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(1756) 第4章 (4)日本文明の写実性

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METALLICA
My Friend Of Misery (Melbourne March 1, 2013)




(6) 古田博司著 『新しい神の国』

目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )



第4章 日本文明圏の再考

1.中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
2.宗族という異質な社会
3.靖国の誤解をただす
4.日本文明の写実性
5.現実性と写実性の狭間で
6.古代や中世に固着する東アジア



4.日本文明の写実性


以上により、そもそもこちらの民族と、海の向こうのあちらの民族たちは相当に異なった人々なのであり、その醸す文明も昼と夜ほどに違うことがお分かりいただけただろうか。

先に宗族について述べたが、日本文明の方はイエ社会であり、男系の血筋だけで完結しないことは、
婿養子の在り方を見れば歴然である。

そしてその分、社会がフレシキブルになっている。


合議制が大好きで、そのせいで談合も絶えないのだが、よい点を挙げれば独裁者が生まれることが
ない。

合議を無視する独裁者が生まれそうになると、信長の本能寺の変や井伊直弼の桜田門外の変のように民族のシステムが作動し、たちまち取り除かれてしまう。


「万機公論に決すべし」 の裏には冷徹な独裁者除去装置があり、くわえて歴代天皇を戴く君主制は位階授与により、時の権力者の傲慢を巧みに矯めつつ、独裁者の発生を未然に防いできたのである。


またこの文明の大きな特徴は、写実性ということだと思う。

一昔前、韓国がまだ日本に打ち勝てると思っていた時代に、「克日」 (日本に克つ) という運動があり、
その発展過程で、日本人論が一時盛んになったことがあった。


その時、ある韓国人は 「縮み志向の日本人」 論を展開していた。

いわく、日本文明の特徴は、精密機械やトランジスタに象徴されるような小型化であり、あらゆるものを
縮小するところに日本人の力量が発揮されるのであると。


たちまち、別の韓国人が反論した。

それでは、東大寺のような古代の巨大建築物や、近代の巨艦大和はどう説明するのか。

日本文明の特徴は、むしろ 「拡大志向の日本人」 論をもって解明されるべきだ、と。


筆者に言わせれば、これらはみなことの本質を外した傍論であり、日本文明の精髄は、森羅万象のことごとくを細かくかつ生き生きと描写しようとする 「写実性」 である。

源氏物語絵巻・信貴山縁起絵巻・伴大納言絵巻・鳥獣戯画などのあの写実性を思い浮かべよ。

蔀戸 (しとみど) の一枚一枚に引かれた正確無比の真っ直ぐな線、信貴山に向けて飛んでいく幻想の
家屋はあたかも実在するようなリアルな筆致で描かれ、伴大納言絵詞のあの燃えさかる炎には熱さ
すら感じるではないか。


鳥獣戯画の兎や蛙の相撲を取る姿、それらはすべて平安の古代に発し、近世の北斎漫画の相撲風景
までそのまま受け継がれ、今日の世界に冠たる日本のアニメ文化にまで彗星の尾を輝かせている。

イメージの浮かばぬ者は、葛飾北斎のあの潮のリアル、波のしぶき逆巻く怒涛を思いたずねればよい。


このリアルを描くために、日本人の手先は器用になり、表現は精緻になっていったのである。

そしてこの文明の特徴は、古代からずっとそうであった。


紫式部 『源氏物語』 箒木の巻に、和の実写と唐の大仰を語っていわく、

   かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒波のいかれる魚のすがた、唐国のはげしきけものの
   かたち、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたるものは、心にまかせて、ひときは
   目おどろかして、実には似らざらめど、さてありぬべし。
   (中略、これに比して和の方は) なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、(中略) なほ実に
   なむよりける。

と、和の細やかなる写実について述べている。


対する中華文明圏はそうではない。

もちろん宋代の都市を細かに描いた清明上河図のようなものが徒花のようにサッと咲いて散っていった
ことはあるが、彼らの芸術は一貫して頭の中の風景を現実化することに目的があった。


幽玄なる筆致で描かれた峨々たる山、群羊のごとき岩塊、縷々と流れる麗しの滝、中腹には仙人たち
の憩う“あずまや”、麓では農夫が牛を牽いて地を耕す。

残念ながらそのような風景はどこにもありはしない。

それ自体が幻想の風水を現実に求めた虚構である。


文芸も然りである。以下は 『世説新語』 黜免 (ちゅつめん) の条のはなし。


あるとき晋の桓温 (かんおん) は三峡大河に孤舟を浮かべていた。

眼前に迫る岸壁、それをつたい白ザルが舟を追ってくる。

先ほど捕えた小猿の母が子を追い駆けてくるのだ。

はっと思う間もなく母猿は飛翔し、ドッと孤舟に飛び込む。

見るとその腸は子を思う悲しみで千々に裂けていた。


ああ、断腸。などということが、あるわけがない。

かつ誰かが法螺を吹くと詩人がすぐ風景にしてしまう。

李白は秋浦の夜に見えない野猿を見、清渓の流れに断腸の調べを聞いてしまうのであった。

嗚呼ほんとにダンチョネである。(←ふ、ふるたぁああwww)


これらの表現の伝統は、俗に日本では 「白髪三千丈」 と呼ばれ、現代の中国共産党まで脈々と受け
継がれている。

かつて中共党員は南方の瑞金ソビエト政府に蟠踞 (ばんきょ) していたが、やがて国民党軍に追われ、北方の延安へと大移動を開始した。

これを中共では 「長征」 という。


しかし、考えても見よ。

彼らはどこも征服していない。

「長征」 の征という字は、或る地域を軍事的に占領し、そこから租税を取るという字である。

占領もしていないし、ゆえに租税も取れない。

彼らはただ、敵に追われ、北方に 「長遯」 (ちょうとん) しただけであった。


同じ中華文明圏の李朝となると日本の写実はもちろん、中国の虚構にも届かない。

李朝の絵師が虎の絵を描けば、猫があかんべえをしたような顔になった。

19世紀になってようやく写実的な絵が少しは出てくるが、それは女が川辺で胸を出していたり、妓女が
ヤンバンと密会していたり、彼らの大嫌いな 「反儒」 の筆になるものであった。


私は別に己を高め他を卑しめるために驕慢の筆を楽しんでいるわけではない。

さにあらず、彼らの文化の美しさはそのような点にはなく、たとえば百姓家の土間にごろごろと素朴な
白磁の器が転がってあり、痩犬がそこに鼻づらを突っ込んで無造作に水を呑んでいるような意図せぬ
のどかさにあるのだと察知しているのである。


それでも、中華文明より日本文明の方を高く評価する自分がいることは否定できない。

中国の白髪三千丈や韓国の野放図は現実をゆがめるがゆえに、面白いのだが、究極ではどうしても
好きになれない自分がいる。




5.現実性と写実性の狭間で
に続く。





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