THE PASSENGERS (BONO, BRIAN ENO and PAVAROTTI)
~ Miss Serajevo (1997)
永野護著『敗戦真相記』
2002年7月15日発刊
戦争はどのようにして起こったのか (3)
第 3の事情として、世論本位の政治を行わざりしことを挙げたいと思います。すでにドイツの戦勝に眩惑せられたうえに、我が兵力を過信した日本の軍部が広く天下の世論を聞く余裕を持たず、ひたすらに戦争遂行に邁進したのは当然であります。特に、いわゆる (32) 5.15事件、(33) 2.26事件以後には、従来日本の指導的立場にあった上層階級のいわゆる穏健層の人々は全く口を封ぜられてしまい、自由に国策を討論すべき責任と権限とを有しておる議会人すら、政府の鼻息を窺う一途に退けられてしまい、また、社会の木鐸(ぼくたく)と自認する新聞、雑誌も戦争に対する一切の主張を封じられてしまったのであります。さらに、東条内閣が成立するとともに、いわゆる憲兵政治が非常に目立ってきて、日本国民は上下を挙げて四六時中、憲兵の監視のもとに生活するような重苦しい気分となり、いわゆる、触らぬ神に祟りなし、という気持になったことが敗因の 1 つです。
もちろん、中には敢然と軍部を論難しようとした憂国の士もないではなかったのですが、この人たちはいわば口を開くか開かないうちに憲兵政治の苛酷な弾圧下に打ちひしがれたのです。例えば福岡県選出代議士の (34) 吉田敬太郎君のごときは、ある演説会で反東条の演説をしたという嫌疑ですぐ引っ張られ、軍法会議で 3年間の体刑に処せられたという事実があります。軍法会議は一審限りであり、非公開で、弁護人も付さない、そして戦争妨害という大義名分を頭から振りかざすのですから何人も屏息(へいそく)せざるを得ません。
このような憲兵政治によって弾圧されたのは、ひとり代議士や民間人ばかりでなく、軍人の中でも反東条と目されているものは遠慮なくやられている。これには、最前線に送るという有効な手があり、東条一派に反対するものは、いずれも玉砕と決まったような戦線に送られてしまったという噂があります。そこで各戦区の司令官はいずれも多かれ少なかれ反東条の色彩を帯びていたといわれている。しかし戦争であり、陛下の御命令という以上、どうすることもできない。そして内地や中央はほとんど東条私兵でかためてしまっというのですが、これでは本当の戦争ができようはずはありません。
また、この応召という手はしばしば民間人を威嚇するためにも用いられたといわれ、某省の次官までした某工学博士も一時、反軍的とにらまれて、北支(中国北部)に一兵卒として追いやられてしまったと伝えられています。この人は、ラジオロケーターの権威で、当時一生懸命にラジオロケーターを研究していたのですが、軍部に気に入らぬと、ラジオロケーターも工学博士もあったものではない、直ちに報復的に一兵卒にされたというのですが、真偽のほどは保障の限りではありません。しかし、こういう噂というものは、その噂自体の真偽よりも、そういう噂を生み出す雰囲気のほうに重点を置いて取り扱ってしかるべきだと思います。
また重臣方面に対しても、各種の手段で軍は押さえつけていた。例えば現在(昭和 20年 9月)の外務大臣、(35) 吉田茂氏は反戦的な言辞を弄したという理由で、終戦直前まで憲兵隊の留置場につながれいたのは、周知の通りですが、憲兵政治はこれを機として、吉田氏の邸に会合する重臣連を一網打尽に押さえつけようと準備していたといわれています。これはいわば第二の朝飯会ともいうべきもので、戦況、日に非なるを憂え、一日も速やかに戦争終結の機会をつかまんとした重臣たちが、吉田邸にときどき会合していたのですが、いったい、どうしてそれが憲兵隊に漏れたものか、さっぱりわからなかったが、だんだん日が経つにつれて、スパイは吉田氏が日常目をかけてやった同邸の書生だと判明して、関係者一同、唖然としたという話です。
憲兵隊の手がもう少し伸びると、(36) 広田弘毅、(37) 幣原喜重郎、(38) 岡田啓介、(39) 鈴木貫太郎の諸氏なども吉田氏と同様、反戦の名目で押さえてしまい、日本を名実ともに軍部一色化し、いわゆる本土決戦で 7千万国民を最後まで道連れにする計画だったのが、その危うい直前に (40) 「万世のために泰平を開く」の御聖断が下されたわけであります。
以上の 2、3 の実例によっても、日本に世論本位の政治が行われざりしこと、また、何故に行われざりしか、その裏面の消息を窺うに足るものと信じます。
そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べたような諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして、建国 3千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わいわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。
これは必ずしも、(41) 北条時宗の故事に遡らずとも、(明治)維新当時、日本の各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば、一人の (42) 西郷隆盛、一人の (43) 木戸孝允、一人の (44) 大久保利通のごとき大人物が現存しておったなら、否、それほどの人物でなくても、せめて日清、日露の戦役当時の (21) 伊東博文、(45) 山県有朋のごとき政治家、また軍人とすれば、陸軍の (13) 児玉源太郎、(46) 大山巌、海軍の(47) 山本権兵衛、(48) 東郷平八郎大将のごとき人物がおったならば、さらにもっと降って、せめて (49) 加藤高明、(50) 原敬、あるいは一人の (51) 山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴史は書き換えられておったろうと思われるのです。
支那事変から大東亜戦争を通じて、日本の代表的政治家は曰く (26) 近衛文麿、曰く (18) 東条英機、曰く (52) 小磯国昭、曰くなにがしであり、これを米国の (53) ルーズベルト、英国の (54) チャーチル、支那の (55) 蒋介石、ソ連の (56) スターリン、ドイツの (22) ヒトラー、イタリアの (57) ムッソリーニなど、いずれも世界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致してみると、千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう。
また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では (58) 住井某、三菱財閥では(59) 船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これを一昔前の (60) 渋沢栄一、(61) 井上準之助などに比べると、いかにも見劣りせざるを得ない。その他、政党方面に誰がいるか、言論文化の方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であり、そのために本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引っ張って行く一つの大きな原因になったと思われます。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
(32) 5.15事件
1932年(昭和 7年)5月 15日、海軍の青年将校が陸軍士官学校生徒などと起こしたクーデター事件。
首相官邸、内大臣牧野伸顕邸、政友会本部、警視庁、日本銀行などを襲撃、犬養首相を 「問答無用」 と射殺した。
一方、右翼の橘孝三郎が主宰する愛郷塾生を中心とする農民決死隊は変電所を破壊、東京を闇黒化し、戒厳令を布告させようとしたが、失敗。
この事件によって政党内閣は終わりを告げ、斎藤実首相による挙国一致内閣が生まれる。
民間人の橘孝三郎は無期懲役だったが、軍法会議で禁固 15年 という軽い判決となった。
(33) 2.26事件
1936年(昭和 11 年)2月 26未明、皇道派の陸軍青年将校が約 1,400人の下士官、兵を率いて起こしたクーデター。
経済不振や農村の疲弊が続く中で、「昭和維新」の実現を目指して蜂起。
斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を射殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、陸軍省、参謀本部、首相官邸、国会など、永田町、三宅坂一帯を占拠した。
翌 27 日に戒厳令が布告され、28 日に天皇による原隊復帰の命令が出され、29日には鎮圧される。
特設軍事法廷によって、首謀者の将校と、理論的指導者だった北一輝が死刑に。
この事件によって、陸軍では皇道派が処分され、統制派が実権を握ると共に、軍の政治的発言力が増していった。
(34) 吉田敬太郎 (1899―1988)
政治家・宗教家。
東京商大卒業後、三菱金属工業、大倉高商講師などを経て、1936年、九州石油を設立。
1942年、衆議院議員。
東条首相を批判したために憲兵隊に逮捕され、軍法会議にかけられ投獄される。
連日の拷問に耐えながら、獄中でクリスチャンとなり、半年後に出獄すると牧師に。
1951年、若松市長に当選。北九州市発足で初代市長となる。
著書に 『獄中記』 『汝復讐するなかれ』 などがある。
(35) 吉田 茂 (1878―1967)
外交官・政治家。東京大学を卒業後、1906年(明治 39年)、外務省に入省。
パリ講和会議全権随員、奉天総領事、外務次官、駐イタリア大使、駐英大使などを歴任。
第二次世界大戦中は自由主義者、親米親英派とみられ、憲兵隊に逮捕されたこともある。
敗戦後は、1945年(昭和 20年)8月の東久邇稔彦、10月の幣原喜重郎両内閣で外務大臣を務め、1946年(昭和 21年)、鳩山一郎の公職追放の跡を受けて自由党総裁に就任し、第一次吉田内閣を組閣、『日本国憲法』を制定。
1947年(昭和 22年)、選挙で自由党が第二党になり、退陣。
1948年(昭和 23年)10月、芦田均内閣が倒れ、第二次吉田内閣を組閣。
その後、1954年(昭和 29年)まで長期政権を樹立。
1951年(昭和 26年)、サンフランシスコ講和会議で、『サンフランシスコ講和条約』と『日米安全保障条約』を締結。
池田隼人、佐藤栄作など官僚を政界に送り込み、「吉田学校」といわれるほどの人脈を構築、引退後も元老的存在として、政府、自民党に影響力を保ち続けた。
著書に『回想 10年』『大磯随想』『世界と日本』などがある。
(36) 広田弘毅 (1878―1948)
外交官・政治家。福岡県生まれ、東京大学を卒業後、外務省に入省。
欧米局長、駐オランダ公使、註ソ連大使などを経て、1933年(昭和 8年)以降、斎藤実、岡田啓介両内閣で外務大臣を務める。
1936年(昭和 11 年)の 2.26事件後、広田内閣を組閣。
陸海軍大臣の現役武官制を復活、『日独防共協定』を締結するが、翌 1937年(昭和 12年)1月に総辞職。
同年 6月、第一次近衛文麿内閣で外務大臣となり、対中強硬路線をとり、日中戦争(支那事変)の長期化を招いた。
1938年(昭和 13年)、外相を辞任。
1945年(昭和 20年)、ソ連に和平の仲介を工作したが、失敗。
戦後は A級戦犯に指名され、極東国際軍事裁判で分館中ただ一人死刑判決を受けた。
東京裁判(極東国際軍事裁判)における他の戦犯と同様に名誉の回復がなされている。
(37) 幣原喜重郎 (1872―1951)
外交官・政治家。大阪生まれ、東京大学卒業後、外務省に入省。
外務次官、駐米大使などを経て、1924年(大正 13年)、加藤高明内閣で外務大臣に。
第一次若槻礼次郎、浜口雄幸、第二次若槻内閣でも外務大臣を務め、英米協調主義、中国内政不干渉主義の外交を打ち出し、1930年(昭和 5年)、『ロンドン軍縮条約』を成立させたが、軍部・右翼からは「軟弱外交」と非難を浴びる。
1931年(昭和 6年)、満州事変の事態収拾に失敗して外務大臣を辞職。
政界を引退するが、戦後、1945年(昭和 20年)10月に東久邇内閣の跡を受けて幣原内閣を組閣。
1946年(昭和 21年)の天皇人間宣言の起草など、天皇制存続に尽力。
その後、進歩党総裁、衆議院議長などを務めた。
著書に『外交 50年』などがある。
(38) 岡田啓介 (1868―1952)
海軍軍人・政治家。
福井県生まれ、海軍大学校卒業。
海軍省人事局長、艦政本部長などを経て海軍次官。
1927年(昭和 2年)から田中義一内閣と斎藤実内閣で海軍大臣を務める。
浜口内閣時代のロンドン軍縮会議では、軍事参議官として海軍内部のとりまとめに尽力し、条約成立を助けた。
1934年(昭和 9年)、岡田内閣を組閣。
1936年(昭和 11年)、2.26事件では青年将校の襲撃を受けたが、危うく難を逃れる。
1944年(昭和 19年)には東条内閣打倒工作の中心的役割を担った。
(39) 鈴木貫太郎 (1867―1948)
海軍軍人・政治家。
和泉国(大阪府)生まれ、海軍大学校卒業。
日清・日露戦争に参加。
海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官、軍令部長などを経て、1929年(昭和 4年)、昭和天皇の侍従長に就任したが、1936年(昭和 11年)、2.26事件で青年将校の襲撃を受けて重傷を負い辞職。
1944年(昭和 19年)、枢密院議長。
1945年(昭和 20年)4月、鈴木内閣を組閣。
本土決戦を主張する主戦派を抑え、最終的に『ポツダム宣言受諾』へと至った。
同年 8月 15日、終戦詔勅放送後、内閣総辞職。
著書に『鈴木貫太郎自伝』。
(40) 「万世のために泰平を開く」
1945年(昭和 20年)8月 15日の玉音放送で伝えられた、昭和天皇による「終戦の詔勅」の一節。
「朕は時運のおもむくところ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために泰平を開かんと欲す」。
(41) 北条時宗 (1251―1284)
鎌倉幕府の第 8代執権。北条時頼の嫡子。通称、相模太郎。
1268年(文永 5年)、執権に。
元のフビライの通交要求を拒否。
1274年(文永 11年)と、1281年(弘安 4年)の2度にわたる元寇(文永・弘安の役)を撃退。
その後、禅宗に帰依し、鎌倉に円覚寺を建立。
執権在任中に死去。
(42) 西郷隆盛 (1827―1877)
幕末・明治の政治家。
木戸孝允、大久保利通とともに明治維新三傑のひとり。
薩摩藩下級藩士の出身。号は南洲。
薩摩藩藩主・島津斉彬に登用されて江戸詰めとなり、江戸の藤田東湖、越前の橋下佐内らの知己を得る。
1858年(安政 5年)、安政の大獄で幕府の弾圧を受け、薩摩に逃れ、同志の僧月照と鹿児島湾に入水自殺を図るも果たせず、奄美大島に流刑。
1862年(文久 2年)、許されて上洛するが、島津久光の逆鱗に触れて、再び沖永良部島に流刑。
その後、許されて帰藩。
禁門の変、第一次長州戦争では幕府側についたが、1866 年(慶応 2年)、薩摩藩の代表として長州藩と『薩長同盟』(薩長連合)を結び、第二次長州戦争では倒幕派へ転じた。
大久保利通らとともに王政復古を推進、戊辰戦争では征東軍の大総督参謀。
勝海舟と会見し、江戸城の無血開城を実現する。
明治政府では参議となり 「廃藩置県」を断行、1873年(明治 6年)、「征韓論」に敗れて下野。
鹿児島に私学校を開く。
1877年(明治 10年)、西南戦争を起こしたが敗れ、鹿児島の城山で自刃。
(43) 木戸孝允 (1833―1877)
幕末・明治の政治家。西郷隆盛、大久保利通とともに明治維新三傑のひとり。
長州藩出身。幕末には通称の「桂小五郎」として知られる。
吉田松陰に師事。
江戸で剣術、洋式兵術を学び、帰藩後は、尊王攘夷派の中心人物に。
1866年(慶応 2年)、坂本竜馬の斡旋で「薩長同盟」を結び、討幕運動を展開、王政復古を実現。
明治維新後は参与となり、「五カ条のご誓文」の起草や、「版籍奉還」を推進。
1871年(明治 4年)には岩倉遣外使節団の副使。
1874年(明治 7年)、大久保らの台湾出兵に反対し、参議を辞職。
1875年(明治 8年)、大阪会議で参議に復帰。
西南戦争中に京都で病死。
『木戸孝允日記』『木戸孝允文書』などを残した。
(44) 大久保利通 (1830―1878)
幕末・明治の政治家。
西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新三傑のひとり。
西郷と同様、薩摩藩下級藩士の出身。
島津久光の親任を得て藩政にあたり、公武合体運動を進めたが、後に西郷とともに討幕運動に転じる。
薩長連合後、西郷、岩倉具視と組んで倒幕密勅の降下、王政復古、戊辰戦争などで中心的役割を果たす。
維新政府では参議となり、木戸孝允らと版籍奉還、廃藩置県を推進。
岩倉遣外使節団の副使として欧米を視察、帰国後は親友であった西郷の征韓論に反対。
西郷、木戸が下野した後、1873年(明治 6年)には内務卿として政府の権力を一手に握り、「地租改正」や「殖産興業」を推進。
その専制政治には反発も強く、西南戦争の翌年、東京・赤坂の紀尾井坂で不平士族によって暗殺された。
『大久保利通日記』『大久保利通文書』などを残した。
(45) 山県有朋 (1838―1922)
陸軍軍人・政治家。長州藩の下級武士の出身。
松下村塾に学び、奇兵隊軍監。戊辰戦争に従軍。
1869年(明治 2年)、渡欧し、軍事制度を調査・研究、帰国後は「徴兵制度」の導入を推進。
佐賀の乱、西南戦争に従軍。
1882年(明治 15年)発布の「軍人勅諭」を起草、1883年(明治 16年)、内務卿、1885年(明治 18年)、内大臣となり、『地方自治制度』の整備に努める。
1889年(明治 22年)、第一次山県内閣、1898年(明治 31年)、第二次山県内閣を組閣。
元老として、長州藩出身の貴族院議員、官僚を中心に山県閥を形成、政治的な影響力を保持した。
著書に『懐旧記事』『山県有朋伝』などがある。
(46) 大山 巌 (1842―1916)
陸軍軍人。薩摩藩出身。
戊辰戦争に参加した後、1871年(明治 4年)から欧州に留学。
西郷隆盛の従弟だが、西南戦争では政府側で従軍した。
1880年(明治 13年)、陸軍卿。
陸軍では、長州閥の山県有朋に対して、薩摩閥の中心的存在。
1885年(明治 18年)、伊東博文内閣の陸軍大臣。
日清戦争では第二軍司令官。
元帥、参謀総長を経て、日露戦争では、満州軍総司令官として旅順攻略戦、奉天会戦などを勝利に導いた。
以後、内大臣を務め、元老に。
(47) 山本権兵衛 (1852―1933)
海軍軍人・政治家。薩摩藩出身。戊辰戦争に薩摩藩士として従軍。
1874年(明治 7年)に海軍兵学寮を卒業。
日清戦争に従軍、日露戦争時は海軍大臣。
海軍の地位向上に努め、薩摩閥、海軍のリーダー的存在になる。
1913年(大正 2年)、第三次桂内閣の後を受け、第一次山本内閣を組閣。
軍部大臣の現役制の廃止など、政党政治への道を開く。
しかし、海軍での汚職が発覚したシーメンス事件で引責辞任。
1923年(大正 12年)9月、第二次山本内閣を組閣したが、翌1924年(大正 13年)1月、難波大助の「皇太子暗殺未遂事件(虎の門事件)」の責任をとって辞職し、政界を引退。
(48) 東郷平八郎 (1847―1934)
海軍軍人。薩摩藩士として薩英戦争と戊辰戦争に従軍。
1871年(明治 4年)、英国留学。
日清戦争では、浪速艦長として豊島沖海戦、黄海海戦に参加。
日露戦争では連合艦隊司令長官として、順港を封鎖、ロシア海軍極東艦隊を黄海海戦で、バルチック艦隊を日本海海戦で撃破した。
1913年(大正 2年)に元帥、1914年(大正 3年)には東宮御学問所総裁。
日本海海戦の勝利で聖将として国民の人気を集め、海軍の大御所的存在でもあった。
(49) 加藤高明 (1860―1926)
外交官・政治家。尾張藩生まれ。東京大学を卒業。
1874年 (明治 7年)、三菱に入社。
三菱財閥創始者である岩崎弥太郎の女婿に。
1887年(明治 20年)、外務省入省、1894年(明治 27年)、駐英特命全権公使となり「日英同盟」を主張。
1900年(明治 33年)の第四次伊藤博文から、第一次西園寺公望、第三次桂太郎の、各内閣で外務大臣。
「日英同盟」 締結を実現。
桂太郎の死去に伴い立憲同志会総裁。
1914年(大正 3年)、第二次大隈内閣の外務大臣となり、第一次大戦中には「対独開戦」や「対華 21 カ条要求」などの強硬路線を推進する。
1916年(大正 5年)、憲政会を結成し、総裁。
1924年(大正 13年)、内閣首班、「普通選挙法」「治安維持法」を制定。
首相在任中に病死。
(50) 原 敬 (1856―1921)
政治家。陸奥盛岡藩生まれ。司法省学校中退。
郵便報知新聞、大東日報を経て、1882年(明治 15年)、外務省へ入省。
朝鮮公使などを歴任。
1897年(明治 30年)、大阪毎日新聞社編集総理、翌年に社長に就任。
1900年(明治 33年)、伊東博文の立憲政友会 (政友会) 創立に参加し、第四次伊藤内閣で逓信大臣に就任。
1902年(明治 35年)以降、代議士に連続当選。
1914年(大正 3年)に政友会総裁、藩閥政治に対抗し、政党政治の確立に努める。
1918年(大正 7年)、米騒動で寺内内閣が退陣した後、初の政党内閣を組閣、「平民宰相」と呼ばれたが、
普通選挙反対、社会運動の弾圧などの強引な政策や党利党略を背景とした汚職事件などの結果、内閣に対する批判も高まり、1921年(大正 10年)、東京駅頭で国鉄職員、中岡良一によって暗殺された。
『原敬日記』を残す。
(51) 山本条太郎 (1867―1936)
実業家・政治家。福井県生まれ。
三井物産に入り、上海支店長などを経て、1909年(明治 42年)、常務取締役に就任。
辛亥革命では、孫文に対する借款に応じる。
1914年(大正 3年)のシーメンス事件に連座して引退。
1920年(大正 9年)、福井県から衆議院議員に当選。
政友会に属し、1927 年(昭和 2 年)、党幹事長。
同年から 1929年(昭和 4年)まで南満州鉄道(満鉄)総裁を務め、満州(中国東北部)への経済進出に努めた。
著書に『山本条太郎論集』などがある。
(52) 小磯国昭 (1880―1950)
陸軍軍人・政治家。栃木県生まれ、陸軍大学校を卒業。
1931年(昭和 6年)、陸軍省軍務局長のときに、橋下欣五郎中佐ら陸軍中堅将校がクーデターを計画したが、
未遂に終わった「三月事件」に関与。
その後、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官などを歴任。
1939年(昭和 14年)、平沼騏一郎内閣で拓務大臣となり、米内光政内閣でも留任、南方進出を強硬に進言。
1942年(昭和 17年)、朝鮮総督。
1944年(昭和 19年)7月、サイパン陥落で東条内閣が倒れた後、首相に就任。局面打開を図るが、果たせず。
1945年(昭和 20年)4月に総辞職。
A 級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身禁固刑。(※)小菅拘置所に収監中に病死。
著書に自伝『葛山鴻爪』などがある。
(53) フランクリン・D・ルーズベルト (1882―1945)
アメリカ合衆国第 32代大統領。セオドア・ルーズベルト大統領とは遠縁。
ハーバード、コロンビア大学卒業後、弁護士に。
1910年、ニューヨーク州上院議員に当選(民主党)。
小児麻痺のために一時、政界から退くが、復帰、1929年にニューヨーク州知事。
大恐慌の最中、1932年に大統領に当選以来、米国史上初の4選を果たす。
1930年代は経済危機打開へ、ニューディール政策を打ち出し、雇用拡大に尽力。
1939年の第二次欧州大戦勃発後は対ソ支援を積極化。
日中戦争が拡大するにつれ、対日経済措置を強めて行き、1941年の真珠湾攻撃で、日独に宣戦布告。
英国のチャーチル、ソ連のスターリンとともに連合国を指導、1945年 2月には『ヤルタ会談』で戦後の国際秩序を決めた。
同年 4月、戦争終結を見ないまま急死。
(54) ウィンストン・L・S・チャーチル (1874―1965)
英国政治家。名門貴族の出身。 陸軍士官校を卒業。ボーア戦争に新聞記者として従軍。
1900年、保守党から下院議員に当選したが、「保護関税法案」 に反対して自由党に転じる。
1908年以降、商相、内相、海相を歴任。海相時代には対独戦に備え海軍の改革に尽力。
1917年からは軍需相として第 1 次世界大戦を勝利に導き、戦後は空相兼陸相として、ロシア革命後の対ソ干渉戦争を指導。
1924年、保守党に復帰し、蔵相。
1930年代は党の主流から外れ、不遇の時代となったが、ナチスドイツの台頭を警告、政府の対独宥和政策を非難した。
1939年、第2次世界大戦が勃発するや、チェンバレン政権の海相に就任。
1940年には戦時挙国内閣となり、ルーズベルトとともに連合国を勝利に導いたが、1945年の総選挙で労働党に敗れて下野。
戦後はいち早く東西冷戦の時代を予見、「鉄のカーテン」という言葉を使いソ連を批判した。
1951年に再び首相に就任するが、1955年、政界を引退。
名文の歴史家としても知られ、著書も多く、『第二次大戦回顧録』で 1953年のノーベル文学賞を受賞した。
(55) 蒋介石 (1887―1975)
中国の政治家。中国浙江省生まれ。
1907年、日本に留学中、孫文が指導する反清朝の秘密結社『中国同盟会』に加入。
1911年に辛亥革命が起きると帰国し、従軍。孫文の国民党政府に加わり、1925年の孫文の死後、汪兆銘と並んで実権を握るが、反共色を強める。
1927年に南京国民政府を樹立し、主席となり、米英などの支援を得ながら、軍閥との内戦に勝利を収め、1928年には北京を占領し、中国を統一。
以後、中国共産党への攻撃を強めるが、1936年の西安事件によって共産党と抗日統一戦線を結成、1937年の日中戦争(日支事変)勃発後は国民政府主席として日本との戦争を指揮した。
1945年に対日戦が終結すると、再び共産党との内戦を開始。
1948年には中華民国総統となるが、戦況は悪化、中華人民共和国が成立した1949年、台湾に逃れた。
(56) ヨシフ・スターリン (1879―1953)
ソ連の政治家。グルジア生まれ。
神学校に学ぶが、マルクス主義活動を行ったとして放校。
1901年、社会民主労働党の秘密組織に入るが、逮捕され、シベリア流刑。
以後、逃亡、逮捕、流刑を繰り返し、職業革命家としてレーニンに認められる。
1917年の 10月革命、内戦、外国干渉戦争などで指導体制の中枢に参画。
1922年に党書記長。
1924年にレーニンが死去すると、一国社会主義を提唱し、トロッキー、ブハーリンらを追放し、党と政府を掌握、独裁体制を確立した。
工業化と集団化を推進。
1930年代にはスターリンに対する個人崇拝を進め、反対派の大量粛清など闇黒政治に。
1939年にはナチスドイツと「独ソ不可侵条約」を結ぶが、1941年には独ソ開戦。
同年、首相に就任。1945年には大元帥。
戦後も世界の共産主義の指導者として権勢を振るったが、死後、1956年にフルシチョフ書記長がスターリン批判を展開した。
スターリンは「鉄の人」を意味。本名は ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ。
著書に『レーニン主義の基礎』『マルクス主義と民族主義』など。
(57) ベニート・ムッソリーニ (1883―1945)
イタリアの政治家。ファシズムの指導者。
1900年、社会党に入党。
小学校教員になるが、演説の名手として頭角を現し、1912年には党機関紙「アバンティ」の編集長に就任。
第 1 次大戦前には反戦を主張したが、1914年に大戦が勃発すると参戦論に転じ、党を除名される。
大戦後、戦闘ファッシを結成。ファシズム運動を展開。
1921年、国民ファシスト党に改組し、首領(ドゥーチェ)に就任。
1922年、ローマ進軍といわれるクーデターを起こして首相に就任。
1926年には、国民ファシスト党以外の政党を非合法化して一党独裁体制を確立。
1935年にはエチオピアを侵略、国際的に孤立すると、ナチスドイツと接近、スペイン内乱ではフランコ政権支持で介入。
1937年、日独伊防共協定締結。
1940年、自ら軍最高司令官となり、第2次世界大戦に参戦。
1943年に失脚、逮捕されるが、ドイツに救出され、イタリア社会共和国を樹立。
大戦末期の 1945年 4月、スイスへの逃亡途中、パルチザンに逮捕され、愛人とともに銃殺。
(58) 住井某=住井辰男 (1881―1962)
実業家、三井財閥の筆頭理事。三重県生まれ。
三井物産会長、三井造船専務、重要物資管理営団理事長、交易営団副総裁などを歴任。
三井本社常務理事を務めていた 1945年(昭和 20年)、日本経済の民主化を推進しようとする GHQ(連合国総司令部)から財閥解体の指令を受け、三井財閥の幕を引く役回りを演じた。
(59) 船田某=船田一雄 (1877―1950)
実業家、三菱財閥理事長。愛媛県生まれ。東京大学卒業。
1908年(明治 41年)に検事に任用されるが、1911年(明治 44年)に辞任して三菱財閥の中枢である三菱合資(後の三菱本社)に入社。
三菱鉱業で労務管理に辣腕を振るい、テクノクラートとしての優秀さによって、三菱鉱業常務、三菱商事会長などを経て、1943年(昭和 18年)、三菱財閥の中枢である三菱本社の取締役理事長に就任、四代目統帥の岩崎小弥太社長を支えた。
敗戦後、米占領軍の財閥解体に伴い、1945年(昭和 20年)11月、三菱本社の株主総会で、財閥解体を宣言、三菱財閥の幕引き役となった。
このとき、船田は三菱理事長のほか、三菱重工業、電気、鉱業、銀行、倉庫、日本アルミ、日本郵船、東京海上、明治生命の取締役を務めていたが、すべて辞任した。
(60) 渋沢栄一 (1840―1931)
実業家。武蔵国(埼玉県)の豪農に生まれる。
討幕運動に参加したが、1864年(元治元年)、一橋家に仕え、1866年(慶応 2年)、慶喜が徳川将軍人になると幕臣に。
1867年(慶応 3年)、パリ万国博覧会に随行員として渡欧。
明治維新後に国し、大蔵省に入り、国立銀行条例制定をはじめ、租税、貨幣、銀行制度などの整備に活躍。
1873年(明治 6年)、退官後、実業界に転じ、日本最初の銀行である第一国立銀行や、王子製紙、大阪紡績会社など、500社を超える会社の設立に関与。
朝鮮や中国へも事業展開するなど、日本の資本主義の基礎を築く。
1916年 (大正 5年)、実業界から引退、教育事業や社会事業に力を尽くす。
著書に『雨夜譚』『論語と算盤』など。
(61) 井上準之助 (1869―1932)
日本銀行総裁、大蔵大臣。大分県生まれ。
東京大学卒業後、日本銀行に入行。英国、米国に遊学。
横浜正金銀行頭取を経て、1919年(大正 8年)、日本銀行総裁に就任。
1923年(大正 12年)、第二次山本権兵衛内閣の大蔵大臣。
1927年(昭和 2年)、再び日銀総裁に就任。
1929年(昭和 4年)、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣。
金本位制への復帰を目指し、「井上財政」といわれる緊縮デフレ財政政策を推進、金解禁に踏み切るが、ニューヨーク株式相場の大暴落に端を発した世界恐慌も加わり、不況は深刻化した。
社会不安が高まる中、一人一殺主義を唱える右翼団体、血盟団の小沼正に暗殺された。
著書に『戦後に於ける我国の経済及金融』などがある。
ちょっとおしゃべり
“千両役者のオールスターキャスト” ・・・確かにスゴイですねえ(笑)歴史に残る 2つの大きな世界戦争。そんな空気というか大気が地球上を覆っていたのでしょうね。
となると、小物しかいない今の日本は、世界戦争なんて心配はない(笑)
ただ、この平和ボケのまま、知らないうちに日本が消えていた、なんてことはかなり可能性が高い現状です。すでに 70% くらいは消えかかっている。(2009.11.29)
その日本の現状を少しでも分かって貰いたくて、この本を書き写しています。
2002年7月15日発刊
戦争はどのようにして起こったのか (3)
第 3の事情として、世論本位の政治を行わざりしことを挙げたいと思います。すでにドイツの戦勝に眩惑せられたうえに、我が兵力を過信した日本の軍部が広く天下の世論を聞く余裕を持たず、ひたすらに戦争遂行に邁進したのは当然であります。特に、いわゆる (32) 5.15事件、(33) 2.26事件以後には、従来日本の指導的立場にあった上層階級のいわゆる穏健層の人々は全く口を封ぜられてしまい、自由に国策を討論すべき責任と権限とを有しておる議会人すら、政府の鼻息を窺う一途に退けられてしまい、また、社会の木鐸(ぼくたく)と自認する新聞、雑誌も戦争に対する一切の主張を封じられてしまったのであります。さらに、東条内閣が成立するとともに、いわゆる憲兵政治が非常に目立ってきて、日本国民は上下を挙げて四六時中、憲兵の監視のもとに生活するような重苦しい気分となり、いわゆる、触らぬ神に祟りなし、という気持になったことが敗因の 1 つです。
もちろん、中には敢然と軍部を論難しようとした憂国の士もないではなかったのですが、この人たちはいわば口を開くか開かないうちに憲兵政治の苛酷な弾圧下に打ちひしがれたのです。例えば福岡県選出代議士の (34) 吉田敬太郎君のごときは、ある演説会で反東条の演説をしたという嫌疑ですぐ引っ張られ、軍法会議で 3年間の体刑に処せられたという事実があります。軍法会議は一審限りであり、非公開で、弁護人も付さない、そして戦争妨害という大義名分を頭から振りかざすのですから何人も屏息(へいそく)せざるを得ません。
このような憲兵政治によって弾圧されたのは、ひとり代議士や民間人ばかりでなく、軍人の中でも反東条と目されているものは遠慮なくやられている。これには、最前線に送るという有効な手があり、東条一派に反対するものは、いずれも玉砕と決まったような戦線に送られてしまったという噂があります。そこで各戦区の司令官はいずれも多かれ少なかれ反東条の色彩を帯びていたといわれている。しかし戦争であり、陛下の御命令という以上、どうすることもできない。そして内地や中央はほとんど東条私兵でかためてしまっというのですが、これでは本当の戦争ができようはずはありません。
また、この応召という手はしばしば民間人を威嚇するためにも用いられたといわれ、某省の次官までした某工学博士も一時、反軍的とにらまれて、北支(中国北部)に一兵卒として追いやられてしまったと伝えられています。この人は、ラジオロケーターの権威で、当時一生懸命にラジオロケーターを研究していたのですが、軍部に気に入らぬと、ラジオロケーターも工学博士もあったものではない、直ちに報復的に一兵卒にされたというのですが、真偽のほどは保障の限りではありません。しかし、こういう噂というものは、その噂自体の真偽よりも、そういう噂を生み出す雰囲気のほうに重点を置いて取り扱ってしかるべきだと思います。
また重臣方面に対しても、各種の手段で軍は押さえつけていた。例えば現在(昭和 20年 9月)の外務大臣、(35) 吉田茂氏は反戦的な言辞を弄したという理由で、終戦直前まで憲兵隊の留置場につながれいたのは、周知の通りですが、憲兵政治はこれを機として、吉田氏の邸に会合する重臣連を一網打尽に押さえつけようと準備していたといわれています。これはいわば第二の朝飯会ともいうべきもので、戦況、日に非なるを憂え、一日も速やかに戦争終結の機会をつかまんとした重臣たちが、吉田邸にときどき会合していたのですが、いったい、どうしてそれが憲兵隊に漏れたものか、さっぱりわからなかったが、だんだん日が経つにつれて、スパイは吉田氏が日常目をかけてやった同邸の書生だと判明して、関係者一同、唖然としたという話です。
憲兵隊の手がもう少し伸びると、(36) 広田弘毅、(37) 幣原喜重郎、(38) 岡田啓介、(39) 鈴木貫太郎の諸氏なども吉田氏と同様、反戦の名目で押さえてしまい、日本を名実ともに軍部一色化し、いわゆる本土決戦で 7千万国民を最後まで道連れにする計画だったのが、その危うい直前に (40) 「万世のために泰平を開く」の御聖断が下されたわけであります。
以上の 2、3 の実例によっても、日本に世論本位の政治が行われざりしこと、また、何故に行われざりしか、その裏面の消息を窺うに足るものと信じます。
そのうえに日本にとって最も不幸だったことは、以上申し述べたような諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして、建国 3千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わいわい騒ぎながら、あれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、押し流されてしまったのであります。
これは必ずしも、(41) 北条時宗の故事に遡らずとも、(明治)維新当時、日本の各地に雲のごとく現れた各藩の志士、例えば、一人の (42) 西郷隆盛、一人の (43) 木戸孝允、一人の (44) 大久保利通のごとき大人物が現存しておったなら、否、それほどの人物でなくても、せめて日清、日露の戦役当時の (21) 伊東博文、(45) 山県有朋のごとき政治家、また軍人とすれば、陸軍の (13) 児玉源太郎、(46) 大山巌、海軍の(47) 山本権兵衛、(48) 東郷平八郎大将のごとき人物がおったならば、さらにもっと降って、せめて (49) 加藤高明、(50) 原敬、あるいは一人の (51) 山本条太郎が今日おったならば、恐らく日本の歴史は書き換えられておったろうと思われるのです。
支那事変から大東亜戦争を通じて、日本の代表的政治家は曰く (26) 近衛文麿、曰く (18) 東条英機、曰く (52) 小磯国昭、曰くなにがしであり、これを米国の (53) ルーズベルト、英国の (54) チャーチル、支那の (55) 蒋介石、ソ連の (56) スターリン、ドイツの (22) ヒトラー、イタリアの (57) ムッソリーニなど、いずれも世界史的な傑物が百花繚乱の姿で並んでいることに思いを致してみると、千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう。
また、民間の代表的人物といいますと、三井財閥では (58) 住井某、三菱財閥では(59) 船田某など、いずれも相当の人柄でしょうが、これを一昔前の (60) 渋沢栄一、(61) 井上準之助などに比べると、いかにも見劣りせざるを得ない。その他、政党方面に誰がいるか、言論文化の方面には誰がいるか、どの方面も非常な人物飢饉であり、そのために本筋の大道を見損なって、とんでもない方面に日本国民を引っ張って行く一つの大きな原因になったと思われます。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
(32) 5.15事件
1932年(昭和 7年)5月 15日、海軍の青年将校が陸軍士官学校生徒などと起こしたクーデター事件。
首相官邸、内大臣牧野伸顕邸、政友会本部、警視庁、日本銀行などを襲撃、犬養首相を 「問答無用」 と射殺した。
一方、右翼の橘孝三郎が主宰する愛郷塾生を中心とする農民決死隊は変電所を破壊、東京を闇黒化し、戒厳令を布告させようとしたが、失敗。
この事件によって政党内閣は終わりを告げ、斎藤実首相による挙国一致内閣が生まれる。
民間人の橘孝三郎は無期懲役だったが、軍法会議で禁固 15年 という軽い判決となった。
(33) 2.26事件
1936年(昭和 11 年)2月 26未明、皇道派の陸軍青年将校が約 1,400人の下士官、兵を率いて起こしたクーデター。
経済不振や農村の疲弊が続く中で、「昭和維新」の実現を目指して蜂起。
斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を射殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、陸軍省、参謀本部、首相官邸、国会など、永田町、三宅坂一帯を占拠した。
翌 27 日に戒厳令が布告され、28 日に天皇による原隊復帰の命令が出され、29日には鎮圧される。
特設軍事法廷によって、首謀者の将校と、理論的指導者だった北一輝が死刑に。
この事件によって、陸軍では皇道派が処分され、統制派が実権を握ると共に、軍の政治的発言力が増していった。
(34) 吉田敬太郎 (1899―1988)
政治家・宗教家。
東京商大卒業後、三菱金属工業、大倉高商講師などを経て、1936年、九州石油を設立。
1942年、衆議院議員。
東条首相を批判したために憲兵隊に逮捕され、軍法会議にかけられ投獄される。
連日の拷問に耐えながら、獄中でクリスチャンとなり、半年後に出獄すると牧師に。
1951年、若松市長に当選。北九州市発足で初代市長となる。
著書に 『獄中記』 『汝復讐するなかれ』 などがある。
(35) 吉田 茂 (1878―1967)
外交官・政治家。東京大学を卒業後、1906年(明治 39年)、外務省に入省。
パリ講和会議全権随員、奉天総領事、外務次官、駐イタリア大使、駐英大使などを歴任。
第二次世界大戦中は自由主義者、親米親英派とみられ、憲兵隊に逮捕されたこともある。
敗戦後は、1945年(昭和 20年)8月の東久邇稔彦、10月の幣原喜重郎両内閣で外務大臣を務め、1946年(昭和 21年)、鳩山一郎の公職追放の跡を受けて自由党総裁に就任し、第一次吉田内閣を組閣、『日本国憲法』を制定。
1947年(昭和 22年)、選挙で自由党が第二党になり、退陣。
1948年(昭和 23年)10月、芦田均内閣が倒れ、第二次吉田内閣を組閣。
その後、1954年(昭和 29年)まで長期政権を樹立。
1951年(昭和 26年)、サンフランシスコ講和会議で、『サンフランシスコ講和条約』と『日米安全保障条約』を締結。
池田隼人、佐藤栄作など官僚を政界に送り込み、「吉田学校」といわれるほどの人脈を構築、引退後も元老的存在として、政府、自民党に影響力を保ち続けた。
著書に『回想 10年』『大磯随想』『世界と日本』などがある。
(36) 広田弘毅 (1878―1948)
外交官・政治家。福岡県生まれ、東京大学を卒業後、外務省に入省。
欧米局長、駐オランダ公使、註ソ連大使などを経て、1933年(昭和 8年)以降、斎藤実、岡田啓介両内閣で外務大臣を務める。
1936年(昭和 11 年)の 2.26事件後、広田内閣を組閣。
陸海軍大臣の現役武官制を復活、『日独防共協定』を締結するが、翌 1937年(昭和 12年)1月に総辞職。
同年 6月、第一次近衛文麿内閣で外務大臣となり、対中強硬路線をとり、日中戦争(支那事変)の長期化を招いた。
1938年(昭和 13年)、外相を辞任。
1945年(昭和 20年)、ソ連に和平の仲介を工作したが、失敗。
戦後は A級戦犯に指名され、極東国際軍事裁判で分館中ただ一人死刑判決を受けた。
東京裁判(極東国際軍事裁判)における他の戦犯と同様に名誉の回復がなされている。
(37) 幣原喜重郎 (1872―1951)
外交官・政治家。大阪生まれ、東京大学卒業後、外務省に入省。
外務次官、駐米大使などを経て、1924年(大正 13年)、加藤高明内閣で外務大臣に。
第一次若槻礼次郎、浜口雄幸、第二次若槻内閣でも外務大臣を務め、英米協調主義、中国内政不干渉主義の外交を打ち出し、1930年(昭和 5年)、『ロンドン軍縮条約』を成立させたが、軍部・右翼からは「軟弱外交」と非難を浴びる。
1931年(昭和 6年)、満州事変の事態収拾に失敗して外務大臣を辞職。
政界を引退するが、戦後、1945年(昭和 20年)10月に東久邇内閣の跡を受けて幣原内閣を組閣。
1946年(昭和 21年)の天皇人間宣言の起草など、天皇制存続に尽力。
その後、進歩党総裁、衆議院議長などを務めた。
著書に『外交 50年』などがある。
(38) 岡田啓介 (1868―1952)
海軍軍人・政治家。
福井県生まれ、海軍大学校卒業。
海軍省人事局長、艦政本部長などを経て海軍次官。
1927年(昭和 2年)から田中義一内閣と斎藤実内閣で海軍大臣を務める。
浜口内閣時代のロンドン軍縮会議では、軍事参議官として海軍内部のとりまとめに尽力し、条約成立を助けた。
1934年(昭和 9年)、岡田内閣を組閣。
1936年(昭和 11年)、2.26事件では青年将校の襲撃を受けたが、危うく難を逃れる。
1944年(昭和 19年)には東条内閣打倒工作の中心的役割を担った。
(39) 鈴木貫太郎 (1867―1948)
海軍軍人・政治家。
和泉国(大阪府)生まれ、海軍大学校卒業。
日清・日露戦争に参加。
海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官、軍令部長などを経て、1929年(昭和 4年)、昭和天皇の侍従長に就任したが、1936年(昭和 11年)、2.26事件で青年将校の襲撃を受けて重傷を負い辞職。
1944年(昭和 19年)、枢密院議長。
1945年(昭和 20年)4月、鈴木内閣を組閣。
本土決戦を主張する主戦派を抑え、最終的に『ポツダム宣言受諾』へと至った。
同年 8月 15日、終戦詔勅放送後、内閣総辞職。
著書に『鈴木貫太郎自伝』。
(40) 「万世のために泰平を開く」
1945年(昭和 20年)8月 15日の玉音放送で伝えられた、昭和天皇による「終戦の詔勅」の一節。
「朕は時運のおもむくところ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために泰平を開かんと欲す」。
(41) 北条時宗 (1251―1284)
鎌倉幕府の第 8代執権。北条時頼の嫡子。通称、相模太郎。
1268年(文永 5年)、執権に。
元のフビライの通交要求を拒否。
1274年(文永 11年)と、1281年(弘安 4年)の2度にわたる元寇(文永・弘安の役)を撃退。
その後、禅宗に帰依し、鎌倉に円覚寺を建立。
執権在任中に死去。
(42) 西郷隆盛 (1827―1877)
幕末・明治の政治家。
木戸孝允、大久保利通とともに明治維新三傑のひとり。
薩摩藩下級藩士の出身。号は南洲。
薩摩藩藩主・島津斉彬に登用されて江戸詰めとなり、江戸の藤田東湖、越前の橋下佐内らの知己を得る。
1858年(安政 5年)、安政の大獄で幕府の弾圧を受け、薩摩に逃れ、同志の僧月照と鹿児島湾に入水自殺を図るも果たせず、奄美大島に流刑。
1862年(文久 2年)、許されて上洛するが、島津久光の逆鱗に触れて、再び沖永良部島に流刑。
その後、許されて帰藩。
禁門の変、第一次長州戦争では幕府側についたが、1866 年(慶応 2年)、薩摩藩の代表として長州藩と『薩長同盟』(薩長連合)を結び、第二次長州戦争では倒幕派へ転じた。
大久保利通らとともに王政復古を推進、戊辰戦争では征東軍の大総督参謀。
勝海舟と会見し、江戸城の無血開城を実現する。
明治政府では参議となり 「廃藩置県」を断行、1873年(明治 6年)、「征韓論」に敗れて下野。
鹿児島に私学校を開く。
1877年(明治 10年)、西南戦争を起こしたが敗れ、鹿児島の城山で自刃。
(43) 木戸孝允 (1833―1877)
幕末・明治の政治家。西郷隆盛、大久保利通とともに明治維新三傑のひとり。
長州藩出身。幕末には通称の「桂小五郎」として知られる。
吉田松陰に師事。
江戸で剣術、洋式兵術を学び、帰藩後は、尊王攘夷派の中心人物に。
1866年(慶応 2年)、坂本竜馬の斡旋で「薩長同盟」を結び、討幕運動を展開、王政復古を実現。
明治維新後は参与となり、「五カ条のご誓文」の起草や、「版籍奉還」を推進。
1871年(明治 4年)には岩倉遣外使節団の副使。
1874年(明治 7年)、大久保らの台湾出兵に反対し、参議を辞職。
1875年(明治 8年)、大阪会議で参議に復帰。
西南戦争中に京都で病死。
『木戸孝允日記』『木戸孝允文書』などを残した。
(44) 大久保利通 (1830―1878)
幕末・明治の政治家。
西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新三傑のひとり。
西郷と同様、薩摩藩下級藩士の出身。
島津久光の親任を得て藩政にあたり、公武合体運動を進めたが、後に西郷とともに討幕運動に転じる。
薩長連合後、西郷、岩倉具視と組んで倒幕密勅の降下、王政復古、戊辰戦争などで中心的役割を果たす。
維新政府では参議となり、木戸孝允らと版籍奉還、廃藩置県を推進。
岩倉遣外使節団の副使として欧米を視察、帰国後は親友であった西郷の征韓論に反対。
西郷、木戸が下野した後、1873年(明治 6年)には内務卿として政府の権力を一手に握り、「地租改正」や「殖産興業」を推進。
その専制政治には反発も強く、西南戦争の翌年、東京・赤坂の紀尾井坂で不平士族によって暗殺された。
『大久保利通日記』『大久保利通文書』などを残した。
(45) 山県有朋 (1838―1922)
陸軍軍人・政治家。長州藩の下級武士の出身。
松下村塾に学び、奇兵隊軍監。戊辰戦争に従軍。
1869年(明治 2年)、渡欧し、軍事制度を調査・研究、帰国後は「徴兵制度」の導入を推進。
佐賀の乱、西南戦争に従軍。
1882年(明治 15年)発布の「軍人勅諭」を起草、1883年(明治 16年)、内務卿、1885年(明治 18年)、内大臣となり、『地方自治制度』の整備に努める。
1889年(明治 22年)、第一次山県内閣、1898年(明治 31年)、第二次山県内閣を組閣。
元老として、長州藩出身の貴族院議員、官僚を中心に山県閥を形成、政治的な影響力を保持した。
著書に『懐旧記事』『山県有朋伝』などがある。
(46) 大山 巌 (1842―1916)
陸軍軍人。薩摩藩出身。
戊辰戦争に参加した後、1871年(明治 4年)から欧州に留学。
西郷隆盛の従弟だが、西南戦争では政府側で従軍した。
1880年(明治 13年)、陸軍卿。
陸軍では、長州閥の山県有朋に対して、薩摩閥の中心的存在。
1885年(明治 18年)、伊東博文内閣の陸軍大臣。
日清戦争では第二軍司令官。
元帥、参謀総長を経て、日露戦争では、満州軍総司令官として旅順攻略戦、奉天会戦などを勝利に導いた。
以後、内大臣を務め、元老に。
(47) 山本権兵衛 (1852―1933)
海軍軍人・政治家。薩摩藩出身。戊辰戦争に薩摩藩士として従軍。
1874年(明治 7年)に海軍兵学寮を卒業。
日清戦争に従軍、日露戦争時は海軍大臣。
海軍の地位向上に努め、薩摩閥、海軍のリーダー的存在になる。
1913年(大正 2年)、第三次桂内閣の後を受け、第一次山本内閣を組閣。
軍部大臣の現役制の廃止など、政党政治への道を開く。
しかし、海軍での汚職が発覚したシーメンス事件で引責辞任。
1923年(大正 12年)9月、第二次山本内閣を組閣したが、翌1924年(大正 13年)1月、難波大助の「皇太子暗殺未遂事件(虎の門事件)」の責任をとって辞職し、政界を引退。
(48) 東郷平八郎 (1847―1934)
海軍軍人。薩摩藩士として薩英戦争と戊辰戦争に従軍。
1871年(明治 4年)、英国留学。
日清戦争では、浪速艦長として豊島沖海戦、黄海海戦に参加。
日露戦争では連合艦隊司令長官として、順港を封鎖、ロシア海軍極東艦隊を黄海海戦で、バルチック艦隊を日本海海戦で撃破した。
1913年(大正 2年)に元帥、1914年(大正 3年)には東宮御学問所総裁。
日本海海戦の勝利で聖将として国民の人気を集め、海軍の大御所的存在でもあった。
(49) 加藤高明 (1860―1926)
外交官・政治家。尾張藩生まれ。東京大学を卒業。
1874年 (明治 7年)、三菱に入社。
三菱財閥創始者である岩崎弥太郎の女婿に。
1887年(明治 20年)、外務省入省、1894年(明治 27年)、駐英特命全権公使となり「日英同盟」を主張。
1900年(明治 33年)の第四次伊藤博文から、第一次西園寺公望、第三次桂太郎の、各内閣で外務大臣。
「日英同盟」 締結を実現。
桂太郎の死去に伴い立憲同志会総裁。
1914年(大正 3年)、第二次大隈内閣の外務大臣となり、第一次大戦中には「対独開戦」や「対華 21 カ条要求」などの強硬路線を推進する。
1916年(大正 5年)、憲政会を結成し、総裁。
1924年(大正 13年)、内閣首班、「普通選挙法」「治安維持法」を制定。
首相在任中に病死。
(50) 原 敬 (1856―1921)
政治家。陸奥盛岡藩生まれ。司法省学校中退。
郵便報知新聞、大東日報を経て、1882年(明治 15年)、外務省へ入省。
朝鮮公使などを歴任。
1897年(明治 30年)、大阪毎日新聞社編集総理、翌年に社長に就任。
1900年(明治 33年)、伊東博文の立憲政友会 (政友会) 創立に参加し、第四次伊藤内閣で逓信大臣に就任。
1902年(明治 35年)以降、代議士に連続当選。
1914年(大正 3年)に政友会総裁、藩閥政治に対抗し、政党政治の確立に努める。
1918年(大正 7年)、米騒動で寺内内閣が退陣した後、初の政党内閣を組閣、「平民宰相」と呼ばれたが、
普通選挙反対、社会運動の弾圧などの強引な政策や党利党略を背景とした汚職事件などの結果、内閣に対する批判も高まり、1921年(大正 10年)、東京駅頭で国鉄職員、中岡良一によって暗殺された。
『原敬日記』を残す。
(51) 山本条太郎 (1867―1936)
実業家・政治家。福井県生まれ。
三井物産に入り、上海支店長などを経て、1909年(明治 42年)、常務取締役に就任。
辛亥革命では、孫文に対する借款に応じる。
1914年(大正 3年)のシーメンス事件に連座して引退。
1920年(大正 9年)、福井県から衆議院議員に当選。
政友会に属し、1927 年(昭和 2 年)、党幹事長。
同年から 1929年(昭和 4年)まで南満州鉄道(満鉄)総裁を務め、満州(中国東北部)への経済進出に努めた。
著書に『山本条太郎論集』などがある。
(52) 小磯国昭 (1880―1950)
陸軍軍人・政治家。栃木県生まれ、陸軍大学校を卒業。
1931年(昭和 6年)、陸軍省軍務局長のときに、橋下欣五郎中佐ら陸軍中堅将校がクーデターを計画したが、
未遂に終わった「三月事件」に関与。
その後、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官などを歴任。
1939年(昭和 14年)、平沼騏一郎内閣で拓務大臣となり、米内光政内閣でも留任、南方進出を強硬に進言。
1942年(昭和 17年)、朝鮮総督。
1944年(昭和 19年)7月、サイパン陥落で東条内閣が倒れた後、首相に就任。局面打開を図るが、果たせず。
1945年(昭和 20年)4月に総辞職。
A 級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身禁固刑。(※)小菅拘置所に収監中に病死。
著書に自伝『葛山鴻爪』などがある。
(53) フランクリン・D・ルーズベルト (1882―1945)
アメリカ合衆国第 32代大統領。セオドア・ルーズベルト大統領とは遠縁。
ハーバード、コロンビア大学卒業後、弁護士に。
1910年、ニューヨーク州上院議員に当選(民主党)。
小児麻痺のために一時、政界から退くが、復帰、1929年にニューヨーク州知事。
大恐慌の最中、1932年に大統領に当選以来、米国史上初の4選を果たす。
1930年代は経済危機打開へ、ニューディール政策を打ち出し、雇用拡大に尽力。
1939年の第二次欧州大戦勃発後は対ソ支援を積極化。
日中戦争が拡大するにつれ、対日経済措置を強めて行き、1941年の真珠湾攻撃で、日独に宣戦布告。
英国のチャーチル、ソ連のスターリンとともに連合国を指導、1945年 2月には『ヤルタ会談』で戦後の国際秩序を決めた。
同年 4月、戦争終結を見ないまま急死。
(54) ウィンストン・L・S・チャーチル (1874―1965)
英国政治家。名門貴族の出身。 陸軍士官校を卒業。ボーア戦争に新聞記者として従軍。
1900年、保守党から下院議員に当選したが、「保護関税法案」 に反対して自由党に転じる。
1908年以降、商相、内相、海相を歴任。海相時代には対独戦に備え海軍の改革に尽力。
1917年からは軍需相として第 1 次世界大戦を勝利に導き、戦後は空相兼陸相として、ロシア革命後の対ソ干渉戦争を指導。
1924年、保守党に復帰し、蔵相。
1930年代は党の主流から外れ、不遇の時代となったが、ナチスドイツの台頭を警告、政府の対独宥和政策を非難した。
1939年、第2次世界大戦が勃発するや、チェンバレン政権の海相に就任。
1940年には戦時挙国内閣となり、ルーズベルトとともに連合国を勝利に導いたが、1945年の総選挙で労働党に敗れて下野。
戦後はいち早く東西冷戦の時代を予見、「鉄のカーテン」という言葉を使いソ連を批判した。
1951年に再び首相に就任するが、1955年、政界を引退。
名文の歴史家としても知られ、著書も多く、『第二次大戦回顧録』で 1953年のノーベル文学賞を受賞した。
(55) 蒋介石 (1887―1975)
中国の政治家。中国浙江省生まれ。
1907年、日本に留学中、孫文が指導する反清朝の秘密結社『中国同盟会』に加入。
1911年に辛亥革命が起きると帰国し、従軍。孫文の国民党政府に加わり、1925年の孫文の死後、汪兆銘と並んで実権を握るが、反共色を強める。
1927年に南京国民政府を樹立し、主席となり、米英などの支援を得ながら、軍閥との内戦に勝利を収め、1928年には北京を占領し、中国を統一。
以後、中国共産党への攻撃を強めるが、1936年の西安事件によって共産党と抗日統一戦線を結成、1937年の日中戦争(日支事変)勃発後は国民政府主席として日本との戦争を指揮した。
1945年に対日戦が終結すると、再び共産党との内戦を開始。
1948年には中華民国総統となるが、戦況は悪化、中華人民共和国が成立した1949年、台湾に逃れた。
(56) ヨシフ・スターリン (1879―1953)
ソ連の政治家。グルジア生まれ。
神学校に学ぶが、マルクス主義活動を行ったとして放校。
1901年、社会民主労働党の秘密組織に入るが、逮捕され、シベリア流刑。
以後、逃亡、逮捕、流刑を繰り返し、職業革命家としてレーニンに認められる。
1917年の 10月革命、内戦、外国干渉戦争などで指導体制の中枢に参画。
1922年に党書記長。
1924年にレーニンが死去すると、一国社会主義を提唱し、トロッキー、ブハーリンらを追放し、党と政府を掌握、独裁体制を確立した。
工業化と集団化を推進。
1930年代にはスターリンに対する個人崇拝を進め、反対派の大量粛清など闇黒政治に。
1939年にはナチスドイツと「独ソ不可侵条約」を結ぶが、1941年には独ソ開戦。
同年、首相に就任。1945年には大元帥。
戦後も世界の共産主義の指導者として権勢を振るったが、死後、1956年にフルシチョフ書記長がスターリン批判を展開した。
スターリンは「鉄の人」を意味。本名は ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ。
著書に『レーニン主義の基礎』『マルクス主義と民族主義』など。
(57) ベニート・ムッソリーニ (1883―1945)
イタリアの政治家。ファシズムの指導者。
1900年、社会党に入党。
小学校教員になるが、演説の名手として頭角を現し、1912年には党機関紙「アバンティ」の編集長に就任。
第 1 次大戦前には反戦を主張したが、1914年に大戦が勃発すると参戦論に転じ、党を除名される。
大戦後、戦闘ファッシを結成。ファシズム運動を展開。
1921年、国民ファシスト党に改組し、首領(ドゥーチェ)に就任。
1922年、ローマ進軍といわれるクーデターを起こして首相に就任。
1926年には、国民ファシスト党以外の政党を非合法化して一党独裁体制を確立。
1935年にはエチオピアを侵略、国際的に孤立すると、ナチスドイツと接近、スペイン内乱ではフランコ政権支持で介入。
1937年、日独伊防共協定締結。
1940年、自ら軍最高司令官となり、第2次世界大戦に参戦。
1943年に失脚、逮捕されるが、ドイツに救出され、イタリア社会共和国を樹立。
大戦末期の 1945年 4月、スイスへの逃亡途中、パルチザンに逮捕され、愛人とともに銃殺。
(58) 住井某=住井辰男 (1881―1962)
実業家、三井財閥の筆頭理事。三重県生まれ。
三井物産会長、三井造船専務、重要物資管理営団理事長、交易営団副総裁などを歴任。
三井本社常務理事を務めていた 1945年(昭和 20年)、日本経済の民主化を推進しようとする GHQ(連合国総司令部)から財閥解体の指令を受け、三井財閥の幕を引く役回りを演じた。
(59) 船田某=船田一雄 (1877―1950)
実業家、三菱財閥理事長。愛媛県生まれ。東京大学卒業。
1908年(明治 41年)に検事に任用されるが、1911年(明治 44年)に辞任して三菱財閥の中枢である三菱合資(後の三菱本社)に入社。
三菱鉱業で労務管理に辣腕を振るい、テクノクラートとしての優秀さによって、三菱鉱業常務、三菱商事会長などを経て、1943年(昭和 18年)、三菱財閥の中枢である三菱本社の取締役理事長に就任、四代目統帥の岩崎小弥太社長を支えた。
敗戦後、米占領軍の財閥解体に伴い、1945年(昭和 20年)11月、三菱本社の株主総会で、財閥解体を宣言、三菱財閥の幕引き役となった。
このとき、船田は三菱理事長のほか、三菱重工業、電気、鉱業、銀行、倉庫、日本アルミ、日本郵船、東京海上、明治生命の取締役を務めていたが、すべて辞任した。
(60) 渋沢栄一 (1840―1931)
実業家。武蔵国(埼玉県)の豪農に生まれる。
討幕運動に参加したが、1864年(元治元年)、一橋家に仕え、1866年(慶応 2年)、慶喜が徳川将軍人になると幕臣に。
1867年(慶応 3年)、パリ万国博覧会に随行員として渡欧。
明治維新後に国し、大蔵省に入り、国立銀行条例制定をはじめ、租税、貨幣、銀行制度などの整備に活躍。
1873年(明治 6年)、退官後、実業界に転じ、日本最初の銀行である第一国立銀行や、王子製紙、大阪紡績会社など、500社を超える会社の設立に関与。
朝鮮や中国へも事業展開するなど、日本の資本主義の基礎を築く。
1916年 (大正 5年)、実業界から引退、教育事業や社会事業に力を尽くす。
著書に『雨夜譚』『論語と算盤』など。
(61) 井上準之助 (1869―1932)
日本銀行総裁、大蔵大臣。大分県生まれ。
東京大学卒業後、日本銀行に入行。英国、米国に遊学。
横浜正金銀行頭取を経て、1919年(大正 8年)、日本銀行総裁に就任。
1923年(大正 12年)、第二次山本権兵衛内閣の大蔵大臣。
1927年(昭和 2年)、再び日銀総裁に就任。
1929年(昭和 4年)、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣。
金本位制への復帰を目指し、「井上財政」といわれる緊縮デフレ財政政策を推進、金解禁に踏み切るが、ニューヨーク株式相場の大暴落に端を発した世界恐慌も加わり、不況は深刻化した。
社会不安が高まる中、一人一殺主義を唱える右翼団体、血盟団の小沼正に暗殺された。
著書に『戦後に於ける我国の経済及金融』などがある。
ちょっとおしゃべり
“千両役者のオールスターキャスト” ・・・確かにスゴイですねえ(笑)歴史に残る 2つの大きな世界戦争。そんな空気というか大気が地球上を覆っていたのでしょうね。
となると、小物しかいない今の日本は、世界戦争なんて心配はない(笑)
ただ、この平和ボケのまま、知らないうちに日本が消えていた、なんてことはかなり可能性が高い現状です。すでに 70% くらいは消えかかっている。(2009.11.29)
その日本の現状を少しでも分かって貰いたくて、この本を書き写しています。
この記事は2009年11月29日保存の再投稿です。