GEPE
New Tibetan Song (2012)
これはアルバムの3曲目ですが、タイトルが分かりません。
古田博司著
新しい神の国
2007.10.10発行
あとがき
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
第1章 多神教的世界観の勧め
1.ホッブズ・ワールドのロック・ソサエティー
2.極限の身体
3.無限増殖する偶像なき身体
4.悲しみの島ハワイ
5.偏在する神々の魂
6.日本の神々の二つの系譜
第1章 多神教的世界観の勧め
4.悲しみの島ハワイ
さて、ハワイが湯地場で、ワイキキが温泉だとすると、ひなびた南京町がオアフ島のチャイナタウンで
ある。
そのさびれようと言ったら、明るい日差しの南国の街路に、冬の虚ろな辻風が吹き抜けるような凄絶さがあった。
その、そもそもの衰亡のきっかけは、町の中心にベトナム人が多数集住するようになり、中国人が彼らを避けるようにドーナツ状ににじり去っていったためらしい。
大陸の方の母国でも、ベトナム人と朝鮮人は歴代中国の王朝に呑み込まれなかっただけあって、中国人に嫌われる歴史的個性を過剰に育んできた。
専門上、中国人がどうして朝鮮人をあんなに嫌うのかはよくわかるのだが、残念ながらベトナム人の方はよくわからない。
その寂寞たるチャイナタウンに、乞食・娼婦・陰間(かげま)・強盗などが群がってくる。
人々が去り、廃屋で歯抜けの櫛となった商店街には、真っ昼間から夜をあざむく陰間バー、白人のはげ親爺と陰間シナ青年の接吻が通りすがりに見えたりする。
白人の乞食はゴミ箱に首を突っ込み何やら探索の気配、頭上をお伴の蠅がぐるぐる回っている有り様は
鷹匠ならぬ蠅匠のごとく、めっぽう有り難く神々しい。
黒人や、東洋人や、現地人や南海人やらの甚だ入り混じって何が何やら訳のわからなくなった人種で、蓬髪(ほうはつ)の乞食たちが、町はずれのどぶ川のほとり、屋根付きの休息所に集まり、チェスやシナ将棋をさしている姿は何というのどかさであろうか。
その川向こうに、ハワイ出雲大社がある。
ハワイ移民の心の拠り所として、何回かの移築にも耐え、昨年には開基百年祭を祝った。
その社は、緑青のふいた真っ青な屋根に、天にそびえる千木(ちぎ)たかく、宮ばしらは底つ岩根を打ち敷きて、威風堂々、まことにあおによし、あやにえしの神さびた風情であった。
破れゴム草履を引っかけ、皮膚病(スキンラッシュ)をかかえてよろよろと、弱法師(よろぼし)のごとく
境内を彷徨(さまよ)っていると、何やら深く思いつめた白無垢に紺ばかまの禰宜(ねぎ)さんが忽然と
現れ、こちらを見て手招きをしてらっしゃる。
近寄ると、「神光宿るも、なお白紅、日を貫けり」と、何やら奇矯なことをつぶやく。
「穢(けが)れているので、ちょっと祓ってもらえませんか」と問うと、
「ではこちらへ」
と、いざなわれて拝殿脇の家屋の縁側に腰をおろすや、「まあまあ」と、昼間から大あぐらを引っかいて
茶碗ざけの宴会が始まった。
話しているうちに傑物であることは直ぐ知れたので、日本はこれまでのインテリの常識では駄目になってしまうのではないかと、ふと気づいて以来、次々と憑きものや妖しの巫女など現れて、心身ともに調子が悪く、三日ばかり病の床に臥し、起きあがってふらふらとここに至ったと言うと、
「では、ご自分で祓いなされ」と、おっしゃる。
「いかにして」と返すと、
「もうすぐ正月になると、ハワイ在住の日本人や日系人が一万人ほどこの大社にお詣りにいらっしゃる
から、それを全部あなたが祓いなさい、人のを祓っているうちに自分の穢れも祓えてくる」
そういうと、呵々と笑って、またぐびぐびと酒をのどに流した。
狐につままれたようであったが、言葉どおりに正月に大社に出向くと、もう楽屋裏は檀家の信徒たちで
一杯で、移民の二代目や三代目やらが故郷そのままのお煮染めや雑煮でお祝いをしていた。
後に知ることになるのだが、檀家の人々はもう完全にアメリカ化していて、クリスチャンのように月に一、二度、神道のミサをもっている。
意味のわかる不思議な祝詞(のりと)を読み上げたあとで、禰宜(ねぎ)さんが英語で何やら説教を垂れるのである。
さて、ぞくぞくとお詣りの人々が現れる。
どうするのかと思って見ていると、烏帽子(えぼし)・水干・袴がすでに用意されていて、それを着けて
御幣を持ってやれというのである。
身につけると拝殿でちょっと禰宜さんが祓ってから、「これでだいじょうぶ。あとは幸魂(さきみたま)さきわいたまえ、奇魂(くしみたま)はらいたまえと唱えなさい」といって、すぐに賽銭箱の横に立たされてしま
った。
こういうときには落語の知識がえらく役に立つもので、教わったやつをぶつぶつと唱えながらもこんなのは短くて直ぐに飽きてしまうから、「沖のくらいのに白帆が見える」とか、「家産発財(チャーチャンフォーツアイ)、万事如意(ワンシールーイー)」なぞといろいろ混ぜながら適当にやっていると、禰宜さんがやってきて、言葉をとがめられるのかと思いきやさにあらず、注意は御幣の方で、
「態(わざ)とらしいのは駄目ですよ。大掃除で天井の塵を払うように、ちゃんと頭をこすって祓いなさい」と、おっしゃる。
なるほどそんなものかとやるうちに、今度はうまくやってやろうという思念が雲のように湧き起こってくる。
ところがこれがどうしても邪魔で、そういうのがあると、祓われる相手の方に逆に思いが被さってしまう。
そういうのは直ぐに伝わるから、向こうもこっちも気分が重くなる。
それでは祓いの意味がないのではないかなどと、あれこれ考えているとますます駄目で、もう何十人か払ったあたりで、「ただのお掃除、ただのお掃除」とばかりにサッサッと御幣で頭を掃くようにすると、ちゃんと祓えるようになるから不思議なものである。
こうなってくると向こうも直ぐに察して、お互いに感謝し合い、雰囲気がにわかに神々しくなってくる。
なるほど「祓(はらえ)」とはこのようなものかと悟ると、こちらの方が祓われてきて、やがて心が澄んで
くるのであった。
<5.偏在する神々の魂>に続く
↧
(1742) 第1章 多神教的世界観の勧め (4) 悲しみの島ハワイ
↧