NICKELBACK ~ Never Gonna Be Alone (2008)
永野護著『敗戦真相記』
2002年7月15日発刊
戦争はどのようにして起こったのか (1)
日本は負けました。しかも完全に負けたのであります。しかし、静かに反省してみると、みんなの胸の中に何だかまだ割り切れない、もやもやとした感情が残っておりはしないか。すなわち、はっきり負けたとは理屈の上では考えながら、どうも本当に負けたという気持になれない。いわゆる、勝負には負けたが、角力(すもう)には勝っていたのではないか。だから、もう一遍、角力を取れば、相手を投げ付けることができるのではないかという気持が起こっていやしないかと思います。
こういう気持は、実は非常に危険な気持ちでありまして、(1) 第一次ヨーロッパ戦争(第一次世界大戦)の後に、ドイツ人の胸中に普遍的にわだかまっていた思想と同一であります。当時、ドイツ人は国内には一人も敵兵を入れず、いわゆる連勝連勝で敵国深く侵入しておったのに、何だか知らないが、おしまいにガタガタと形勢が悪くなっって、いつの間にかベルサイユで天文学的な賠償金を払うような終末を告げるに至った。だから、(2) ベルサイユ条約 が厳然たる事実であることを毎日の体験で知らされながらも、本当に負けたという気持がどうしてもピッタリこなかったので、その結果、何が故に負けたかという理由を自分の中に求めないで、第三者にその原因を求めて行った。
特に敗因の最も大きい部分をユダヤ人の責に帰して、ユダヤ人が内輪から裏切ったから、(3) ゲルマン民族は優秀であったにかかわらず、戦争に負けたのであると決め込んでしまい、有名な (4) ユダヤ人征伐というものを始めて、ついには (5) アインシュタインのような世界的な学者までユダヤ人であるという理由で叩き出してしまった。こうして、さあこれで本当にゲルマン一色でドイツ人を形成し得たから、もう一遍、角力を取ってみようという気持になったのが、第二次世界大戦勃発の大きな原因であったと思います。
しかし、その結果は、第一次大戦後においては、なお世界の強国としての立場が残っておったにもかかわらず、今度、根こそぎドイツ国家そのものまでも地球上から抹殺されるというような悲惨な事態を招来するに至ったのであります。
私は、日本がここでドイツの二の舞をして、すなわち自分の内部にその敗因を求めないで、外部にこれを求めるという風な態度に出ると、せっかく、いま (6) 2,600年の歴史をとにもかくにも食い止め得ているのに、この次には、日本人が本当に地球上から抹殺されるというようなひどい目に遭わないとも限らないですから、ここで冷静に、負け惜しみを言わないで、何が故に我々は戦争に負けたかという事実を反省してみて、そうして誤っていた点は今後、断じて再び繰り返さないようにしなければならないと信ずるものであります。そこで何が故に戦争が起こったか、どうして負けたかということについて、赤裸々なる私の所感を申し述べてみたいと思います。
私はまず、日本をして、この不幸なる戦争の渦中に身を投ぜしめた各種の原因のうち、最も基本的なものを究明していきたいと思います。
この戦争の最も根本的な原因は、日本の国策の基本理念が間違っておったということであります。換言すれば、日本が口先では万邦共栄というようなことを言いながら、肚(はら)の中では日本だけ栄えるという日本本位の考え方をあらゆる国策の指導理念にしておった。すなわち、有無相通ずる自由主義ということをいつの間にか忘れて、日本の国の利益のみを目的せる自給自足主義を(7) 大東亜共栄圏建設の名前で強行したということが、今度の戦争が起こった根本的な原因だと考えます。
元来、(8) ペリーが浦賀に来て徳川 300年の夢を醒ました時には、日本国民は見るもの聞くもの皆びっくりするほど、彼我の間に文化の差を発見し、一時は盲目的な欧米心酔者が横行した時代さえあった。そのころに、こんな強国を向こうに回して戦争をしようなんていう大それたことを考えた者は日本に一人もいやしなかったのです。幸い我々の父にあたり、あるいは祖父にあたる当時の日本の指導者の施政よろしきを得て、開国当時はどうひいき目に見ても、四等国以下の国力しかなかったものが、次第次第に三等国となり、二等国となり、ついに (9) 日清・(10) 日露の両戦役を終わると、一等国の仲間に入ったと自負するに至り、さらに、第一次欧州大戦に連合国側に参加して勝利を占めると、もう押しも押されもせぬ世界の五大強国の 1 つとなったのですが、この昇る旭のような日本の国運を寿(ことほ)いでいる、その一番得意な時代に、今日の日本の禍因がその種を蒔かれたのでありまして、古人の言う「事を敗るは多く得意の時に因す」とは、まさにこのことです。
すなわち、最初はこの蕞爾(さいじ)たる(非常に小さな)一島国が、どうして強大なる欧米の諸勢力の間に介在して独立の存在を保って行き得るであろうかということが、手一杯の目標だったのですが、国運が伸びるにつれて、そういう消極的な目標では満足し切れなくなって、進んで積極的に、日本の国が他の国の御世話にならないで、日本の国だけで立ち行くことのできるような、いわゆる自給自足の体制を取ろうという考え方が国民の間に一般的に盛り上がって来ました。少なくとも軍部の指導者は、東亜 10億の支配者たる位置は、日本国民に対し天から授けられた任務であるとさえ自負するに至りました。この傾向が良かったか悪かったか、ということは、なお後世の歴史家の判断を待つ点があるかもしれないけれども、日本の政治勢力を独占した軍部が、この目的を実現するためにとった手段は非常に拙劣であり、いたずらに功を焦って、九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠くような結果になったことは、真に遺憾千万と言わざるを得ません。
すなわち、日清、日露の両戦争までは、日本の軍部の指導者も事を起こす前には、非常な細心の注意を払い、いわゆる薄氷を踏む思いで戦争に入ったのですから、その切り上げどきについても戦争の始まる前から十二分に研究しておいて、少しでも早く戦争を切り上げたいと念願しておりました。
現に、私の知っておるだけの事実について言っても、日露戦争のときに、(11) 中島久万吉男爵は (12) 桂太郎総理大臣の秘書官をしておられたのですが、ある日、(13) 児玉源太郎大将が、中島さんのところにみえて、 「桂は忙しくて、桂と打ち合わせをしておったのでは事務が遅れて困るから、君と直接、電話で打ち合わせよう」と言われ、桂さんと中島さんと児玉さんとの間に暗号電報をこしらえて、その写しを、桂さんと中島さんと児玉さんの 3 人が持つことにして、新橋から発たれたのです。発たれた、その次の日から盛んにその暗号電報を使って、戦争を止める何か具体的な情報は無いかと催促されたそうです。そうして戦争終結の機会がつかみ得るならば、軍のほうは自分が全責任をもってとりまとめるから、そのほうは心配しないで、すぐにも講和に入ってくれと、たびたび言われたそうです。
また、(14) 金子堅太郎氏が(15) ルーズベルト (米大統領)と懇意であるというので、日露戦争に入る前から、あらかじめルーズベルトのところに金子さんを派遣しておいて、戦争を切り上げる機会を取り逃さないように手配をしておったということも有名な外交的事実です。
つまり一刻も早く戦争を切り上げようとする努力を最初からしていたのです。したがって、機至れり、とみるや、いわゆる (16) 日比谷の焼打ち事件というような犠牲をおかして、民間の強硬論を圧迫してまでも手際よく戦争を切り上げてしまったのです。
これを、(17) 支那事変の最中、せっかく到来した 2 度までの全面和平のチャンスを、いたずらに思い上がって取り逃がした (18) 東条英機軍閥の無定見と軍統制力の欠如と比較すると、正に天地雲泥の相違であります。
しかし、この東条軍閥の罪悪とか責任とか無能力とかいうことは、むしろ第二義的な問題でありまして、戦争の原因を深く突き詰めて考えますと、日本の勢力範囲内に、戦争のための必要とするあらゆる物資を皆収めておかなければならないという、日本本位の自給自足主義が根本的なガンであることがわかります。一度、この自給自足主義を肯定した以上は、他国の資源・領土を侵略していくという結果を招来することは資源の不足している日本の行き方として当然の帰結と言わなければならない。(19) 満州事件(満州事変)が突発し、それが支那事変へと発展し、さらに (20) 大東亜戦争へと進んでいった経緯はちょうど一定の鉄道のレールの上を急行列車が進んでいくようなもので、一度ポイントを切り違えた以上は、その終点まで行き着いてしまうことは必然のことであって、中途からこの列車を後戻しすることはすこぶる困難である。しかも、その鉄道の工事はすこぶる不十分なもので、ボルトやナットを打ちこんでいないようなところがたくさんあったにもかかわらず、無理にその上に急行列車を走らせたものだから、ついに転覆してしまったような結果になったのであります。この日本の国策決定の根本方針が間違っておったことが、今度の戦争が生まれた基本的原因であります。
東条軍閥は、この不幸なる運命に拍車をかけたにすぎない。すなわち大東亜共栄圏の思想を肯定したものは、ある意味で大なり小なり戦争責任者であると私は信じております。
かくのごとく、この自給自足主義が戦争の胚子(はいし)でありますが、この胚子に対して、水ともなり、太陽熱ともなって、これを不幸なる戦争にまで育て上げた、いくつかの事情が挙げられるのです。私は、国民的反省のために、この自給自足主義という戦争の胚子を、この大戦争にまで育て上げた諸事情を進んで指摘してみたいと思います。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
( 1) 第1次ヨーロッパ戦争
第 1 次欧州大戦、第 1 次世界大戦のこと。
1914年~1918年まで、『三国協商』(英国、フランス、ロシア)と、『三国同盟』(ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア=1915 年 5 月に離脱)を中心とした 2つの陣営に分かれて戦った世界規模の戦争。
1914年 6月、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、白昼暗殺されたのをきっかけに、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。これに対してロシアがセルビアを支援して介入、これを見てドイツがオーストリア・ハンガリー帝国を支援すると言った具合に、各国が戦争に巻き込まれていった。
日英同盟を結んでいた日本は、1914年にドイツに対して宣戦布告、チンタオ(青島)などのドイツ植民地を攻撃、占領した。
『三国同盟』側で最後まで戦ったドイツが 1918年 11月に休戦協定に調印、翌 1919年に『ベルサイユ条約』が結ばれ、講和が成立した。
欧州を主戦場とした戦争であり、日本の産業界は戦争特需で活況を呈した。
( 2) ベルサイユ条約
第 1 次世界大戦後、〔敗戦国ドイツ〕と〔英米仏など連合国〕との間で結ばれた講和条約。
1919年 6月 28日、ベルサイユ宮殿の「鏡の間」で調印された。この条約によって、ドイツは海外植民地の全てを失い、第 1 次大戦前に比べて約 10% の領土と人口を喪失した。
また、徴兵制の廃止、潜水艦の禁止、軍用航空機の廃棄などの軍備制限のほか、多額の賠償金を課せられた。
この賠償金支払いの結果、ドイツは通貨の暴落と天文学的なインフレーションに見舞われ、経済は崩壊、国民は日々の生活で敗戦を実感することになった。
( 3) ゲルマン民族
ドイツの中心を占める民族。インド=ヨーロッパ語族のうち、ゲルマン語派の言語を用いる民族の総称。ドイツのほか、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、アングロ・サクソンなどが属す。
アドルフ・ヒトラー率いるナチスは純粋なアーリヤ人(ゲルマン人)の人種的な優越性を主張し、ユダヤ人を排除しようとした。
( 4) ユダヤ人征伐
1933年、ドイツにナチス政権が誕生すると、ユダヤ人を経済・政治活動から排除する動きが強まり、非アーリヤ人(非ゲルマン人)の公務員は解雇され、ユダヤ人企業は解散、財産処分、所有権の移転などを迫られた。
1938年、フランスのパリで、ドイツ人外交官がユダヤ人に暗殺されたことをきっかけに起きた「水晶の夜」では、ユダヤ教会が放火され、ユダヤ人商店が襲撃された。
第 2 次大戦中には、アウシュビッツなどの強制収容所でユダヤ人の組織的な殺戮が行われ、「ホロコースト」といわれた。
( 5) アルバート・アインシュタイン (1879―1955)
相対性理論で知られる、ドイツ生まれの物理学者。南ドイツのウルムに生まれ、スイスのチューリヒ工科大学を卒業後、1902年、ドイツのベルン特許局技師となる。
1905年、ブラウン運動理論、光量子仮説、特殊相対性理論を相次ぎ発表、1909年にチューリヒ大学の物理学教授。
プラハ大学などを経て、1913年にベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所の物理学部長。
1915年に完成した「一般相対性理論」で国際的に注目される。
1921年、ノーベル物理学賞を受賞。1922年に来日、各地で公演、熱烈な歓迎を受けた。
1933年にナチス政権が樹立すると米国に逃れ、プリンストン高等研究所員、1939年には、ドイツの原子爆弾製造を米大統領のルーズベルトに警告、これが米国の原爆開発につながったといわれる。
1940年に米国の市民権を獲得。晩年は核兵器廃絶などの平和運動に尽力した。
( 6) 2,600年=皇紀2600年
『日本書紀』にある、神武天皇即位の年を紀元とした日本独自の紀元表記。1872年(明治5年)に太政官布告で、神武天皇即位の年を「西暦紀元前 660年」として紀元にすることを定めた。
1940年(昭和 15年)は「皇紀 2600年」にあたるため、様々な祝賀行事が行われた。
ここでは「日本が誕生して以来」という意味で使われている。
( 7) 大東亜共栄圏
太平洋戦争の際に提唱された、中国、東南アジア諸国を欧米の植民地支配から解放し、日本を中心とした共存共栄の経済圏を作るという構想。1940年(昭和 15年)、二次近衛文麿内閣の松岡洋右外務大臣が初めて使ったもので、太平洋戦争遂行にあたってのスローガンだった。
( 8) マシュー・C・ペリー (1794―1858)
米国の海軍軍人、日本開国を求めて「黒船」で来航した。
米国の蒸気船海軍の父とも言われ、1852年、東インド艦隊司令長官に就任。1853年、浦賀水道沖に 4 隻の上記軍隊で来航。この黒船出現によって、江戸は大混乱に陥った。
ペリーは、フィルモア大統領の国書を幕府に渡し、開国を迫った。一時、中国に退去した後、翌 1954年に再び来航。下田・函館の開港を認めた『神奈川条約(日米和親条約)』を締結、開国への第一歩となった。
帰国後、ペリーは『日本遠征記』を著した。
( 9) 日清戦争
1894年(明治27年)に勃発した〔朝鮮支配〕をめぐる〔日本〕と〔清国(=中国〕との戦争。
朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧のために出動した清国軍と日本軍が、1894年 7月、豊島沖海戦で戦闘を開始、同年 8月、両国は宣戦を布告、日本は平壌、黄海、旅順で勝利を収め、1895年(明治 28年)4月に 『下関条約(日清講和条約)』が結ばれ、戦争は終結した。
この結果、賠償金とともに、遼東半島、台湾などを領有することになったが、ロシア、フランス、ドイツの『三国干渉』により遼東半島は清国に返還した。
(10) 日露戦争
1904年(明治 37年)に起きた、〔満州・韓国の支配権〕をめぐる〔日本〕と〔帝政ロシア〕との戦争。
三国干渉後、清国への進出を進めるロシアに対し、日本は『日英同盟』を締結し、利害調整をはかろうとしたが、両国の交渉は不調に終わった。
1904年 2月、日本が旅順のロシアを奇襲攻撃、両国は宣戦を布告。
ロシア艦隊の基地があった旅順を 5万 9千人の戦死者を出しながら陥落させ、「奉天(現在の瀋陽)会戦」でも勝利を収めた。
1905年(明治 38年)5月、日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃破したことをきっかけに、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋により、『日露講和条約(ポーツマス条約)』が結ばれた。
日本の
・ 韓国における優越権の承認、
・ 関東州の租借権、
・ 長春~ 旅順間の鉄道譲渡 (後の満鉄)、
・ サハリン半島南半分の割譲
などを得たが、賠償金を得ることはできなかった。
(11) 中島久万吉 (1873―1960)
実業家、政治家。東京高商(現一橋大学)を卒業。
1906年(明治 39年)、古河財閥に入り、古河合名理事、横浜護謨、古河電工社長を歴任。
1932年(昭和 7年)、斎藤実内閣の商工大臣となったが、帝銀事件に連座して政界を引退。
戦後は、日本貿易会を設立し、事業家として活躍。
著書に『正解財界 50年』がある。
(12) 桂太郎 (1847―1913)
軍人、政治家。長州藩士として戊辰戦争では奥羽を転戦。
長州閥で、山県有明の直系。
明治維新後はドイツに留学し、帰国後は陸軍にドイツ式の兵制を導入した。
1898年(明治 31年)、伊東博文内閣の陸軍大臣。
1901年(明治 34年)、第一次桂内閣を組閣、「日英同盟」を締結、「日露戦争」を遂行するが、1906年(明治 39年)、日比谷焼打ち事件など、「日露講和条約」締結に対する国民的反対運動が激化し退陣。
第二次桂内閣(1908~1911)では〔韓国を併合〕。
1912年(大正元年)12月、再び首班となるが、護憲運動の高まりから翌年 2 月に総辞職。
(13) 児玉源太郎 (1852―1906)
陸軍軍人。
徳山藩士として戊辰戦争に参加。佐賀の乱、西南戦争に従軍。
1898年(明治 31年)、台湾総督に就任。後藤新平を登用して植民地経営の基礎を築く。
1900年(明治 33年)、第四次伊藤博文内閣の陸相を兼任。
1904年(明治 37年)、陸軍大将に就任。
日露戦争では満州軍総参謀長として大山巌総司令官を補佐。旅順攻略作戦を指揮。
1906年(明治 39年)、「陸軍参謀総長」 兼「南満州鉄道株式会社(満鉄)創立委員長」に就任。
(14) 金子堅太郎 (1853―1942)
政治家。
1871年(明治 4年)、福岡藩留学生として渡米、ハーバード大学で法学を学ぶ。
1880年(明治 13年)、元老院に入り、
伊東博文のもとで、井上毅、伊東巳代治とともに 『大日本帝国憲法の起草』 に従事。
1898年(明治 31年)、第三次伊藤内閣の農商務相、
1900年(明治 33年)、第四次伊藤内閣の法相。
日露戦争中は米国に派遣され、旧友のセオドア・ルーズベルト米大統領らと折衝、対日世論を好転させた。
1906年(明治 39年)、枢密顧問官に就任、「法の番人」を自称した。
(15) セオドア・ルーズベルト (1858―1919)
アメリカ合衆国第 26代大統領(1901-1909)。
ニューヨーク生まれ。ハーバード大学卒業。
ニューヨーク州下院議員、同市警察総監などを務め、1898年に米西戦争が起きると義勇軍を指揮し国民的英雄になり、同年ニューヨーク州知事。
1900年、マッキンリー大統領のもとで副大統領。
1901年、マッキンリー暗殺によって昇格。史上最年少の大統領に。(43歳)
国内では、独占企業の規制や資源保護を進める一方、対外的にはパナマ運河地帯の獲得などカリブ海地域へ勢力を拡大、帝国主義的外交を展開した。
日露戦争終結へ調停にあたり、1906年に米国人ではじめて「ノーベル平和賞」を受賞した。
著書に『アメリカと世界戦争』などがある。
(16) 日比谷焼打ち事件
『日露講和条約(ポーツマス条約)』に反対した民衆運動。
日露戦争の講和条約については、旅順攻略線などで多大な犠牲を出しながら、賠償金がないなど、戦果が不十分で得あることを理由に、国民の間には反発が高まった。
こうしたなか、条約締結日の 1905年(明治 38年)9月 5日に、東京・日比谷公園で開催された〔講和条約反対国民大会〕に集まった民衆は、政府の講和交渉に不満を爆発させ、暴徒化、政府系の新聞だった国民新聞社、内相官邸、警察署などを焼打ちにした。
政府は翌 6日、東京市と東京府下に戒厳令を敷き、軍隊を出動、鎮圧した。
しかし、その後も騒乱は各地に波及、全国で反対集会が開かれ、同年 12月、桂内閣は退陣に追い込まれた。
(17) 支那事変
日中戦争。「日華事変」ともいう。
1937年(昭和 12年) 7月の盧溝橋事件に始まり、1945年(昭和 20年)の敗戦まで続いた 8 年間にわたる
〔日本〕と〔中国=中華民国=蒋介石の国民政府。〕との全面戦争。
日本は 1937年までに、北京、天津、上海、南京などを占領、蒋介石の国民政府は首都を重慶に移転し、抗日戦を展開した。
近衛文麿首相は「国民政府は相手にせず」との声明を出し、徐州、広東、武漢三鎮に戦線を拡大、
・ 1939年 (昭和 14年) には海南島、南寧を占領、
・ 1940年 (昭和 15年) には北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐、
重慶への圧力を強めたが、局面を打開できなかった。
1941年(昭和 16年)12月には対英米戦争に突入。
1943年(昭和 18年)にガダルカナル戦に敗北するなど南方戦線が劣勢になると、重慶攻略作戦を放棄。
ついに 1945年(昭和 20年)8月、『ポツダム宣言』受諾により、中国(=中華民国)の日本軍は蒋介石の国民政府に降伏した。
(18) 東条英機 (1884―1948)
陸軍軍人、政治家。太平洋戦争開戦時の首相。
東京生まれ。陸軍大学校卒業。永田鉄山とともに陸軍統制派の中心人物。
関 東軍参謀長、陸軍次官を経て、
・ 1940年 (昭和 15年)、第二次近衛文麿内閣、
・ 1941年 (昭和 16年)、第三次近衛内閣の、陸軍大臣。
対・英米強硬論を主張し、同年、現職の軍人のまま東条内閣を組閣、対英米戦争に突入する。
陸相、内相を兼任する独裁的体制をつくったが、1944年(昭和 19年)7月、サイパン陥落で内閣総辞職。
敗戦後、A 級戦犯容疑で逮捕される直前にピストル自殺を図るが失敗。
『極東国際軍事裁判(東京裁判)』で死刑判決を受け、絞首刑。
『東京裁判』は、冒頭に “極東” とあるように、正式な国際軍事裁判ではなく、「地域的な略式裁判」とされています。
のちに最高責任者であったマッカーサー自身が、日本の正当性を証言しています。
◆ マッカーサー証言
(http://natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-2483.html )
◆ 戦争放棄の理想も自衛には道を譲れ
(http://natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-258.html )
また、日本国内では、4度の国会審議、また当時の日本の人口の半数以上にあたる 4千万人の嘆願署名も得て、1955年(昭和30年)に赦免され、「名誉の回復」がなされています。
(19) 満州事件=満州事変
1931年(昭和 6年)9月 18日の柳条湖事件に始まる満州(現在の中国東北部)への侵略戦争。
中国・柳条湖付近で満鉄((10)日露戦争を参照)の線路が爆破されたのを口実に、政府の不拡大方針にもかかわらず関東軍は独走、満州への侵略を進め、1932年(昭和 7年)3月に満州国の建国を宣言。
同年 9月、斎藤実内閣は「満州国」を承認した。
『国際連盟』はこの事態に対し、英・米・仏・独・伊の 5カ国の委員から構成された 「リットン調査団」を満州に派遣、現地調査した結果、日本の軍事行動を侵略とみなし、満州から撤退することを求めたが、日本は拒否。
1933年(昭和 8年)、日本は『国際連盟』を脱退するに至る。
(20) 大東亜戦争
「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」の戦時中の呼称。
1941年(昭和 16年)12月 8日の対英米開戦から、1945年(昭和 20年)8月 15日(「降伏文書」調印は 9月 2日)まで続いた〔アジア・太平洋地域〕における〔日本〕と〔連合国〕との戦争。
1941年 (昭和 16年) 12月 10日、大本営政府連絡会議は、対英米戦開戦にあたり、「支那事変(日中戦争)」も含めて「大東亜戦争」と呼ぶことを決定、敗戦までこれが日本側の正式呼称となった。
2002年7月15日発刊
戦争はどのようにして起こったのか (1)
日本は負けました。しかも完全に負けたのであります。しかし、静かに反省してみると、みんなの胸の中に何だかまだ割り切れない、もやもやとした感情が残っておりはしないか。すなわち、はっきり負けたとは理屈の上では考えながら、どうも本当に負けたという気持になれない。いわゆる、勝負には負けたが、角力(すもう)には勝っていたのではないか。だから、もう一遍、角力を取れば、相手を投げ付けることができるのではないかという気持が起こっていやしないかと思います。
こういう気持は、実は非常に危険な気持ちでありまして、(1) 第一次ヨーロッパ戦争(第一次世界大戦)の後に、ドイツ人の胸中に普遍的にわだかまっていた思想と同一であります。当時、ドイツ人は国内には一人も敵兵を入れず、いわゆる連勝連勝で敵国深く侵入しておったのに、何だか知らないが、おしまいにガタガタと形勢が悪くなっって、いつの間にかベルサイユで天文学的な賠償金を払うような終末を告げるに至った。だから、(2) ベルサイユ条約 が厳然たる事実であることを毎日の体験で知らされながらも、本当に負けたという気持がどうしてもピッタリこなかったので、その結果、何が故に負けたかという理由を自分の中に求めないで、第三者にその原因を求めて行った。
特に敗因の最も大きい部分をユダヤ人の責に帰して、ユダヤ人が内輪から裏切ったから、(3) ゲルマン民族は優秀であったにかかわらず、戦争に負けたのであると決め込んでしまい、有名な (4) ユダヤ人征伐というものを始めて、ついには (5) アインシュタインのような世界的な学者までユダヤ人であるという理由で叩き出してしまった。こうして、さあこれで本当にゲルマン一色でドイツ人を形成し得たから、もう一遍、角力を取ってみようという気持になったのが、第二次世界大戦勃発の大きな原因であったと思います。
しかし、その結果は、第一次大戦後においては、なお世界の強国としての立場が残っておったにもかかわらず、今度、根こそぎドイツ国家そのものまでも地球上から抹殺されるというような悲惨な事態を招来するに至ったのであります。
私は、日本がここでドイツの二の舞をして、すなわち自分の内部にその敗因を求めないで、外部にこれを求めるという風な態度に出ると、せっかく、いま (6) 2,600年の歴史をとにもかくにも食い止め得ているのに、この次には、日本人が本当に地球上から抹殺されるというようなひどい目に遭わないとも限らないですから、ここで冷静に、負け惜しみを言わないで、何が故に我々は戦争に負けたかという事実を反省してみて、そうして誤っていた点は今後、断じて再び繰り返さないようにしなければならないと信ずるものであります。そこで何が故に戦争が起こったか、どうして負けたかということについて、赤裸々なる私の所感を申し述べてみたいと思います。
私はまず、日本をして、この不幸なる戦争の渦中に身を投ぜしめた各種の原因のうち、最も基本的なものを究明していきたいと思います。
この戦争の最も根本的な原因は、日本の国策の基本理念が間違っておったということであります。換言すれば、日本が口先では万邦共栄というようなことを言いながら、肚(はら)の中では日本だけ栄えるという日本本位の考え方をあらゆる国策の指導理念にしておった。すなわち、有無相通ずる自由主義ということをいつの間にか忘れて、日本の国の利益のみを目的せる自給自足主義を(7) 大東亜共栄圏建設の名前で強行したということが、今度の戦争が起こった根本的な原因だと考えます。
元来、(8) ペリーが浦賀に来て徳川 300年の夢を醒ました時には、日本国民は見るもの聞くもの皆びっくりするほど、彼我の間に文化の差を発見し、一時は盲目的な欧米心酔者が横行した時代さえあった。そのころに、こんな強国を向こうに回して戦争をしようなんていう大それたことを考えた者は日本に一人もいやしなかったのです。幸い我々の父にあたり、あるいは祖父にあたる当時の日本の指導者の施政よろしきを得て、開国当時はどうひいき目に見ても、四等国以下の国力しかなかったものが、次第次第に三等国となり、二等国となり、ついに (9) 日清・(10) 日露の両戦役を終わると、一等国の仲間に入ったと自負するに至り、さらに、第一次欧州大戦に連合国側に参加して勝利を占めると、もう押しも押されもせぬ世界の五大強国の 1 つとなったのですが、この昇る旭のような日本の国運を寿(ことほ)いでいる、その一番得意な時代に、今日の日本の禍因がその種を蒔かれたのでありまして、古人の言う「事を敗るは多く得意の時に因す」とは、まさにこのことです。
すなわち、最初はこの蕞爾(さいじ)たる(非常に小さな)一島国が、どうして強大なる欧米の諸勢力の間に介在して独立の存在を保って行き得るであろうかということが、手一杯の目標だったのですが、国運が伸びるにつれて、そういう消極的な目標では満足し切れなくなって、進んで積極的に、日本の国が他の国の御世話にならないで、日本の国だけで立ち行くことのできるような、いわゆる自給自足の体制を取ろうという考え方が国民の間に一般的に盛り上がって来ました。少なくとも軍部の指導者は、東亜 10億の支配者たる位置は、日本国民に対し天から授けられた任務であるとさえ自負するに至りました。この傾向が良かったか悪かったか、ということは、なお後世の歴史家の判断を待つ点があるかもしれないけれども、日本の政治勢力を独占した軍部が、この目的を実現するためにとった手段は非常に拙劣であり、いたずらに功を焦って、九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠くような結果になったことは、真に遺憾千万と言わざるを得ません。
すなわち、日清、日露の両戦争までは、日本の軍部の指導者も事を起こす前には、非常な細心の注意を払い、いわゆる薄氷を踏む思いで戦争に入ったのですから、その切り上げどきについても戦争の始まる前から十二分に研究しておいて、少しでも早く戦争を切り上げたいと念願しておりました。
現に、私の知っておるだけの事実について言っても、日露戦争のときに、(11) 中島久万吉男爵は (12) 桂太郎総理大臣の秘書官をしておられたのですが、ある日、(13) 児玉源太郎大将が、中島さんのところにみえて、 「桂は忙しくて、桂と打ち合わせをしておったのでは事務が遅れて困るから、君と直接、電話で打ち合わせよう」と言われ、桂さんと中島さんと児玉さんとの間に暗号電報をこしらえて、その写しを、桂さんと中島さんと児玉さんの 3 人が持つことにして、新橋から発たれたのです。発たれた、その次の日から盛んにその暗号電報を使って、戦争を止める何か具体的な情報は無いかと催促されたそうです。そうして戦争終結の機会がつかみ得るならば、軍のほうは自分が全責任をもってとりまとめるから、そのほうは心配しないで、すぐにも講和に入ってくれと、たびたび言われたそうです。
また、(14) 金子堅太郎氏が(15) ルーズベルト (米大統領)と懇意であるというので、日露戦争に入る前から、あらかじめルーズベルトのところに金子さんを派遣しておいて、戦争を切り上げる機会を取り逃さないように手配をしておったということも有名な外交的事実です。
つまり一刻も早く戦争を切り上げようとする努力を最初からしていたのです。したがって、機至れり、とみるや、いわゆる (16) 日比谷の焼打ち事件というような犠牲をおかして、民間の強硬論を圧迫してまでも手際よく戦争を切り上げてしまったのです。
これを、(17) 支那事変の最中、せっかく到来した 2 度までの全面和平のチャンスを、いたずらに思い上がって取り逃がした (18) 東条英機軍閥の無定見と軍統制力の欠如と比較すると、正に天地雲泥の相違であります。
しかし、この東条軍閥の罪悪とか責任とか無能力とかいうことは、むしろ第二義的な問題でありまして、戦争の原因を深く突き詰めて考えますと、日本の勢力範囲内に、戦争のための必要とするあらゆる物資を皆収めておかなければならないという、日本本位の自給自足主義が根本的なガンであることがわかります。一度、この自給自足主義を肯定した以上は、他国の資源・領土を侵略していくという結果を招来することは資源の不足している日本の行き方として当然の帰結と言わなければならない。(19) 満州事件(満州事変)が突発し、それが支那事変へと発展し、さらに (20) 大東亜戦争へと進んでいった経緯はちょうど一定の鉄道のレールの上を急行列車が進んでいくようなもので、一度ポイントを切り違えた以上は、その終点まで行き着いてしまうことは必然のことであって、中途からこの列車を後戻しすることはすこぶる困難である。しかも、その鉄道の工事はすこぶる不十分なもので、ボルトやナットを打ちこんでいないようなところがたくさんあったにもかかわらず、無理にその上に急行列車を走らせたものだから、ついに転覆してしまったような結果になったのであります。この日本の国策決定の根本方針が間違っておったことが、今度の戦争が生まれた基本的原因であります。
東条軍閥は、この不幸なる運命に拍車をかけたにすぎない。すなわち大東亜共栄圏の思想を肯定したものは、ある意味で大なり小なり戦争責任者であると私は信じております。
かくのごとく、この自給自足主義が戦争の胚子(はいし)でありますが、この胚子に対して、水ともなり、太陽熱ともなって、これを不幸なる戦争にまで育て上げた、いくつかの事情が挙げられるのです。私は、国民的反省のために、この自給自足主義という戦争の胚子を、この大戦争にまで育て上げた諸事情を進んで指摘してみたいと思います。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
( 1) 第1次ヨーロッパ戦争
第 1 次欧州大戦、第 1 次世界大戦のこと。
1914年~1918年まで、『三国協商』(英国、フランス、ロシア)と、『三国同盟』(ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア=1915 年 5 月に離脱)を中心とした 2つの陣営に分かれて戦った世界規模の戦争。
1914年 6月、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、白昼暗殺されたのをきっかけに、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。これに対してロシアがセルビアを支援して介入、これを見てドイツがオーストリア・ハンガリー帝国を支援すると言った具合に、各国が戦争に巻き込まれていった。
日英同盟を結んでいた日本は、1914年にドイツに対して宣戦布告、チンタオ(青島)などのドイツ植民地を攻撃、占領した。
『三国同盟』側で最後まで戦ったドイツが 1918年 11月に休戦協定に調印、翌 1919年に『ベルサイユ条約』が結ばれ、講和が成立した。
欧州を主戦場とした戦争であり、日本の産業界は戦争特需で活況を呈した。
( 2) ベルサイユ条約
第 1 次世界大戦後、〔敗戦国ドイツ〕と〔英米仏など連合国〕との間で結ばれた講和条約。
1919年 6月 28日、ベルサイユ宮殿の「鏡の間」で調印された。この条約によって、ドイツは海外植民地の全てを失い、第 1 次大戦前に比べて約 10% の領土と人口を喪失した。
また、徴兵制の廃止、潜水艦の禁止、軍用航空機の廃棄などの軍備制限のほか、多額の賠償金を課せられた。
この賠償金支払いの結果、ドイツは通貨の暴落と天文学的なインフレーションに見舞われ、経済は崩壊、国民は日々の生活で敗戦を実感することになった。
( 3) ゲルマン民族
ドイツの中心を占める民族。インド=ヨーロッパ語族のうち、ゲルマン語派の言語を用いる民族の総称。ドイツのほか、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、アングロ・サクソンなどが属す。
アドルフ・ヒトラー率いるナチスは純粋なアーリヤ人(ゲルマン人)の人種的な優越性を主張し、ユダヤ人を排除しようとした。
( 4) ユダヤ人征伐
1933年、ドイツにナチス政権が誕生すると、ユダヤ人を経済・政治活動から排除する動きが強まり、非アーリヤ人(非ゲルマン人)の公務員は解雇され、ユダヤ人企業は解散、財産処分、所有権の移転などを迫られた。
1938年、フランスのパリで、ドイツ人外交官がユダヤ人に暗殺されたことをきっかけに起きた「水晶の夜」では、ユダヤ教会が放火され、ユダヤ人商店が襲撃された。
第 2 次大戦中には、アウシュビッツなどの強制収容所でユダヤ人の組織的な殺戮が行われ、「ホロコースト」といわれた。
( 5) アルバート・アインシュタイン (1879―1955)
相対性理論で知られる、ドイツ生まれの物理学者。南ドイツのウルムに生まれ、スイスのチューリヒ工科大学を卒業後、1902年、ドイツのベルン特許局技師となる。
1905年、ブラウン運動理論、光量子仮説、特殊相対性理論を相次ぎ発表、1909年にチューリヒ大学の物理学教授。
プラハ大学などを経て、1913年にベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所の物理学部長。
1915年に完成した「一般相対性理論」で国際的に注目される。
1921年、ノーベル物理学賞を受賞。1922年に来日、各地で公演、熱烈な歓迎を受けた。
1933年にナチス政権が樹立すると米国に逃れ、プリンストン高等研究所員、1939年には、ドイツの原子爆弾製造を米大統領のルーズベルトに警告、これが米国の原爆開発につながったといわれる。
1940年に米国の市民権を獲得。晩年は核兵器廃絶などの平和運動に尽力した。
( 6) 2,600年=皇紀2600年
『日本書紀』にある、神武天皇即位の年を紀元とした日本独自の紀元表記。1872年(明治5年)に太政官布告で、神武天皇即位の年を「西暦紀元前 660年」として紀元にすることを定めた。
1940年(昭和 15年)は「皇紀 2600年」にあたるため、様々な祝賀行事が行われた。
ここでは「日本が誕生して以来」という意味で使われている。
( 7) 大東亜共栄圏
太平洋戦争の際に提唱された、中国、東南アジア諸国を欧米の植民地支配から解放し、日本を中心とした共存共栄の経済圏を作るという構想。1940年(昭和 15年)、二次近衛文麿内閣の松岡洋右外務大臣が初めて使ったもので、太平洋戦争遂行にあたってのスローガンだった。
( 8) マシュー・C・ペリー (1794―1858)
米国の海軍軍人、日本開国を求めて「黒船」で来航した。
米国の蒸気船海軍の父とも言われ、1852年、東インド艦隊司令長官に就任。1853年、浦賀水道沖に 4 隻の上記軍隊で来航。この黒船出現によって、江戸は大混乱に陥った。
ペリーは、フィルモア大統領の国書を幕府に渡し、開国を迫った。一時、中国に退去した後、翌 1954年に再び来航。下田・函館の開港を認めた『神奈川条約(日米和親条約)』を締結、開国への第一歩となった。
帰国後、ペリーは『日本遠征記』を著した。
( 9) 日清戦争
1894年(明治27年)に勃発した〔朝鮮支配〕をめぐる〔日本〕と〔清国(=中国〕との戦争。
朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧のために出動した清国軍と日本軍が、1894年 7月、豊島沖海戦で戦闘を開始、同年 8月、両国は宣戦を布告、日本は平壌、黄海、旅順で勝利を収め、1895年(明治 28年)4月に 『下関条約(日清講和条約)』が結ばれ、戦争は終結した。
この結果、賠償金とともに、遼東半島、台湾などを領有することになったが、ロシア、フランス、ドイツの『三国干渉』により遼東半島は清国に返還した。
(10) 日露戦争
1904年(明治 37年)に起きた、〔満州・韓国の支配権〕をめぐる〔日本〕と〔帝政ロシア〕との戦争。
三国干渉後、清国への進出を進めるロシアに対し、日本は『日英同盟』を締結し、利害調整をはかろうとしたが、両国の交渉は不調に終わった。
1904年 2月、日本が旅順のロシアを奇襲攻撃、両国は宣戦を布告。
ロシア艦隊の基地があった旅順を 5万 9千人の戦死者を出しながら陥落させ、「奉天(現在の瀋陽)会戦」でも勝利を収めた。
1905年(明治 38年)5月、日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃破したことをきっかけに、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋により、『日露講和条約(ポーツマス条約)』が結ばれた。
日本の
・ 韓国における優越権の承認、
・ 関東州の租借権、
・ 長春~ 旅順間の鉄道譲渡 (後の満鉄)、
・ サハリン半島南半分の割譲
などを得たが、賠償金を得ることはできなかった。
(11) 中島久万吉 (1873―1960)
実業家、政治家。東京高商(現一橋大学)を卒業。
1906年(明治 39年)、古河財閥に入り、古河合名理事、横浜護謨、古河電工社長を歴任。
1932年(昭和 7年)、斎藤実内閣の商工大臣となったが、帝銀事件に連座して政界を引退。
戦後は、日本貿易会を設立し、事業家として活躍。
著書に『正解財界 50年』がある。
(12) 桂太郎 (1847―1913)
軍人、政治家。長州藩士として戊辰戦争では奥羽を転戦。
長州閥で、山県有明の直系。
明治維新後はドイツに留学し、帰国後は陸軍にドイツ式の兵制を導入した。
1898年(明治 31年)、伊東博文内閣の陸軍大臣。
1901年(明治 34年)、第一次桂内閣を組閣、「日英同盟」を締結、「日露戦争」を遂行するが、1906年(明治 39年)、日比谷焼打ち事件など、「日露講和条約」締結に対する国民的反対運動が激化し退陣。
第二次桂内閣(1908~1911)では〔韓国を併合〕。
1912年(大正元年)12月、再び首班となるが、護憲運動の高まりから翌年 2 月に総辞職。
(13) 児玉源太郎 (1852―1906)
陸軍軍人。
徳山藩士として戊辰戦争に参加。佐賀の乱、西南戦争に従軍。
1898年(明治 31年)、台湾総督に就任。後藤新平を登用して植民地経営の基礎を築く。
1900年(明治 33年)、第四次伊藤博文内閣の陸相を兼任。
1904年(明治 37年)、陸軍大将に就任。
日露戦争では満州軍総参謀長として大山巌総司令官を補佐。旅順攻略作戦を指揮。
1906年(明治 39年)、「陸軍参謀総長」 兼「南満州鉄道株式会社(満鉄)創立委員長」に就任。
(14) 金子堅太郎 (1853―1942)
政治家。
1871年(明治 4年)、福岡藩留学生として渡米、ハーバード大学で法学を学ぶ。
1880年(明治 13年)、元老院に入り、
伊東博文のもとで、井上毅、伊東巳代治とともに 『大日本帝国憲法の起草』 に従事。
1898年(明治 31年)、第三次伊藤内閣の農商務相、
1900年(明治 33年)、第四次伊藤内閣の法相。
日露戦争中は米国に派遣され、旧友のセオドア・ルーズベルト米大統領らと折衝、対日世論を好転させた。
1906年(明治 39年)、枢密顧問官に就任、「法の番人」を自称した。
(15) セオドア・ルーズベルト (1858―1919)
アメリカ合衆国第 26代大統領(1901-1909)。
ニューヨーク生まれ。ハーバード大学卒業。
ニューヨーク州下院議員、同市警察総監などを務め、1898年に米西戦争が起きると義勇軍を指揮し国民的英雄になり、同年ニューヨーク州知事。
1900年、マッキンリー大統領のもとで副大統領。
1901年、マッキンリー暗殺によって昇格。史上最年少の大統領に。(43歳)
国内では、独占企業の規制や資源保護を進める一方、対外的にはパナマ運河地帯の獲得などカリブ海地域へ勢力を拡大、帝国主義的外交を展開した。
日露戦争終結へ調停にあたり、1906年に米国人ではじめて「ノーベル平和賞」を受賞した。
著書に『アメリカと世界戦争』などがある。
(16) 日比谷焼打ち事件
『日露講和条約(ポーツマス条約)』に反対した民衆運動。
日露戦争の講和条約については、旅順攻略線などで多大な犠牲を出しながら、賠償金がないなど、戦果が不十分で得あることを理由に、国民の間には反発が高まった。
こうしたなか、条約締結日の 1905年(明治 38年)9月 5日に、東京・日比谷公園で開催された〔講和条約反対国民大会〕に集まった民衆は、政府の講和交渉に不満を爆発させ、暴徒化、政府系の新聞だった国民新聞社、内相官邸、警察署などを焼打ちにした。
政府は翌 6日、東京市と東京府下に戒厳令を敷き、軍隊を出動、鎮圧した。
しかし、その後も騒乱は各地に波及、全国で反対集会が開かれ、同年 12月、桂内閣は退陣に追い込まれた。
(17) 支那事変
日中戦争。「日華事変」ともいう。
1937年(昭和 12年) 7月の盧溝橋事件に始まり、1945年(昭和 20年)の敗戦まで続いた 8 年間にわたる
〔日本〕と〔中国=中華民国=蒋介石の国民政府。〕との全面戦争。
日本は 1937年までに、北京、天津、上海、南京などを占領、蒋介石の国民政府は首都を重慶に移転し、抗日戦を展開した。
近衛文麿首相は「国民政府は相手にせず」との声明を出し、徐州、広東、武漢三鎮に戦線を拡大、
・ 1939年 (昭和 14年) には海南島、南寧を占領、
・ 1940年 (昭和 15年) には北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐、
重慶への圧力を強めたが、局面を打開できなかった。
1941年(昭和 16年)12月には対英米戦争に突入。
1943年(昭和 18年)にガダルカナル戦に敗北するなど南方戦線が劣勢になると、重慶攻略作戦を放棄。
ついに 1945年(昭和 20年)8月、『ポツダム宣言』受諾により、中国(=中華民国)の日本軍は蒋介石の国民政府に降伏した。
(18) 東条英機 (1884―1948)
陸軍軍人、政治家。太平洋戦争開戦時の首相。
東京生まれ。陸軍大学校卒業。永田鉄山とともに陸軍統制派の中心人物。
関 東軍参謀長、陸軍次官を経て、
・ 1940年 (昭和 15年)、第二次近衛文麿内閣、
・ 1941年 (昭和 16年)、第三次近衛内閣の、陸軍大臣。
対・英米強硬論を主張し、同年、現職の軍人のまま東条内閣を組閣、対英米戦争に突入する。
陸相、内相を兼任する独裁的体制をつくったが、1944年(昭和 19年)7月、サイパン陥落で内閣総辞職。
敗戦後、A 級戦犯容疑で逮捕される直前にピストル自殺を図るが失敗。
『極東国際軍事裁判(東京裁判)』で死刑判決を受け、絞首刑。
『東京裁判』は、冒頭に “極東” とあるように、正式な国際軍事裁判ではなく、「地域的な略式裁判」とされています。
のちに最高責任者であったマッカーサー自身が、日本の正当性を証言しています。
◆ マッカーサー証言
(http://natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-2483.html )
◆ 戦争放棄の理想も自衛には道を譲れ
(http://natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-258.html )
また、日本国内では、4度の国会審議、また当時の日本の人口の半数以上にあたる 4千万人の嘆願署名も得て、1955年(昭和30年)に赦免され、「名誉の回復」がなされています。
(19) 満州事件=満州事変
1931年(昭和 6年)9月 18日の柳条湖事件に始まる満州(現在の中国東北部)への侵略戦争。
中国・柳条湖付近で満鉄((10)日露戦争を参照)の線路が爆破されたのを口実に、政府の不拡大方針にもかかわらず関東軍は独走、満州への侵略を進め、1932年(昭和 7年)3月に満州国の建国を宣言。
同年 9月、斎藤実内閣は「満州国」を承認した。
『国際連盟』はこの事態に対し、英・米・仏・独・伊の 5カ国の委員から構成された 「リットン調査団」を満州に派遣、現地調査した結果、日本の軍事行動を侵略とみなし、満州から撤退することを求めたが、日本は拒否。
1933年(昭和 8年)、日本は『国際連盟』を脱退するに至る。
(20) 大東亜戦争
「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」の戦時中の呼称。
1941年(昭和 16年)12月 8日の対英米開戦から、1945年(昭和 20年)8月 15日(「降伏文書」調印は 9月 2日)まで続いた〔アジア・太平洋地域〕における〔日本〕と〔連合国〕との戦争。
1941年 (昭和 16年) 12月 10日、大本営政府連絡会議は、対英米戦開戦にあたり、「支那事変(日中戦争)」も含めて「大東亜戦争」と呼ぶことを決定、敗戦までこれが日本側の正式呼称となった。
この記事は2009年11月27日保存の再投稿です。