SHINEDOWN ~ Never Gonna Let Go
SHINEDOWN 『THREAT TO SURVIVAL』 (2015.09.18)
(Amazon )
【戦後70年~東京裁判とGHQ (5 完)】
老兵・マッカーサーは
なぜ 「日本は自衛の戦争だった」 と証言したのか…
2015.12.24
(http://www.sankei.com/politics/news/151224/plt1512240001-n1.html )
米上下院合同会議で退任演説を行うマッカーサー。
「老兵は死なず。ただ去りゆくのみ」 の言葉で締めくくると
拍手はいつまでも鳴り止まなかった=1951年4月19日 (AP)
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。
神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。
さようなら」
1951年 4月 19日。
米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官 (SCAP) として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。
後に第 37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著 『指導者とは』 にこう記した。
「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。
彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。
ある上院議員は 『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』 と語った…」
8日前の 11 日、マッカーサーは第 33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。
人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中は闘争心でみなぎっていた。
マッカーサーは 1952年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでに叩き潰す腹づもりだったのだ。
演説でも 「私の朝鮮政策だけが勝利をもたらす。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」 とトルーマンを批判した。
米国内のマッカーサー人気は絶大だった。
愛機 「バターン号」 がサンフランシスコに到着した際は 50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。
逆に 「英雄」 を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。
連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーだが、米国での人気は絶大で、
ニューヨークやシカゴなどで行われたパレードには総勢数百万人が集まった。
写真は1951年4月20日 (ゲッティ=共同)
米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。
テーマは 『極東の軍事情勢とマッカーサーの解任』。
背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀があった。
マッカーサーは快諾した。
大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。
狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。
5月 3日の聴聞会初日。
証言台に立ったマッカーサーは質問に誠実に応じ、1950年 6月に勃発した 「朝鮮戦争」 の経緯をよどみなく説明し続けた。
質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは
「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」
と質した。
マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが狙いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
「日本は 4つの小さい島々に 8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。
彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。
綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。
その全てがアジアの海域に存在していた」
「もし原料供給を断ち切られたら 1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。
それを彼らは恐れた。
従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」
会場がどよめいた。
証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。
これは 「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」 という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、『東京裁判』 (極東国際軍事裁判) まで正当性を失ってしまう。
もっと言えば、5年 8カ月にわたり日本を占領統治し 「民主化」 と 「非軍事化」 を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。
この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。
マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。
× × ×
なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
日本の 「自衛戦争」 を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。
だが、マッカーサーが 「朝鮮戦争」 でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる。
マッカーサーは、「朝鮮戦争」 を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国 (中華人民共和国) という共産主義国の脅威を痛感した。
朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。
それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。
この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。
ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国が
「中ソが徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」
と動揺したこともあり、北緯 38度線付近で 「痛み分け」 にする策を練っていた。
これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。
これが、トルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
× × ×
マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。
ただ、「朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙する」 という戦略は、日本政府が独立を守るために 「日清戦争」 以来とってきた戦略と変わりない。
「過去 100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは、共産勢力を中国で増大させたことだ。
次の 100年で代償を払わなければならないだろう」
マッカーサーはこうも語った。
これは 「米国は戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなくソ連や中国共産党だった」 と言っているのに等しい。
マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。
「自衛戦争」 発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たとみるべきだろう。
× × ×
他にもマッカーサーは重要な証言を残した。
民主党上院議員、ラッセル・ロングが
「連合国軍総司令部 (GHQ) は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」
と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
「そうした評価を私は受け入れない。
勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。
いくつか例外があるだけだ」
「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
それならば日本の 「占領統治」 や 『東京裁判』 は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。
別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると
「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」
と答えた。
原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を 「虐殺」 と表現した意義は大きい。
このように 3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。
「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが 45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。
日本人はまだわれわれの 45歳に対して 12歳の少年のようである」
ただ、この発言の前後で
「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。
日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」
とも述べている。
「日本人の柔軟性」 をよい意味で “少年” に例えたといえなくもない。
日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。
マッカーサーにはその姿が 「12歳の少年」 に映ったのではないか。
× × ×
1952年 7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、1953年に第34代大統領に就任した。
マッカーサーは引退し、ニューヨークのホテル・ウォルドーフ・アストリアのスイートルームで愛妻ジーンと余生を過ごした。
軍人時代と同じく常に居間を歩き回り、昼寝を欠かさない規則正しい生活を送った。
マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ 民政局長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。
ただ、欠点も見抜いていた。
「マッカーサーの最大の過誤は、政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだ
った…」
1964年 4月 5日午後 2時 39分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で 84年の生涯を閉じた。
ポトマック川岸は桜が満開だった。
元首相、吉田茂は産経新聞に 『天皇制守った恩人』 と題した追悼文を寄せた。
昭和天皇も米大統領宛に弔電を打った。
葬儀は 8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。
毀誉褒貶 (きよほうへん) の激しい人生だった。
マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。
ただ、上院聴聞会での証言は軍人マッカーサーの偽らざる思いであり、一種の懺悔 (ざんげ) だったのかもしれない。
その遺体はバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館にジーンとともに葬られている。(敬称略)
◇
84歳で生涯を閉じたマッカーサーの葬儀は米議会議事堂の大広間で営まれ、
元首相の吉田茂も参列した=1964年4月10日、ワシントン (AP)
連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)
(Wikipedia )
民政局
(Wikipedia )
チャールズ・ルイス・ケーディス
(Wikipedia )
ニューディーラー
(Wikipedia )
社会民主主義
(Wikipedia )
【戦後70年~東京裁判とGHQ (1)】
火葬場から盗み出された7人の遺灰は… 広田弘毅は無理な罪状にも 「自ら計らわず」
(http://www.sankei.com/premium/news/151220/prm1512200024-n1.html )
【戦後70年~東京裁判とGHQ (2)】
石原慎太郎の忘れ得ぬ屈辱 東條英機は 「日本のヒトラー」 だったのか? 残された遺族たちは…
(http://www.sankei.com/premium/news/151221/prm1512210015-n1.html )
【戦後70年~東京裁判とGHQ (3)】
ダグラス・マッカーサーの嘘と虚栄 「天皇に代わる存在」 になるべく演出したが…
(http://www.sankei.com/premium/news/151222/prm1512220004-n1.html )
【戦後70年~東京裁判とGHQ (4)】
戦後史は闇市から始まった 占領政策の後遺症とWGIPの呪縛はなお…
(http://www.sankei.com/premium/news/151223/prm1512230010-n1.html )
◆ 意外なところから 「フランクフルト学派」 を理解する (^^;
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-16 )
☆ 片岡義男著 『音楽風景』 より
☆ ワッツの暴動
☆ ブラックパンサー党
◆ 超大国の自殺
★ 国家とは何ぞや?
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-20 )
★ 超大国の自殺 ☆ 概要 (上)
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-20-1 )
★ 超大国の自殺 ☆ 概要 (下)
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-21 )
◆ ここでもう一度、フランクフルト学派 (トロイの木馬革命)
( )
第6章 平等か、自由か?
( 1) 建国の父たちの信じていたもの
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-21-2 )
( 2) アメリカは平等に関心を持っていたか?
( 3) マディソン氏の沈黙
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23 )
( 4) 「われわれは・・・かれらを平等にはあつかえない」
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-1 )
( 5) 平等について――昔と今
1963年 ― 「自由の鐘をならせ」
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-2 )
1965年 ― 「自由だけでは充分ではない」
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-3 )
( 6) 「不平等こそ自然である」
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-4 )
( 7) ドードー
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-5 )
( 8) 試験の点数を平等に
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-6 )
( 9) 試験成績における世界のギャップ
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-7 )
(10) 異端者の火刑
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-23-8 )
(11) 政治的兵器としての平等
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2015-12-24 )
↧
◆ 超大国の自殺 (番外) 老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…
↧