(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
降央卓玛 (チベット人の女性歌手)
草原恋 (中国四川省~チベットの草原を思う歌)
第7章 和人たちの夏
1. 繰り返される儒教の独自解釈
2.日本的和の世界
3. 嫌われることを恐れる心性
4. 東アジア諸国民に日本の和は通じない
5.中華では存在すると思われる物は実在する
6.和は己を持って貴しとなす
7.最後に別々の残酷さを顧みる
6. 和は己を持って貴しとなす
朱子学は如上のようなシナ精神に則っているが、王陽明はさにあらずという向きがあるかもしれない。
だが、同じである。
朱熹 (しゅき) (晦庵) には、事物に対する侮蔑があり、事物は己に奉仕させるものとしてある。
守仁 (陽明) には事物に対する軽視があり、己が関わらねばそれらはなきものである。
二次元論か一元論かの違いであり、思ったモノが現実のモノに優先するというのは同じだ。
このように解釈した中華文明圏の人々の対他存在も、彼ら自身が思っている自分たちのすがたとは
当然ことなるのだろう。
もちろん麗しく解釈しているのであり、自分たちが礼儀正しく、世界文明の中心の民であり、
ポルノ・ビデオを世界に流している卑賤なアングロ・サクソンなどとは違った、清廉潔白で悪を許さない、
世界に冠たる中華の民だと思っているかもしれない。(←すっごい皮肉www)
しかし、日本人で彼らと同じ見方で自分や他者を見ようとするものがいたとすれば、
それはやはり異常なことである。
われわれは媚びることなく、和の世界で内側をがっしりと固め、
外にそれを理解してもらうことなぞ求めず、
中華文明圏やアングロ・サクソン文明圏の人々を永遠の他者としつつ、
彼らの行動規範、思考様式を一つずつの構造として把握し、
その構造に則って彼らと外交や交流のできる一群の専門家を分業体制として内臓すれば
こと足りることである。
そして現今では、実際、そのようになってきている。
にもかかわらず、
一部マスコミや一部出版者、一部官僚や政治家などでは、相変わらず腰がすわらず、
社会主義が崩壊したあとも、
アンチ・キャピタリズムこそ知識人の使命だと思いこんでいる人々が、
キャピタリズムに対する新しい対抗概念も持てないまま、
東シナ海を呑み込み、
台湾・沖縄を落として太平洋に進出し、
地域覇権国をめざそうとしている危険なコミュニストたちの見方をしたり、
日本植民地という彼らにとっての不名誉な歴史自体を抹殺したいという、
尽きせぬ願望に囚われた者たちに荷担したり、
はては国内の利敵団体と共謀し悪の朝鮮王朝を下支えしようとするのは、
さて、いかがなものだろうか。
一番まずいのは、彼らが昔の先達たちと同じく、
中華文明圏の実態をまったく知らず、知ろうともしないで、
前代からの反日の慣習にしたがい続けていることである。
もちろん、実体を知り、事情が分かっていて彼らの見方をする人々もいる。
そのような人々は、
冷戦期の米ソ二項対立のぬるま湯のなかで、
アメリカに安保条約で武力の面で守られながらもソ連や中国に思想的に同調していた、
かつての進歩的文化人・良心的知識人たちと相携えつつ
反日鬼神の権化と化していった、
某出版社で本を出し、某新聞社に寄稿し、
旧態依然たる冷戦型教養人に己も連なりたいという
密かなる願望を未だ捨てきれないでいるものだろうか。(←そこまで言うw)
世の基準で言えば、筆者は
アンチ・キャピタリズムなどという非現実性を排している点では右翼であるが、
武士道なんかは大嫌いという点では左翼かもしれない。(←私も!!)
26歳でソ連の実態を見たとき以来、前者はずっとそうであり、
後者は
日本の名家に伝えられた変形儒教なぞ元来奉ずるに気にはとてもなれないからそうなのであるが、
この立脚点が揺らいだことは一度もない。
1996年と97年に 「乱蝉亭漫筆」 という題で 2年間、雑誌 『世界』 に連載をしていたときも、
開始早々はっきりと前者のことは書いたし、
2006年からの産経新聞 「正論」 欄の執筆を引き受けた際も、
後者のことはあらかじめ担当者に申し述べてから寄稿した。
その間、左翼の賞や右翼の賞をいくつか頂いた。
引きちぎられるように思考しつつ過ごしてきたが、もはや晩年である。
若い頃の異国での無理が今頃祟(たた)ってきて、
最近では
棺桶に片足をつっこんだまま一人喚いているような姿を自分の背後から見ている気がして、
ときどき哀しくなるのは事実である。
7. 最後に別々の残酷さを顧みる
につづく。
最後の文章は重いですね・・・
レベルのはるかな違いはありますが、古田教授の思考は、私のそれと同じです。
このブログのあちこちに出てきてますが、比較的セレブで、お上品で、平和だとか愛だとかを
静かに語るような人たちにこそ、案外、共産主義者だの左翼主義者だのが多い。
知らないんですね、うわべだけしか。
そして、知ろうともしないし、そもそも、全てが自分中心なのが自然体であって (中華文明観念)、
その My センサーで生きているから、全てが自分の乏しい脳ミソの範囲であり、
従って全てが自分と同じであり、また同じでなければならない (独裁者観念)、
違っているのは My に変えてあげなければならない (中華文明圏観念 & 宗教観念)、
それでも変わらないヤツは切り捨てればいい (日本文明圏以外の文明圏の観念)。
そんな感じ。(爆笑+苦笑)
日本が尖閣諸島を守ろうとしているのを、中国に行って批判して、
「そんなことをするから私の本が中国で売れない」
といった意味のことをホザいている村上春樹の新書が、日本で、異常な売れ行きというのも、
それを見事に物語っています (>_<)
それと、「武士道」。
自慢じゃないけど (笑) 名家ではありませんが、私の先祖は平安時代まで遡れる武士です。
しかしその武士が立派ならば、今の私も武家の娘・・・ババアでいる筈です。
でも武士は、下級武士や浪人や平民に負けました。
我が家の刀も錆びて、父のチャンバラごっこのおもちゃになったそうですw
一体、武士というものがどのくらいの比率だったかというと、江戸時代で 「7%」 です。
100人のうちの 7人です。あとの 93人は武士じゃなかった。
その 93人にまで、たったの 7人が、「オレの真似をしろ!!」 と説くのは、
中華文明圏だの、宗教の勧誘みたいなものです。
あるいは独裁者。それが右翼だなんて、チャンチャラ笑かしてくれるぜ\(^o^)/
そういったこととは次元を別にして、純粋に、はるか悠久の黄河の流れに思いを馳せたり、
京劇を楽しんだりすることは出来ないものだろうか・・・
そんな葛藤でしょうか、古田教授は。
一般人なら韓流を楽しみ、K-POP のスターに王子さまを夢見たりしていられますが、
著名な研究者であり、しかも根っからの気真面目な人柄ゆえの苦悩でしょうね。
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(1776) 第7章(6)和は己を持って貴しとなす
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