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(1778) 第8章(1)天皇が大好きな韓国人 (2)天皇をうらやましがった中国人 (3)存在すること自体にある美しさ

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(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(
http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )



一月一日・日の丸の旗・ふじの山


第8章 新しい神の国

1. 天皇が大好きな韓国人
2. 天皇をうらやましがった中国人
3. 存在すること自体にある美しさ

4. 裏切りつづける怨恨共同体
5. ポスト近代の新しい神々の国

NEC_0011.JPG
『満蒙風俗写真帖』 の扉 (大正写真工芸所新京営業部 1936年)


1. 天皇が大好きな韓国人


黒田勝弘が拙編者の 『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』
   (鄭大均・古田博司編、文春新書、2006年)
で書いていることだが、韓国人にとって 「天皇」 とは公式的に遣いたくない語彙だそうである。

というのも、天皇は国王や王より格上の尊称であり、
「したがって中国文明圏で歴史的には格下のはずの日本が、
『天皇』 という呼称を遣うのは “生意気” で、しゃくにさわるのだ」
という。

韓国尾有力紙 「東亜日報」 2004年 12月 3日付では
それまでの 「天皇」 を 「国王」 ないし 「日王」 に改めるという表記変更まで発表した。


というと、韓国人がいかにも天皇ぎらいなように聞こえるかもしれないが、
彼らの背後の天皇観はなかなか複雑で、そう簡単でもなさそうである。

黒田氏もそのことは充分ご存分ご存じで、敢えて書きにくいこと書いて下さっているのだろう。


かつて、韓国大統領訪日の際の宮中晩餐会に参内したことがあった。

全斗煥大統領以来、韓国大統領の訪日の際には宮中晩餐会がいとなまれ、
恒例で朝鮮研究者が 2名ずつ呼ばれるのである。


このときは私の番だったのだが、
よい機会だったので、大統領と令夫人、その随行者たちをずっと観察していた。

この時の大統領は就任直後であったためか場なれせず、あまり落ち着きがなかった。

令夫人は握手をすると震えているのがすぐに伝わった。

そして随行者たちはどの顔も晴れがましさで一杯であった。


やがて豊明の間に入り、指定の席順で座る。

正面の壁絵は日本画の美しい翠色 (みどりいろ) が朝の狭霧 (さぎり) のようにけぶって見えた。


何のスピーチもなく、音もなく皇族方が入り口から現れる。

すると、われわれも自然と立ち上がり、お辞儀をする。

皇族方がお座りになり、われわれも着席する。

おのずと然るとはこのことであり、一切、態 (わざ) とらしさがなく、かくあってかくなるのである。

起立、礼でもするかと思っていたので、真に意外であった。


天皇陛下がお言葉を述べられ、韓国の大統領が答辞を述べ、
乾杯の後いよいよ晩餐となるのだが、筆者の隣の隣の席に当時の韓国大使がいた。

外目にわかるほどの有頂天ぶりで、歓喜あまってドンべりをがぶ飲みし、かなりの酔い加減であった。

間違いなく、天皇陛下にお会いして嬉しいのである。


大使のみならず、随行者たちもみなそうだと思うのだが、
国に帰ってから、まず身内のものに宮中に行った自慢話をすることだろう。

そして、それはおそらく彼らが引退し、家で多くの孫たちに囲まれる、幸せな晩年まで続くことになる。


そもそも朝鮮の歴史には、
文字の形で書かれた国の歴史と、口で伝えられる一族の歴史との 2 つがある。

この歴史の方は国史に優先し、
日本の天皇にお目にかかったなどということは、一族にとってとてつもない誉れなのである。


しかし、ナショナルな国史の目から見ると、
それは公言してはいけないことであり、天皇を日王と格下げしなければならない。

なぜならば、彼らは日本も韓国と同じく中華文明圏の一員であり、
中華から見れば弟のようなものだと思いこんでいるからなのである。


中華文明圏の諸国には、真ん中に中華という核があり、ここに皇帝がいなければならない。

その周りを北斗星のように諸国がめぐり、そこに諸々の王たちがいるはずである。

そして王たちの周りを、多くの宗族が取り巻いているというイメージがある。


しかし現実には、今では皇帝も王もいない。

いるのは日本の天皇陛下だけである。

そこに彼らの引き裂かれた天皇観が横たわっており、宗族は天皇に引き寄せられる。

ゆえに族史から見た天皇は、お会いしたい天皇陛下であり、
召されれば彼らは晴れがましくも参内し、その思い出は宗族の思い出となるのである。


天皇をうらやましがった中国人


日本国は倭奴国なり。

その国日出づるところに近きを以て、故に日本を以て名と為す。

或いはその旧名を悪 (にく) みてこれを改むと云う。

『宋史』 列伝、外国の日本条はまずこのような侮蔑的な言辞から始まる。


次に続くのは、蕹熙元年 (984 年) 、
日本の僧侶奝然 (ちょうぜん) とその仲間 5、6 名が海を渡ってきて、
銅器 10 余点と書物 2 巻を宋朝の皇帝に献上したという記録である。

その時、奝然が王に語ったところでは、日本という国では、
「国王、王を以て姓と為し、伝襲して今の王 64 世に至る。文武僚吏はみな世官なり」
なのだと言うのである。


天皇が王姓だというのは何かの間違いであろうが、このときまでで 64 代というのは当たっている。

つづいて本文にずらりと記載されている天皇名は、一部抜けていたり、誤記であったりするのだけれど、
どういうわけか、神武天皇から円融天皇まで 64 代という、数だけは合っている。


その後、皇帝は再び奝然を呼び寄せて対面した。

以下、皇帝の言葉を現代語訳すると、次のようになる。


   太宗は奝然を招見し、これを安んずること甚だ厚く、紫の袈裟を与えて太平興国寺に住まわせた。

   太宗が聞くところによると、その国の王は一姓を伝え継ぎ、臣下はみな代々同じ官を嗣ぐという。

   それで嘆息して、宰相に言った。

   「この島は野蛮人 (夷) だけなのに、代々の位は遥かに長い。

   その臣下はまた世襲して絶えることがない。

   これはけだし古えの道である。

   中国は唐の末の乱以来、天下は分裂し、粱・周 5 代は歴数を享せること尤もせわしく、
   大臣とその跡はまれに代を継いだ。

   朕の徳はようやく聖人の境地へと向かっているが、
   常に朝早くから夜遅くまで慎み恐れ、国を治める根本を講究して、遊んでいる暇なぞない。

   無窮の業を建て、長く続くように範を垂れ、
   また子孫のことを考え、大臣の後継ぎに禄位を世襲させている。

   これが朕の心である」。

   ( 『宋史』 巻 491、列伝第 250、外国 7、中華書局、1977年)


現在の中国人が、そうなのかどうかはわからないが、
少なくとも 10 世紀のときの中国の皇帝は、
確かにこのように天皇の 「一姓伝継」 をうらやましがったのである。

唐末の安禄山の乱 (756~763 年) 以降、天下は乱れ、
5 代 10 国では短命な王朝が次々と取って代わり、宋になってようやく統一がなされたのもつかの間、
この蕹熙元年の太宗の時代には、すでに北方で異民族の遼が王朝開基して 6 代を数えていた。


真に転変定めなきは中国の王朝の宿命であり、
これに反して一系を連ねる日本の天皇は、後世では日本人の誇りとなり、
中国人を敢えて下に見る言説に根拠を与えてしまった。

すでにそのような意識は、江戸の後期から見られるが、
明治に入ると次のような 「皇国」 に対する優越感へと変貌していくのである。

岡倉天心のものを挙げてみよう。


   万世一系の天皇をいただくという比類なき祝福、征服されたことのない民族の誇らかな自恃、
   膨張発展を犠牲として祖先伝来の観念と本能とを守った島国的孤立などが、
   日本を、アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫たらしめた。

   王朝の覆滅、韃靼騎兵の侵入、激昂した暴民の殺戮蹂躙 ―

   これらすべてのものが何回となく全土を遅い、中国には、その文献と廃墟のほかに、
   唐代帝王たちの栄華や、宋代社会の典雅を偲ぶべき何らかの標識も残されてはいないのである。

   ( 『東洋の思想』 1903年、
    竹内好編 『現代日本思想大系 9 アジア主義』 筑紫書房、1963年初版、1974年 10刷)


「アジアは一つ」 であり、アジアを愛せよと唱えた岡倉天心でさえ、
皇国の優越からはこのように自由ではなかった。

橋川文三が、
岡倉の 「アジアは一つ」 というのも恐ろしいほどの欺瞞だった
という所以 (ゆえん) である。


なぜこのようなことになってしまうのかと言えば、
これまでも繰り返し語ってきたのだが、
日本と東アジア諸国を同じ文明圏だと思い込むからこのような思考になるのである。


中国の皇帝が日本をうらやんでから 2 世紀の後、日本は貴族衰退と武家興隆の時代に入り、
以後関ヶ原の戦いまで 400 年間、本当は日本国内も戦乱だらけだった。

皇室も落魄し、江戸末期に勤皇の志士たちが天皇をお迎えしに京都の御所に走ったとき、
御所の塀は破れ、営繕もままならなかったというではないか。


その皇室が再び 「王」 として見出され、日本近代の国民国家統合の触媒とされたときに、
皇国は、前時代からの中華文明圏を慣性としてそのまま引きずってしまったのであった。

ポスト近代となった現代、もはや国民国家は過去のものとなり、触媒は役割を終えて象徴となった。

そろそろ中華文明圏をわれわれの意識から引き剥がしてもよい頃であろう。

天皇陛下は日本文明圏の象徴であり、中華文明圏とは何の関わりもないのである。


存在すること自体にある美しさ


さて、宮中の晩餐会の続きである。

豊明の間、ふと背後に目をやると、
壁の三方に 40 人ほどの舎人 (とねり) たちが、びっしり魚貫し列していた。


ディナーが始まると、前方右手の厨房への入り口が開き、舎人たちが次々とそこに吸い込まれていく。

その足運びの見事さ、忍びの者もかくあるか、まったく音が無い。


ふと気がつくと、自分の身体の真横に皿を持った手がすぅっと伸びてきて、菜をとるように無言で促す。


隣の貴婦人が、
「先生、初めてでいらっしゃるのね。宅は 4 度目でございますのよ。
これ御料牧場の牛ですの。美味しゅうございましょ」
などとのたまう。

にわかに顔が赤らんで、ふたたび横を見ると、また別の皿がやってきていた。


その菜は、はて面妖な形で、手で取ってよいものか、箸で取るべきなのかわからない。

宮中で手で取って良いものだどないような気もする。

思いあまって、なにを以て取るべきやと、舎人に尋ねると、
小声で 「手っ、手っ・・・」 と、舎人の方がよい家柄らしく、上品に諭されてしまったのであった。


だが、このような雰囲気の中で、筆者はひそかに考えつづけていたのである。

伝統的な皇室の存在とは何なのか、天皇陛下がその位にいらっしゃる意味とは一体何なのであろうか。

ひょっとすると、それは 「存在するということ自体に意義がある」 ということなのではないのか。

そして、その存在とは、日本ではこれ以上の位にあるものはなく、かつ、私欲を滅却する存在でもある。


天皇皇后両陛下を始め皇室の方々は、
公務以外では皇居という空間の外にさえ、私的に出ることがない。

後に茶会で再度参内した折、夜の皇居内を車で通ったのだが、
皇居の中には古い武家屋敷の廃墟がいくつも闇に白く澱んでいた。

その前を過ぎるうちに、
私の中に黒々と蟠 (わだかま) っていた私欲や野望といったものが薄紙を剥ぐように、
剥がれていったのを覚えている。


筆者は 「天皇制」 賛美者では勿論ないが、
日本文明圏にこのように美しいものがよくも残ったものだ、という讃嘆を禁じえないのである。

そして誇りに思うよりも何よりも、率直に感じ入り、自ずと頭が下がった。


参内して初めてわかったのだが、この空間には態 (わざ) とらしいものが露もないのである。

強制されるような雰囲気は全くない。

起立、礼もなければ、合図すらない。


晩餐会の最中、楽士の演奏があり、伝統的な音楽ばかりかと思いきや、
モーツァルトの交響曲、「ふじの山」、「川の流れのように」、雅楽、
おまけに韓国の酒場で聴くような歌謡曲 「カプトリとカプスニ」 など、まるえ雑多で、
楽しめばよいのだという気楽さに溢れていた。

食事の最中でも、言えば外に立てるのであり、
喫煙所はあちこちにあり、菊の御紋章の恩賜の煙草まで置いてある。


品格と安堵の中、皆が食事を終えると、何処からともなく又すっと静まり、
皇室の方々が立ち上がると、われわれも立ち上がり一礼をし、
方々が部屋を去られると、皆も音もなく着席する。

そして、そのようにして、皇居の一夜はまったくの自然体で終わった。




4. 裏切りつづける怨恨共同体
につづく。




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