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(1741) 第1章 多神教的世界観の勧め (2) 極限の身体

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GEPE
I Am Coming (2012)





古田博司著
新しい神の国
2007.10.10発行


あとがき
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )

第1章 多神教的世界観の勧め
1.ホッブズ・ワールドのロック・ソサエティー
2.極限の身体
3.無限増殖する偶像なき身体
4.悲しみの島ハワイ
5.偏在する神々の魂
6.日本の神々の二つの系譜


第1章 多神教的世界観の勧め



2.極限の身体



そこで精神衛生上、昼はお目当ての文献調査以外では、家で本居宣長の『古事記伝』を読むか、街を
ただただ彷徨(さまよ)っていたのだが、見れば見るほどハワイにはさまざまな身体がある。

思わずみとれてしまうほど美しい身体があるかと思えば、いろいろな種族の血が下手に混じり合い、ピカソの絵画的状態を呈している顔面や身体もある。



水着で歩ける土地柄であるから、身体がそのまま露わになる。

身体加工も盛んだ。

背中前面に、あのイタリア地図の長靴を背負った人とか、惑星と勘違いしたものか、腕に漢字で「月火水木金土日」と彫り上げた白人がいるのには驚愕した。

刺青屋(しせいや)も大繁盛で、「Queen of pain (痛みの女王)「などという見るからに恐怖の看板が、麗々しく掲げられていたりする。



少し肌寒い、雨の瀟々(しょうしょう)と降る日にワイキキの浜辺に出てみると、信じられないほど美しい
カップルが、秘かに愛をはぐくむ姿に遭遇することがある。

黒檀のような肌の黒人男性と妖精と見紛うばかりの白人女性の、ふだんは人目を憚(はばか)る恋人たちがいる。

人種差別はハワイでも甚だしいものだが、雪のような女が熾火(おきび)のそばで溶けるがごとく、その姿は一途に憐れで美しい。



かと思えば、一年中気候が温暖なため、本土からの湯冶客も多い。

日本の湯冶場のようなもので、ワイキキの海が温泉だと思えば分かりやすいだろう。

怪我人や障害のある人、あるいは肥満で動きづらい人などで街が溢れている。

たいていモーター稼働の車椅子に乗っていて、背もたれに掲げられた星条旗をなびかせ、元気いっぱい突進してくる。



日本では人々が、他者の眼差しを気にして、横並びの相互参照でセーブをするものだから、極限の身体というものには滅多にお目にかからない。

ところが、ハワイでは、歩いたり走ったり泳いだりしている身体は、神さまの目しか気にしていないので、
だいたい極限のイデアの身体である。

美しい体も、醜い身体も到底この世のものとは思われない。



かわりに、法の網の目はワイキキ海岸全体をすっぽりと包みこんでいる。

海岸での飲食や飲酒はけっして許されない。

日本だったら、イカ焼きにトウモロコシ、演歌が流れてしまうことだろう。

警官はたえず浜を見張っており、不審者はあっという間に連行される。

また、危険物を取り除くため、民間業者が金属探知機を使って浜も海もくまなく行き来している。



プロテスタントの国なので、当然ナンパなどという不届きな行為をする者もいない。

神の目は法という形で形而下に行使され、極限の身体が形而上界を彷彿とさせる。

このようなハワイの身体を日々見ていると、一神教の人々の身体観は自ずと、われわれと異なることに
はたと気づくのである。



3.無限増殖する偶像なき身体


※注意: 笑い死なないまでも、
      涙や鼻水が出たり、机をハバンバン叩いたりする恐れあり。



日本の神々の身体は『古事記』による限りでは、自然発生・単性生殖・両性生殖という三つの方法で
無限増殖する。



例えばアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビなどは天空に自然発生した。

イザナギとイザナミは両性生殖である。

そこから
オホコトオジヲ(国生みの大事を讃える大いなる男神)、
次に
イハツチビコ(石と土の御子の神)、
イハズビメ(石と砂の姫神)、
オホトビワケ(大いなる直しの御子の神)、
アメノフキヲ(天の息吹の神)、
オホヤビコ(大いなる禍の神)、
カザゲツワケノオシヲ(風の息吹の御子の大いなる男神)
などが次々と生まれてくる。

善神も悪神もごちゃまぜで、ただただ無限に増えていくのである。



単性生殖はといえば、イザナギが黄泉(よみ)の国から戻って禊(みそ)ぎ払いをしただけで、
投げ捨てた杖からツキタツフナドが、
解いた帯からミチノナガチハが、
ほうった袴からトキオカシが、
うちやった衣からはワヅラヒノウシが、
褌(ふんどし)からはチマタが、
冠からはアキグヒノウシが、
次々と生まれ、きりがない。

そしてこれらの神々には偶像すらないのだ。

第一、どんな神さまなのかさえよく分からない。

つまり、彼らは無限増殖する、偶像なき多神なのである。



インドの象の姿をしたガネーシャ、腰に髑髏(どくろ)を帯びて舞い狂うシヴァ。

武将姿と言えば、ギリシアのアテナ、中国の二郎真君や、朝鮮の崔宝将軍。

猿の姿のタイのハヌマーンや、中国の斉天大聖孫悟空は言うに及ばず、娼家の守り神で豚の姿の
猪八戒(ちょはつかい)まで、多神教の神々には皆然るべき姿がちゃんとある。

しかるにわが国の無限に増える神々には、何一つ卑俗な姿というものがない。



絵画にしてみても、髷(まげ)を結い、左右の結髪(けつぱつ)に勾玉(まがたま)をぶら下げて、だぶだぶの白衣で腕に玉飾りを付け、弓弦を引き絞っていたりするのだが、どの神もみんな同じで、そのような姿くらいしか描けない。

サルタヒコの神は猿の姿で描かれたりするが、本居宣長がこれはシリテルヒコがつまった形で、尻が赤く光る神だと言っている。

その実、何がなんだかこれもよく分からない。



はっきりした姿のある神など、日本には一柱もいないのだ。

そしてどこからでも湧き出てくる。

ある神が右目を洗えば出てくるし、左目を洗っても鼻を洗っても出てくる。

息子の神の首をはねても、その血が岩に吹きかかると、そこから新しい神が出てくる。

下痢をしても、反吐を吐いてもそこから出てくる。

死んでも、その屍体から新しい神が生え出てくる。

これはなかなか尋常な宗教とは思われない。



しかし、そのようなわが国の神々の特徴に、なぜ普段気づくことが希(まれ)なのだろうか。

多すぎて実体が分からないため、神社でも、わかりやすくて偉い神々だけを祭るという傾向がある。



アマテラス(天照)や
スサノヲ(須佐之男)や
ハヤアキヅビメ(速開津比咩)
などはよいけれど、例えば海浜から沖にかけて、どうでもよい神(失礼・・・)がごちゃごちゃいて、
オキザカルの神(沖へ遠離(とおざか)るところの神)、
オキツナギサビコの神(沖から渚へ波の打ち寄せるところの御子の神)。
オキツカヒベの神(沖と渚の間の神)、
ヘザカルの神(海岸から遠離るところの神)、
ヘツナギサビコの神(海岸から渚へ波の打ち寄せるところの神)、
ヘツカイベラの神(海岸と渚の間の神)
などとなったら、聞いている方が混乱していらいらしてくる。


で、こういう神々はみな等閑に付されたのではないか。

かわりに世の神社では、『古事記』に出てこないような民間の苔神や、大岩や狐や猫みたいのまで
括って祭ってしまう。

比較的人格のはっきりしている神と、動物や自然物であとは補うので、「無限増殖する偶像なき多神」という日本の神々の本質が見えなくなるのであろう。



あとはそれから、海外の一神教(キリスト教、イスラム教)や有限の多神たちの宗教(仏教、道教など)が周りから影響を与えるので、そちらの方につい目が行って、自分の足元が見えなくなるということもあるだろうかと思われる。

こういうのを全部取り払って虚心で自己を見つめれば、日本の神々がとてつもない性格をもっていることが初めて分かるというものである。



そんなことをあれこれ、部屋の壁をひやひやと踏まえながら考えていると、南国の一日はあっという間に暮れゆくのであった。




4.悲しみの島ハワイ>に続く




  


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