(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
WHITE LION
Little Fighter (1989)
先日メタリカの動画がアップされたのですが、「新曲とか新アルバムとかだと思ったのに、Fuck You!」
なんてコメントがいっぱいで 「ピンボール」 の新機種のCMでしたw
日本だとパチンコやスロットの新機種CMですね。過去に QUEEN とか BON JOVI とかありましたけ
れど、デフレになってからは影をひそめ、せいぜい AKB 48 あたりでしたが、「安倍の3つクス」 で景気
が徐々に上がってきてるみたいなので、世界の大物も登場するでしょうかw
とか思いながら右のオススメを見ていたら、懐かしい名前があったので、ホワイト・ライオン♪
第7章 和人たちの夏
1. 繰り返される儒教の独自解釈
2.日本的和の世界
3. 嫌われることを恐れる心性
4. 東アジア諸国民に日本の和は通じない
5.中華では存在すると思われる物は実在する
6.和は己を持って貴しとなす
7.最後に別々の残酷さを顧みる
5. 中華では存在すると思われる物は実在する
かくして誤解の種はつきぬのであるが、ご理解いただけただろうか。
だが誤解もまた構造なのであり、日本人の和の世界も先述の宣教師ヴァリニャーノの言うように、
悪意をもって海外から見られることがあるだろう。
だがそれを恐れることはないのである。
これも前に述べたが、ヨーロッパ大陸の人々がアングロ・サクソンのことを、
全体の利益という仮面の下に自己中心的な国益を隠す技術の達人だと考えているように、
即自存在(私の思う私のすがた) と
対他存在 (人の思う私のすがた) は、
当然のように異なるのであり、
両者を統一することは哲学的な意味はあっても、現実的な意味はほとんどないといってよいだろう。
むしろ各々の局面を担う人々が分業することの方が、国際政治上でははるかに効率的である。
さて、日本文明圏では生々しいものは嫌われるので、中国や韓国の礼の内実を見てうんざりされた
方もおられることだろう。
だが、本場の儒教というものは、やはり生々しいものであるし、
あるいは、第四章の日本文明圏の写実性のところでも若干は述べたのだが、
中国人にとっては目に見える物は言うに及ばず、存在すると思った物は生々しく実在するのである。
朱子学に 「格物致知 (かくぶつちち)」という考え方があり、
広辞苑などには
「物の道理を究め尽して、わが後天的の知を致しきわめること」
などと、わけの分からないことが書いてあるが、
筆者などには、
これは目に見える物に対して、存在すると思っている物を照射することなのだと思われる。
たとえば 『朱子語類』 での話であるが、朱子の弟子の沈僴が先生に問う。
「先生、どうして山の高いところが波打ったようになっているんですか」。
すると先生、豁然貫通して答えた。
「うむ、昔は至る所みな海で、水びたしだったのじゃ。
その柔らかく波打った土が後に硬く固まったのじゃ」。
うーん、格物致知って、結構当たっているではないか。
古田節で訳してしまったので、念のため、原文をあげておく。
「天地始初混沌末分時、想只有水火二者。
水之涬脚便也地。
今登高而望、葦山皆波浪之状、便水泛如此。
只不知因 甚麼時凝了。
初間極軟、後来方凝得硬」
原文を見てもわかるように、ここでは朱子が原初の素材は水と火だと思いこんでいたから、
たまたま当たったのである。
格物致知で大外れのところも勿論あり、むろんそちらの方がずっと多い。
外れる場合は、だいたい現実が重すぎるときである。
たとえば、後漢の一世紀の昔から、賢者の孔子が王者になれなかったのはなぜか
(例として、王充 『論衡』 「問孔第二十八」 「且天不使孔子王者、本意如何」) 、
聖人の堯の息子の丹朱が傲慢で、聖人の舜の息子の商均が残虐だったのはなぜか
(同 「本性第十三」 「二帝之旁、必多賢矣、然而丹朱傲、商均虐」)
というのは、シナ思想上の大問題であった。
なぜならば中国人の頭の中で賢者の有徳や聖人の血統は実在であるから、
王者になれなかった孔子や聖人が不肖の子らを生むことはあるまじきことであった。
朱子の考えでは、万物に天の理が宿っているのだから、当然そうなるはずであって、
有徳や血統の実在論をむしろ補強してしまうことにならざるを得ない。
そこでしょうがないので、堯や舜の気がたまたま濁っていたのだと、弟子の薫銖に応えると、
「先生不詳」とやり返されてしまった (『朱子語類』 性理一篇)。
さらに弟子の輔廣が追いつめると、格物致知して、
「うーむ、堯蠢の子のようなのは不肖なのだ。これまた、常の理 (ことわり) ではない」
(同、中庸第十七章)
と、朱子の完全無欠の理を途中で放棄して、自己破綻してしまうのだった。
格物致知は現実をリアルに分析するわけではないから科学ではないが、
ここに中国人の物の考え方がある意味で凝縮しており、
存在せねばならぬものが現実にある物を乗り越えていくというか、
前者に後者を奉仕させていくのである。
先の例で言えば、
昔は死者はご飯を食べねばならないから羊豚の内臓で供え物をしたのであり、
今は箸の置き方は縦でなくてはならないから置き直すのである。
もちろん、南京事件などは残虐なる夷狄の仕出かした不始末であるから、
当然 「南京大虐殺」 でなければならないと思っているのかもしれない。
(↑) 前に、「~という発想が浮かぶ中国人」というタイトルの記事を書きましたけれど、
やっぱりそうなんですね。
「大虐殺」 なんて事象がない日本では、そんな発想自体が出て来ませんから。
朝日新聞の若宮啓文論説主幹でさえ、
さすがに 「30万人と言われるとちょっと首を傾げたくなる」
(『論座』 編集部編 『「靖国」 と小泉首相
―渡辺恒雄・読売新聞主筆 VS. 若宮啓文・朝日新聞論説主幹』 朝日新聞社、2006年)
とおっしゃっているが、格物致知はこれからも増殖するのかもしれない。
もしそうだとすれば、これを破綻、崩壊させるには、
もっともっと重い現実を突きつけなければならなくなるだろう。
6. 和は己を持って貴しとなす
につづく。