていて、次々と華やかな芝居を打って巧みに人心を収攬(しゅうらん)していきましたので、ただでさえ伝統的にドイツの心酔の根強い軍部は一も二もなく (23) ナチスドイツの真似をするようになり、法律などもそのまま直輸入したのですが、ドイツの物真似をしただけでは物足りず、その弟分のイタリアと一緒になって、3人で兄弟分の盃をしようじゃないかという、いわゆる (24) 三国同盟の提唱を始めるに至りました。
それでも初めのうちはまだ、さすがに日本の指導者の中には、世界の大局が見えるものがあって、この『三国同盟』の提唱に反対しておったから、(25) 平沼騏一郎内閣は 70何回もの閣議を開きながら、ついにその決定を見るに至らなかったが、その次の(26) 近衛文麿内閣になると、ドイツ軍はいわゆる電撃戦術により、疾風枯れ葉を捲く勢いで全欧州を席捲し始めたので、ついに『三国同盟』が単に軍部のみならず、恐らく、当時の国民の大多数の世論として締結されるに至り、日本における英米派の勢力は完全に一掃されてしまった。こうなった以上、英米との戦争はあたかも水の低きに流れるようなものでありまして、もはや何人といえども (27) 頽瀾(たいらん)を既倒(きとう)に返す術もなく、そのまま昭和 16年(1941年)12月 8日の宣戦の御詔勅を拝するに至ったのです。
次に、第二の事情として、軍部が己を知らず、敵を知らなかったことを指摘したいと思います。
元来、戦争というものは洋の東西を問わず、また時の古今を論ぜず、すべてゴカイの産物であると言われております。何人といえども最初から到底勝つ見込みのない戦争を仕掛ける者はないはずで、お互いにどうしても勝つと思い込んだところに戦争は始まるのです。今度の戦争についてみても、英米側は最初からその物量の力に絶対の自信を持ち、日本と戦争して負けるなどとはただの一度だって考えたことはない。むしろ日本があんな貧弱な物的資源をもって本当に戦争をするはずはない、戦争をするというかけ声は外交上の掛け引きにすぎないと最後まで信じていたのです。
これというのも英米は近代科学がいかなるものであるかを熟知していたからであって、例えば (28) リデル・ハートの言うように「最も勇敢な、かつ団結した国民といえども、敵手が決定的に優越した技術的手段を持っていれば、それが自然的な一切の性質に劣っている単なる一団体であっても、これに対抗することはできないであろう。戦闘精神という要因は次第にその重要性が減じつつある」という観察を下していたからであります。すなわち、米英は日本の軍隊の精神力というものも充分に勘定に入れていて、なおかつ、米英の持つ生産力と科学力の上に必勝の確信を持っており、同時に、当然、日本の軍部でもいやしくも近代戦の何物かをわきまえている以上は、この計算を知っているに違いないから、戦争は起こるはずはないと思い込んでいたのであります。
ところが、これに対して日本の軍部は総力戦とか近代戦とかかけ声ばかりしていましたが、その実、依然として日本の軍隊の精神力なるものは英米の物的勢力を征服してあまりあり、と自惚れており、かつて某大将のごときは、竹槍と握り飯とをもって米国を撃滅し得るということを本気になって全国に演説してまわったほどであります。また、米国の水兵のごときは官費で世界の漫遊をするぐらいのつもりで軍艦に乗っているのだから、本当の戦争になったらたちまち水兵たちは姿をくらまして、空き家同然の軍艦ができるだろうという噂すら、真面目に信ぜられておったのです。
このように、日本の軍部が近代戦の実態も英米の実情も知らず、また知ろうともせずして、いたずらに我が民族の精神力なるものを過大評価して、米軍のごときは皇軍の前には鎧袖一触(がいっしゅういっしょく)にも値しないということを信じておったという宿命的なる独断が、この大戦を誘起する有力なる原因をなしていると思います。
およそこの第2次大戦を惹起するには、この種の宿命的なる 3つの見込み違いがあります。第 ① は、日本の支那(中国民国)に対する見込み違いです。はじめ支那事変が発するや、日本は、まさか、こんなえらいことになろうと思わず、上海、南京ぐらい占領すれば、この前(日清戦争)と同じように簡単に事変は収まるだろうと考えておった。これは、全く日本の支那に対する見込み違いで、この結果はとうとう大東亜戦争に発展し、日本の命取りになったのです。
第 ② は、ドイツのソ連に対する見込み違いです。伝えられるがごとく、ヒトラーは確かに 2カ月以内にソ連を征服し得るものと考えていたらしい。これは、戦争の 1 日前までドイツとソ連とは不可侵条約を結んでおり、モスクワにおけるドイツ大使館に大規模な諜報探査機関を設けて、工業援助に名を借りて、ソ連の軍隊、産業、国情のすみずみまで組織的に丹念に調査した材料の上に下された判断だから、絶対に間違いはないと思い込んでいたのでしょう。ところが、これがまたとんでもない見込み違いで、(29) スターリングラードの惨敗を契機としてドイツの命取りになった。
第 ③ は、アメリカの日本に対する見込み違いです。さっき申したように、アメリカは日本が戦争を仕掛けようとは思わなかった。日米交渉の決裂直前の(昭和 1 6年) (30) 11月 26日にアメリカはコンフィデンシャル(秘密)・テンタテ―フ(試案)を通牒してきたのですが、まさか日本政府がこれを強いて最後通牒と解釈して、真珠湾に不意打ちを食らわせようとは思わなかった。ところが、この見込み違いは、前の 2つの場合のように、見込み違いをしたアメリカの命取りとならずに、逆に見込み違いされた日本の敗北によって、支那事変によって口火を切られた第2次大戦の終結になったことは何かそこに非常に運命的なものがあるように感ぜられます。
思うに
・ 第 ① の場合の見込み違いは、日本が支那の民族的統一力に対する計算を誤ったこと、
・ 第 ② の場合はドイツがソ連の共産主義的力量に対する観察を誤ったことに起因するのですが、
・ 第 ③ の場合は、米英が日本はもっと近代戦争に対する理解と準備を有しているだろうという、いわば日本を実際以上に買いかぶった角度からの見込み違いですから、日本軍部の敵を知らず己を知らざりし独善主義が、ここにおいていよいよ明瞭になってくるわけであります。
ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、(31) 幼年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
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【人物・用語解説】
(21) 伊藤博文 (1841―1909)
政治家、初代総理大臣。
長州藩士。松下村塾に学び、1863年(文久 3年)、井上馨とともに渡英。
木戸孝允に従って討幕運動に参加。
明治維新政府では、大蔵小輔兼民部小輔などを務め、1871年(明治 4年)、岩倉具視遣外使節団に参加し、欧米を視察。
1882年(明治 15年)にも渡欧し、プロイセンの憲法や法制度などを調査、帰国後、華族制度や内閣制度の創設、大日本帝国憲法や皇室典範の制定などに尽力。
1885年(明治 19年)、初代内閣総理大臣に就任。
日露戦争後、1906年(明治 39年)、『日韓協約』 を結び、初代韓国統監となる。
1909年(明治 42年)10月 26日、中国・黒竜江省のハルビン駅で朝鮮独立運動家である安重根に暗殺された。
(22) アドルフ・ヒトラー (1889―1945)
ドイツの政治家。オーストリア生まれ。
ウィーン美術学校入学を目指すが果たせず、ドイツに移住、第 1 次世界大戦に志願して出征。
1919年、ドイツ労働党(1920年にナチス=国家社会主義ドイツ労働党=に改称)に入党。
1921年、ナチスの党首・総裁に就任。
1923年、ルーデンドルフ将軍ともにバイエンルン州政府転覆を図った 「ミュンヘン一揆」を起こしたが、失敗、逮捕され、獄中で『わが闘争』を書き上げた。
出所後は、選挙によって合法的な党勢拡大をはかり、1933年、首相に就任。
1934年には首相と大統領を兼務した総統(フューラー)となり、「第三帝国」といわれるナチス独裁体制を確立した。
ゲルマン民族の優越性を主張し、対外的には強硬・軍拡路線を推進。
1935年、『ベルサイユ条約』を破棄。
1937年に『日独伊防共協定』、1939年には『独ソ不可侵条約』を締結した。
同 9月、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦の火ぶたを切って落とす。
1940年 6月には仏パリに無血入城。
1941年にはソ連を奇襲攻撃、一時はモスクワに迫るなど、欧州全域で優勢を誇っていたが、1943年、スターリングラードの攻防に敗れて以降、敗色が濃くなり、1944年 6月には連合軍が仏ノルマンディーに上陸。
1945年 4月 30日、ソ連によって包囲されたベルリンの地下壕で前日に正式結婚したばかりのエバ・ブラウンと共に自殺。
同 5月 7日、ドイツの無条件降伏により、第三帝国は滅亡した。
(23) ナチス
「国家社会主義ドイツ労働者党」。「国民社会主義ドイツ労働者党」とも訳される。
1919年、ドイツ・ミュンヘンで、「ドイツ労働者党」として結成される。
1920年、『ナチス」に改称。
1921年からヒトラーが党首・総裁となり、暴力的な街頭闘争を展開、1923年、「ミュンヘン一揆」に失敗、ヒトラーは投獄、非合法化されるが、1925年に再建され、合法的な大衆運動へ路線転換。
大恐慌による社会的・経済的不安を背景に党勢を拡大、国防軍や産業界の支持も得て、1932年に国会第一党、1933年にヒトラーが首相となり、政権獲得。
その後は他政党を弾圧、一党独裁体制を確立し再軍備を進める。
第二次大戦に敗れて壊滅。
(24) 日独伊三国同盟
1940年(昭和 15年)9月、ドイツ・ベルリンのヒトラー総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの 3カ国による軍事同盟条約。
日独ともに米国の参戦を防ぐことを狙いとしていたが、この同盟によって、日米関係はさらに悪化、第2次世界大戦への道を歩むことになった。
(25) 平沼騏一郎 (1867―1952)
政治家、司法官僚。美作国(岡山県)津山藩生まれ、東京帝国大学卒業。
1988年(明治 21年)、司法省に入省し、1910年(明治 43年) の大逆事件では主任検事を務め、1912年(大正元年)から検事総長を務めるなど、司法界の重鎮。
第二次山本権兵衛内閣の法相。
1924年(大正 13年)に国家主義団体「国本社」を主宰。
1936年(昭和 11年)、国本社会長を辞任して枢密院議長。
1939年(昭和 14年)1 月、内閣首班、同年 8月、『独ソ不可侵条約』締結に「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職。
第二次・第三次近衛文麿内閣の国務相。
戦後、A 級戦犯として終身禁固刑。
(26) 近衛文麿 (1891―1945)
政治家。名門貴族、近衛家の出身で公爵。東京生まれで、京都帝国大学卒業。
1933年(昭和 8年)、貴族院議長。
1937年(昭和 12年)6月、第一次近衛内閣祖組閣。
軍部に押されて「支那事変(日中戦争)」を起こしたときに「国民政府を相手にせず」という声明を出して戦争を長期化させ、1939年(昭和 14年)7月に成立した第三次近衛内閣では日米交渉問題や東条英機との対立から、同 10月に総辞職。
後継は東条内閣。
敗戦後の東久邇内閣で国務相として憲法改正案の起草にも関係したが、戦犯容疑者に指名され、逮捕前に服毒自殺。
(27) 頽瀾(たいらん)を既倒(きとう)に返す
「狂瀾を既倒に廻らす」と同じ。荒れ狂う大波はもとに戻すことはできない。
時世の流れが傾いてしまっているのを、再び、もとの状態に回復する方法はないという意味。
(28) リデル・ハート (1895―1970)
英国の軍事評論家・軍事史家。
ケンブリッジ大学在学中に第一次世界大戦が勃発。陸軍に志願して従軍し負傷。
1927年、陸軍大尉で退役し、軍事研究に取り組む。
戦車など機械化された部隊の重要性を強調、正面衝突を避けてスピードを活かして機動的に展開する「間接アプローチ戦略論」の創始者として知られる。
1937年から 1938年にかけて陸軍大臣顧問となり、英国陸軍の近代化に努めた。
ただ、この理論の正しさを実証したのは、第2次世界大戦初期のドイツ軍で、1940年のフランス西部戦線、オランダ侵攻、ベルギー侵攻などの電撃作戦を成功させた。
著書に、『戦略論-間接アプローチ』『第一次世界大戦』『第二次世界大戦』などがある。
(29) スターリングラードの惨敗=スターリングラードの戦い
第2次世界大戦の帰趨を決めたスターリングラード(現在の地名はボルゴグラード)をめぐる〔ドイツ〕と〔ソ連〕の攻防戦。
1942年 8月、ドイツ軍はソ連南部の工業都市スターリングラードの攻撃を開始。
9月に占領したが、同年 11 月、反攻に出たソ連軍がドイツ軍 33万人を包囲。
以後、大戦中最大の激戦となるが、武器・弾薬・食糧の補給を断たれたドイツ軍はロシアの厳寒の中で力尽き
1943年 1 月 31日に降伏、2月 2日に戦闘は終結した。
(30) 11月 26日にアメリカはコンフィデンシャル・テンタテーフを通牒してきた
1941年(昭和 16年)、日米交渉の最終段階で、米国のハル国務長官が提案した文書、「ハル・ノート」のこと。
日本、米国、英国、ソ連、オランダ、中国による『相互不可侵条約』の締結、中国・仏印からの日本軍撤退、重慶にある国民政府の支持などを提案したが、東条内閣は米国の「最後通牒」と解釈して、同年 12月 1 日の御前会議で対米開戦を決める。
(31) 幼年学校=陸軍幼年学校
陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリート教育機関。
満 13歳から 15歳までの 3年教育。年齢的には中学に相当。
前身は 1870年(明治 3年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。
1872年(明治 5年)、陸軍幼年学校に改称。
東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の 6校があり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。
幼年学校、士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。
1945年(昭和 20年)、敗戦で廃校。
2002年7月15日発刊
戦争はどのようにして起こったのか (2)
これらの諸事情の第一には、日本の指導者がドイツのものまねをしたということがあげられるでしょう。
明治維新以来の日本の軍閥官僚は、(21) 伊藤博文公の憲法制定をめぐる顛末の一例でもわかる通り、万事、ドイツ本位で進んできておりましたが、近年、軍部が日本の指導勢力を占めるようになって以来、あたかも日本の国情とドイツの国情が符節を合わすように似た関係になっていたものだから、ますますドイツ心酔の傾向が強くなったのです。
すなわち、日本の軍部が先ほど申したように、東洋制覇を目指して、自給自足体制の完成を急いでおったその頃に、ちょうど日本国民が万世一系の天皇を戴いて、世界無比の国体であり、世界で最も優れた忠勇な国民であるというような自負心を持っておったと同じように、ドイツ民族は世界で最も優れた文化を持って、神に選ばれたる民族、いわゆる選民であるという自惚(うぬぼ)れた思想の下に、欧州新秩序の建設という美名を掲げてドイツ民族生活圏確保の侵略戦争に驀進(ばくしん)していたのですが、このドイツの指導者である (22) ヒトラーは日本の指導者とは比較にならないほど卓越した政治的手腕を持っていて、次々と華やかな芝居を打って巧みに人心を収攬(しゅうらん)していきましたので、ただでさえ伝統的にドイツの心酔の根強い軍部は一も二もなく (23) ナチスドイツの真似をするようになり、法律などもそのまま直輸入したのですが、ドイツの物真似をしただけでは物足りず、その弟分のイタリアと一緒になって、3人で兄弟分の盃をしようじゃないかという、いわゆる (24) 三国同盟の提唱を始めるに至りました。
それでも初めのうちはまだ、さすがに日本の指導者の中には、世界の大局が見えるものがあって、この『三国同盟』の提唱に反対しておったから、(25) 平沼騏一郎内閣は 70何回もの閣議を開きながら、ついにその決定を見るに至らなかったが、その次の(26) 近衛文麿内閣になると、ドイツ軍はいわゆる電撃戦術により、疾風枯れ葉を捲く勢いで全欧州を席捲し始めたので、ついに『三国同盟』が単に軍部のみならず、恐らく、当時の国民の大多数の世論として締結されるに至り、日本における英米派の勢力は完全に一掃されてしまった。こうなった以上、英米との戦争はあたかも水の低きに流れるようなものでありまして、もはや何人といえども (27) 頽瀾(たいらん)を既倒(きとう)に返す術もなく、そのまま昭和 16年(1941年)12月 8日の宣戦の御詔勅を拝するに至ったのです。
次に、第二の事情として、軍部が己を知らず、敵を知らなかったことを指摘したいと思います。
元来、戦争というものは洋の東西を問わず、また時の古今を論ぜず、すべてゴカイの産物であると言われております。何人といえども最初から到底勝つ見込みのない戦争を仕掛ける者はないはずで、お互いにどうしても勝つと思い込んだところに戦争は始まるのです。今度の戦争についてみても、英米側は最初からその物量の力に絶対の自信を持ち、日本と戦争して負けるなどとはただの一度だって考えたことはない。むしろ日本があんな貧弱な物的資源をもって本当に戦争をするはずはない、戦争をするというかけ声は外交上の掛け引きにすぎないと最後まで信じていたのです。
これというのも英米は近代科学がいかなるものであるかを熟知していたからであって、例えば (28) リデル・ハートの言うように「最も勇敢な、かつ団結した国民といえども、敵手が決定的に優越した技術的手段を持っていれば、それが自然的な一切の性質に劣っている単なる一団体であっても、これに対抗することはできないであろう。戦闘精神という要因は次第にその重要性が減じつつある」という観察を下していたからであります。すなわち、米英は日本の軍隊の精神力というものも充分に勘定に入れていて、なおかつ、米英の持つ生産力と科学力の上に必勝の確信を持っており、同時に、当然、日本の軍部でもいやしくも近代戦の何物かをわきまえている以上は、この計算を知っているに違いないから、戦争は起こるはずはないと思い込んでいたのであります。
ところが、これに対して日本の軍部は総力戦とか近代戦とかかけ声ばかりしていましたが、その実、依然として日本の軍隊の精神力なるものは英米の物的勢力を征服してあまりあり、と自惚れており、かつて某大将のごときは、竹槍と握り飯とをもって米国を撃滅し得るということを本気になって全国に演説してまわったほどであります。また、米国の水兵のごときは官費で世界の漫遊をするぐらいのつもりで軍艦に乗っているのだから、本当の戦争になったらたちまち水兵たちは姿をくらまして、空き家同然の軍艦ができるだろうという噂すら、真面目に信ぜられておったのです。
このように、日本の軍部が近代戦の実態も英米の実情も知らず、また知ろうともせずして、いたずらに我が民族の精神力なるものを過大評価して、米軍のごときは皇軍の前には鎧袖一触(がいっしゅういっしょく)にも値しないということを信じておったという宿命的なる独断が、この大戦を誘起する有力なる原因をなしていると思います。
およそこの第2次大戦を惹起するには、この種の宿命的なる 3つの見込み違いがあります。第 ① は、日本の支那(中国民国)に対する見込み違いです。はじめ支那事変が発するや、日本は、まさか、こんなえらいことになろうと思わず、上海、南京ぐらい占領すれば、この前(日清戦争)と同じように簡単に事変は収まるだろうと考えておった。これは、全く日本の支那に対する見込み違いで、この結果はとうとう大東亜戦争に発展し、日本の命取りになったのです。
第 ② は、ドイツのソ連に対する見込み違いです。伝えられるがごとく、ヒトラーは確かに 2カ月以内にソ連を征服し得るものと考えていたらしい。これは、戦争の 1 日前までドイツとソ連とは不可侵条約を結んでおり、モスクワにおけるドイツ大使館に大規模な諜報探査機関を設けて、工業援助に名を借りて、ソ連の軍隊、産業、国情のすみずみまで組織的に丹念に調査した材料の上に下された判断だから、絶対に間違いはないと思い込んでいたのでしょう。ところが、これがまたとんでもない見込み違いで、(29) スターリングラードの惨敗を契機としてドイツの命取りになった。
第 ③ は、アメリカの日本に対する見込み違いです。さっき申したように、アメリカは日本が戦争を仕掛けようとは思わなかった。日米交渉の決裂直前の(昭和 1 6年) (30) 11月 26日にアメリカはコンフィデンシャル(秘密)・テンタテ―フ(試案)を通牒してきたのですが、まさか日本政府がこれを強いて最後通牒と解釈して、真珠湾に不意打ちを食らわせようとは思わなかった。ところが、この見込み違いは、前の 2つの場合のように、見込み違いをしたアメリカの命取りとならずに、逆に見込み違いされた日本の敗北によって、支那事変によって口火を切られた第2次大戦の終結になったことは何かそこに非常に運命的なものがあるように感ぜられます。
思うに
・ 第 ① の場合の見込み違いは、日本が支那の民族的統一力に対する計算を誤ったこと、
・ 第 ② の場合はドイツがソ連の共産主義的力量に対する観察を誤ったことに起因するのですが、
・ 第 ③ の場合は、米英が日本はもっと近代戦争に対する理解と準備を有しているだろうという、いわば日本を実際以上に買いかぶった角度からの見込み違いですから、日本軍部の敵を知らず己を知らざりし独善主義が、ここにおいていよいよ明瞭になってくるわけであります。
ところで、ついに今日の事態を招いた日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、(31) 幼年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見せざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいくらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
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永野 護『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
(21) 伊藤博文 (1841―1909)
政治家、初代総理大臣。
長州藩士。松下村塾に学び、1863年(文久 3年)、井上馨とともに渡英。
木戸孝允に従って討幕運動に参加。
明治維新政府では、大蔵小輔兼民部小輔などを務め、1871年(明治 4年)、岩倉具視遣外使節団に参加し、欧米を視察。
1882年(明治 15年)にも渡欧し、プロイセンの憲法や法制度などを調査、帰国後、華族制度や内閣制度の創設、大日本帝国憲法や皇室典範の制定などに尽力。
1885年(明治 19年)、初代内閣総理大臣に就任。
日露戦争後、1906年(明治 39年)、『日韓協約』 を結び、初代韓国統監となる。
1909年(明治 42年)10月 26日、中国・黒竜江省のハルビン駅で朝鮮独立運動家である安重根に暗殺された。
(22) アドルフ・ヒトラー (1889―1945)
ドイツの政治家。オーストリア生まれ。
ウィーン美術学校入学を目指すが果たせず、ドイツに移住、第 1 次世界大戦に志願して出征。
1919年、ドイツ労働党(1920年にナチス=国家社会主義ドイツ労働党=に改称)に入党。
1921年、ナチスの党首・総裁に就任。
1923年、ルーデンドルフ将軍ともにバイエンルン州政府転覆を図った 「ミュンヘン一揆」を起こしたが、失敗、逮捕され、獄中で『わが闘争』を書き上げた。
出所後は、選挙によって合法的な党勢拡大をはかり、1933年、首相に就任。
1934年には首相と大統領を兼務した総統(フューラー)となり、「第三帝国」といわれるナチス独裁体制を確立した。
ゲルマン民族の優越性を主張し、対外的には強硬・軍拡路線を推進。
1935年、『ベルサイユ条約』を破棄。
1937年に『日独伊防共協定』、1939年には『独ソ不可侵条約』を締結した。
同 9月、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦の火ぶたを切って落とす。
1940年 6月には仏パリに無血入城。
1941年にはソ連を奇襲攻撃、一時はモスクワに迫るなど、欧州全域で優勢を誇っていたが、1943年、スターリングラードの攻防に敗れて以降、敗色が濃くなり、1944年 6月には連合軍が仏ノルマンディーに上陸。
1945年 4月 30日、ソ連によって包囲されたベルリンの地下壕で前日に正式結婚したばかりのエバ・ブラウンと共に自殺。
同 5月 7日、ドイツの無条件降伏により、第三帝国は滅亡した。
(23) ナチス
「国家社会主義ドイツ労働者党」。「国民社会主義ドイツ労働者党」とも訳される。
1919年、ドイツ・ミュンヘンで、「ドイツ労働者党」として結成される。
1920年、『ナチス」に改称。
1921年からヒトラーが党首・総裁となり、暴力的な街頭闘争を展開、1923年、「ミュンヘン一揆」に失敗、ヒトラーは投獄、非合法化されるが、1925年に再建され、合法的な大衆運動へ路線転換。
大恐慌による社会的・経済的不安を背景に党勢を拡大、国防軍や産業界の支持も得て、1932年に国会第一党、1933年にヒトラーが首相となり、政権獲得。
その後は他政党を弾圧、一党独裁体制を確立し再軍備を進める。
第二次大戦に敗れて壊滅。
(24) 日独伊三国同盟
1940年(昭和 15年)9月、ドイツ・ベルリンのヒトラー総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの 3カ国による軍事同盟条約。
日独ともに米国の参戦を防ぐことを狙いとしていたが、この同盟によって、日米関係はさらに悪化、第2次世界大戦への道を歩むことになった。
(25) 平沼騏一郎 (1867―1952)
政治家、司法官僚。美作国(岡山県)津山藩生まれ、東京帝国大学卒業。
1988年(明治 21年)、司法省に入省し、1910年(明治 43年) の大逆事件では主任検事を務め、1912年(大正元年)から検事総長を務めるなど、司法界の重鎮。
第二次山本権兵衛内閣の法相。
1924年(大正 13年)に国家主義団体「国本社」を主宰。
1936年(昭和 11年)、国本社会長を辞任して枢密院議長。
1939年(昭和 14年)1 月、内閣首班、同年 8月、『独ソ不可侵条約』締結に「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職。
第二次・第三次近衛文麿内閣の国務相。
戦後、A 級戦犯として終身禁固刑。
(26) 近衛文麿 (1891―1945)
政治家。名門貴族、近衛家の出身で公爵。東京生まれで、京都帝国大学卒業。
1933年(昭和 8年)、貴族院議長。
1937年(昭和 12年)6月、第一次近衛内閣祖組閣。
軍部に押されて「支那事変(日中戦争)」を起こしたときに「国民政府を相手にせず」という声明を出して戦争を長期化させ、1939年(昭和 14年)7月に成立した第三次近衛内閣では日米交渉問題や東条英機との対立から、同 10月に総辞職。
後継は東条内閣。
敗戦後の東久邇内閣で国務相として憲法改正案の起草にも関係したが、戦犯容疑者に指名され、逮捕前に服毒自殺。
(27) 頽瀾(たいらん)を既倒(きとう)に返す
「狂瀾を既倒に廻らす」と同じ。荒れ狂う大波はもとに戻すことはできない。
時世の流れが傾いてしまっているのを、再び、もとの状態に回復する方法はないという意味。
(28) リデル・ハート (1895―1970)
英国の軍事評論家・軍事史家。
ケンブリッジ大学在学中に第一次世界大戦が勃発。陸軍に志願して従軍し負傷。
1927年、陸軍大尉で退役し、軍事研究に取り組む。
戦車など機械化された部隊の重要性を強調、正面衝突を避けてスピードを活かして機動的に展開する「間接アプローチ戦略論」の創始者として知られる。
1937年から 1938年にかけて陸軍大臣顧問となり、英国陸軍の近代化に努めた。
ただ、この理論の正しさを実証したのは、第2次世界大戦初期のドイツ軍で、1940年のフランス西部戦線、オランダ侵攻、ベルギー侵攻などの電撃作戦を成功させた。
著書に、『戦略論-間接アプローチ』『第一次世界大戦』『第二次世界大戦』などがある。
(29) スターリングラードの惨敗=スターリングラードの戦い
第2次世界大戦の帰趨を決めたスターリングラード(現在の地名はボルゴグラード)をめぐる〔ドイツ〕と〔ソ連〕の攻防戦。
1942年 8月、ドイツ軍はソ連南部の工業都市スターリングラードの攻撃を開始。
9月に占領したが、同年 11 月、反攻に出たソ連軍がドイツ軍 33万人を包囲。
以後、大戦中最大の激戦となるが、武器・弾薬・食糧の補給を断たれたドイツ軍はロシアの厳寒の中で力尽き
1943年 1 月 31日に降伏、2月 2日に戦闘は終結した。
(30) 11月 26日にアメリカはコンフィデンシャル・テンタテーフを通牒してきた
1941年(昭和 16年)、日米交渉の最終段階で、米国のハル国務長官が提案した文書、「ハル・ノート」のこと。
日本、米国、英国、ソ連、オランダ、中国による『相互不可侵条約』の締結、中国・仏印からの日本軍撤退、重慶にある国民政府の支持などを提案したが、東条内閣は米国の「最後通牒」と解釈して、同年 12月 1 日の御前会議で対米開戦を決める。
(31) 幼年学校=陸軍幼年学校
陸軍将校を目指す少年に軍事教育を施すエリート教育機関。
満 13歳から 15歳までの 3年教育。年齢的には中学に相当。
前身は 1870年(明治 3年)、大阪兵学寮内に設置された幼年校舎。
1872年(明治 5年)、陸軍幼年学校に改称。
東京、大阪、名古屋、仙台、広島、熊本の 6校があり、卒業後は陸軍士官学校予科に進んだ。
幼年学校、士官学校、陸軍大学校と進むのが陸軍のエリートコースといわれた。
1945年(昭和 20年)、敗戦で廃校。
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ちょっとおしゃべり
文中にある〔幼年校〕は、ビックリするほどパキスタンの作った神学校を思わせます。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻以来、多くの難民が、地続きの隣国に戦火を逃れて行きました。特にパキスタン西部には、アフガニスタンの最大民族パシュトゥン人と同じ民族が住んでいたので、多くの難民がやって来ました。
パキスタン政府は、この難民の子供達に目をつけました。難民キャンプのそばに神学校(マドラサ)を次々に建てて、そこで、極端に曲解したイスラム教を教え込みました。
多くが全寮制で、男子だけが対象でした。家族から離れて学校に入った者もいましたが、多くは孤児達でした。
パキスタン政府は、この神学校で、生徒達をムジャヒディン(イスラム聖戦士)に育てあげたのです。そして、反ソ連のゲリラ戦士として、アフガニスタンに送り込んだのです。
〔タリバン〕とはアラビア語で〔タリブ=神学生〕の複数形です。この詳細もそのうち書き写しますね。
親の愛も知らず、異性のことも知らず、ひたすら極端に曲解した神の教えを叩き込まれた聖戦士達は、今、パキスタンでも脅威となっています。
◆ タリバン
(natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-894.html )
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ちょっとおしゃべり
文中にある〔幼年校〕は、ビックリするほどパキスタンの作った神学校を思わせます。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻以来、多くの難民が、地続きの隣国に戦火を逃れて行きました。特にパキスタン西部には、アフガニスタンの最大民族パシュトゥン人と同じ民族が住んでいたので、多くの難民がやって来ました。
パキスタン政府は、この難民の子供達に目をつけました。難民キャンプのそばに神学校(マドラサ)を次々に建てて、そこで、極端に曲解したイスラム教を教え込みました。
多くが全寮制で、男子だけが対象でした。家族から離れて学校に入った者もいましたが、多くは孤児達でした。
パキスタン政府は、この神学校で、生徒達をムジャヒディン(イスラム聖戦士)に育てあげたのです。そして、反ソ連のゲリラ戦士として、アフガニスタンに送り込んだのです。
〔タリバン〕とはアラビア語で〔タリブ=神学生〕の複数形です。この詳細もそのうち書き写しますね。
親の愛も知らず、異性のことも知らず、ひたすら極端に曲解した神の教えを叩き込まれた聖戦士達は、今、パキスタンでも脅威となっています。
◆ タリバン
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この記事は2009年11月28日保存の再投稿です。
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