ベートーヴェン
交響曲第6番『田園』第Ⅲ楽章 ―田舎の人たちの楽しいつどい―
第Ⅳ楽章 ―雷雨、嵐―
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第5章
毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
(1) 紅衛兵とは何だったのか
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-07 )
(2) 南京大虐殺という発想が思い浮かぶ中国
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-09 )
「武闘」による
死者が続出した
紅衛兵による糾弾は、一方的なものでしたが、ときには、攻撃された側が反撃に出ることもありました。
これまで糾弾していたグループに対して、逆に「反革命」や「右派」のレッテルを貼って批判大会を開くこともあったのです。
両派の対立が銃撃戦などの「武闘」に発展することもしばしばで、そのたびに大勢の死者が出ました。
武闘の結果、思わず相手を殺してしまった若者たちの中には、当初、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)する者もいましたが、毛沢東理論の「プロレタリア階級によるブルジョア階級との闘争の一環である」と自分たちに言い聞かせました。
そう言い聞かせると、自分で自分を正当化し、その後の殺人に躊躇しなくなります。
毛沢東は、文化大革命中の大量殺人に対して思想上の合法性を与えたのです。
当時、毛沢東は、こう語っています。
「共産党の政策は人を殴れとは言っていない。
しかし人を殴ることに対しても階級的な分析を行わなければならない。
善人が悪人を殴るのは当たり前のこと」(宋永毅編著 松田洲二訳 『毛沢東の文革大虐殺』)
「階級の敵」に対しては、何をしてもいいということになったのです。
また、毛沢東は、心を許した主治医に、こうももらしたといいます。
「こんど千人の人民が死ぬだろうな」
「何もかも引っくり返りつつある。私は天下の大乱が好きだ」(李志綏著 新庄哲夫訳 『毛沢東の私生活』)と。
北京では、「黒五類」」に分類された住民が次々と地方の農村に追放されました。
その農村部でも、「階級の敵」を殺すことが奨励されました。
当時の香港は、まだ中国に復帰しておらず、イギリスの植民地でしたが、後ろ手に縛られて処刑された死体が多数流れつきました。
大陸で、とてつもない殺し合いが行われているらしいと推測されましたが、中国全体が「竹のカーテン」で覆われ、情報は外部にもれて来ませんでした。
【竹のカーテン】
第二次世界大戦後の東西冷戦が始まると、ソ連と、ソ連の権力圏に入った東欧諸国の、国内の情報は、西欧諸国にほとんど伝わらなくなった。
これをイギリスのチャーチルは、「鉄のカーテン」と呼んだ。
そこから、社会主義中国の国内の情報が外に漏れない状態を、「竹のカーテン」と呼ぶようになったのである。
「魂に触れる革命」と
言われたが
「文化大革命」は当時、「魂に触れる革命」と称されました。
毛沢東の奪権闘争ばかりではない側面もあったのです。
毛沢東は「理想の人間像」を模索し、共産主義の理想を実現しようともしていたからです。
それは、「分業の廃止」、「商品経済の廃止」、「社会的平等の実現」でした。
「文化大革命」の中では、とりわけ近代社会の分業体制が批判されました。
分業体制は、それぞれの人間が片寄った専門家になってしまうので、分業を廃止することで、知識人と労働者・農民の差別・壁を取り除き、全人的な発達をめざすという目標が宣伝されたのです。(←あらまあ・・・)
これは、理想にあこがれる日本の学生にとっても魅力的なものに見えました。(←そぅ~お?!)
日本でも毛沢東思想に傾倒する組織が生まれ(←いたいた!!仙石なにがしなんてのは、その生き残り)、1968年(昭和43年)には、全学ストライキに入っていた東京大学の門に「造反有理」のスローガンが掲げられたほどです。(←これだから頭でっかちの勉強だけヤカラってのは・・・w)
UU
東京大学に掲げられた「造反有理」の文字
マルクスは、資本主義が高度に発達し、高い生産力を誇るようになって、初めて、共産主義が実現すると考えていました。
高度な生産力が、あってこその、分業の廃止だったのですが、毛沢東は、中国には極めて低い生産力しかないことを無視して、共産主義を実現させようとしたため、結果は荒唐無稽なものしかなりませんでした。
さらに、「商品経済の廃止」となりますと、品物に値段をつけて商品として販売すること自体を否定することになります。
これでは、経済は成り立ちません。
「社会的平等の実現」については、社会主義である以上、めざすことは当然といえば当然ですが、「結果としての平等」に陥ってしまいます。
働いても働かなくても待遇は同じということになり、労働者が「しっかり働こう」という意欲を失っていくことになります。
意欲を喪失する恐れに関しては、「文化の革命」によって労働者の意識改革を進めることで食い止めようとしたのですが、画餅に過ぎませんでした。
紅衛兵、
「下放」へ
1968年(昭和43年)12月、毛沢東は、「知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けるのは、大いに必要なこと」(『人民日報』12月22日)と述べました。(←ああ!!これね。ルーピー鳩山が、ドンパチやってる真っ最中のアフガンに、農業支援だの学校設立だのをやると決定して、世界中から呆れられたのは。結局、それは危険すぎるとされて、お金で支援となって、今度は世界のATMだと笑われたっけねぇ。あの4500億円はアフガンの大統領あたりのフトコロに・・・)
ここでいう知識青年とは、要するに紅衛兵のことです。
毛沢東は、自らの奪権闘争である「文化大革命」を成功させるために紅衛兵を動員しましたが、奪権に成功してしまうと、今度は紅衛兵が邪魔になります。
紅衛兵たちが繰り広げる武闘によって、中国は混乱の渦に巻き込まれていました。
こうなると、紅衛兵の役割は終わり、毛沢東は、紅衛兵に対して、「農民に学べ」と呼びかけ、紅衛兵を地方の農村に追放したのです。
これは「下方」(かほう)と呼ばれました。
実に2000万人もの若者たちが、電気もないような辺鄙な農村に追いやられ、重労働に従事させられることになりました。
学生たちが「学ぶ」対象のはずの農民たちは、文字の読み書きもできず、学生たちに「教える」べきものを持っていませんでした。
学生たちを労働力としてしか見なかったのです。
重労働を経験したことのない多くの若者が、過労から病死しました。
下放された女子学生は、農村の若者たちによって、しばしば「性の対象」として扱われました。
農村の若者たちによって暴行を受ける女子学生も多かったのです。
その結果、精神に異常をきたしたり、自殺したりした者たちも多数に上りました。
人民解放軍が
出動した
「文化大革命」が始まると、それまでの共産党の幹部の多くは「資本主義の道を歩む実権派」と批判されたため、共産党の組織がマヒ状態に陥りました。
毛沢東は、共産党組織をマヒさせておいて、政府から末端の人民公社まで、「革命委員会」を設立させました。
この「革命委員会」が共産党組織を乗っ取り、「文化大革命」を推進したのです。
この「革命委員会」は、確固とした組織があったわけではありません。
既存の共産党組織と幹部に反対することだけが唯一の目的のようなものでした。(←なんだか、民主党を彷彿とさせる委員会ですねぇ・・・)
それぞれの楚s気が「毛沢東思想」を主義として掲げましたが、内実はバラバラでした。(←ほらねw)
当然のことながら、同じ「革命委員会」を名乗る同士の対立も発生します。
各地で「革命派」を名乗る組織同士の武闘が発生しました。(←このあたりは、民主党にも残党がいた全学連などなどの動きがソックリです。)
武闘とは、揺するに殺し合いです。
手近な武器を持って乱闘し、リンチも起きることで、多数の犠牲者が出ました。
これが通常の国家ですと、警察が介入して双方を引き離し、方散るにもとづいて処罰するはずなのですが、「革命委員会」を名乗っている組織を取り締まると、警察自身が「反革命」のレッテルを貼られる恐れがあります。
うっかり手が出せなくなり、武闘は収拾がつかなくなるケースが激増しました。
あまりの混乱のひどさに、とうとう毛沢東は事態収拾のため、「人民解放軍」に出動を命じました。
林彪指揮下の「人民解放軍」が各地で主導権を握り、治安の維持に当たることになったのです。
毛沢東を賛美する林彪が率いる「人民解放軍」だけは、「反革命」という批判から免れていたからです。
毛沢東が火をつけた「文化大革命」は、混乱の結果、「人民解放軍主導の文化大革命」となったのです。
その結果、林彪の権力も強固なものになりました。
「四人組」が
支配した
混乱する国家を武力で支配したのが林彪だとすれば、思想で支配したのは、後に「四人組」と呼ばれる四人の人物たちでした。
「四人組」とは、毛沢東の妻だった江青(こうせい)と、江青によって引き立てられて張春橋(ちょう・しゅんきょう)、姚文元(よう・ぶんげん)、王洪文(おう・こうぶん)の計4人を指します。
江青は、1930年代、上海で「藍蘋」(らんびん)という芸名の映画スターでした。
「恋多き女」として知られ、結婚や同棲などでスキャンダルを巻き起こしたことでも有名でした。
1933年(昭和8年。蒋介石の国民党の「中華民国」時代)に共産党に入党しますが、翌年には逮捕され、共産党を批判する文書を発表することで釈放されます。
その後、1937年(昭和12年)に毛沢東のいた延安の革命根拠地に入り、毛沢東と知り合って結婚したのです。
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毛沢東と江青(1940年代、延案) (Wikipedia )
過去に共産党を批判したことがあるにもかかわらず、毛沢東はこれを不問に付しました。
「文化大革命」が始まると、すべての国民の過去が詮索され、「反革命分子」だったことがないか調べられたのですが、江青だけは、自分の過去が暴かれることを恐れ、上海時代の自分を知る人物を迫害することで口封じを図りました。
「文化大革命」が始まった頃、毛沢東には別の愛人ができていて、江青とは別居していたのですが、江青は「毛沢東の妻」という立場を利用して、権力を振います。
いつも毛沢東と一緒にいるかのごとく装い、「毛沢東同士の意向」を振りかざすことで、自身の威信を高めたのです。
その江青に引き立てられた張春橋、姚文元、王洪文の三人は、江青の威信を背景に共産党内で力を持つようになります。
四人の権力の源泉は毛沢東。
自らの力を維持し、出世の道を進むには、毛沢東の覚えがめでたくなくてはなりません。
そこで、「毛沢東の意向」を忖度(そんたく)し、毛沢東が次に何をめざしているかをいち早く察知して行動に移りました。
こうして、「実権派」への迫害をエスカレートさせていったのです。
中国共産党に忠実だった多くの幹部、文化人が迫害を受けました。
共産党に忠誠を誓い、献身的な活動をしてきたからこそ共産党内で高い地位を得た人々が、今度は「高い地位」にいることを理由に「実権派」と指弾されたのです。
多くの優秀な幹部が殺されたり、自殺に追い込まれたりしました。
「文化大革命」発動の最初の標的に選ばれた呉晗は投獄され、自殺。
呉晗の妻は病弱でしたが、反革命家族として「労働改造」の名のもとに強制労働させられ、死亡しました。
長女は自殺し、長男だけが生き残ったのです。
劉少奇や鄧小平も糾弾されました。
毛沢東と共に中国共産党の建設に尽くし、新生中国の発展に努力していた劉少奇は、毛沢東より「上」になったことで、追い落としの対象とされたのです。
劉少奇の下にいて、現実的な判断をしていた鄧小平は、「毛沢東思想」に忠実でないとして地方に追いやられ、工場労働者として働かされました。
劉少奇は1967年(昭和42年)8月には監禁され、体調を崩してもほとんど治療を受けられないまま、1969年(昭和44年)11月に死亡しました。
家族に知らされることなく、孤独な死でした。
劉少奇の死は秘密にされ、家族が知ったのは、死語3年だってからのことでした。
林彪、国家主席を
めざす
毛沢東への「忠誠」を誓う江青と林彪。
双方の利害が一致し、互いに相手を利用しながら、権力の階段を上って行きます。
劉少奇が失脚したことで、林彪は実質的なナンバー2に出世しました。
中国共産党第一副主席になったのです。
毛沢東への個人崇拝を強化することで、自身の地位を上昇させ、遂には「毛沢東の後継者」と指名されるまでになりました。
1969年(昭和44年)4月に開催された中国共産党第9回大会で、共産党の規約が改正され、林彪は「も王主席の親密な占有であり後継者」であると記されたのです。
後継者の名前が規約に書き込まれるという異様な事態でした。
こうして、林彪が中国のトップである国家主席に上りつめるには、後は毛沢東の死を待つばかりになったのですが、病弱だった林彪は、それを待ち切れませんでした。
も王沢東存命中に、中国政府のトップである国家主席に就任しようと考えました。
ところが、ここで誤算が起きます。
1970年(昭和45年)3月、毛沢東は、国家主席の職を廃止するように提案したのです。
毛沢東は、国家主席に就任して自由な行動が束縛されるのを嫌う一方、「主席」と呼ばれる人物は、中国共産党主席である自分だけでよかったからです。
「二人の主席」が再び存在することは許せなかったからです。
しかし、これは林彪にとって不満でした。
国家主席の職が無くなれば、自分はいつまでたってもトップになれません。
そこで林彪は一計を案じました。
毛沢東に再び国家主席に就任するように求めたのです。
林彪は、毛沢東が主席就任を固辞することを見越していました。
毛沢東が固辞すれば、自分が国家主席になれると考えたのです。
毛沢東は、このやり方を見て、林彪が自分に代わって最高権力者になろうとしていることに気づきます。
それまで奪権闘争に利用してきた林彪が、自分の地位を脅かすまでになり、野心を燃やしていることを知った毛沢東は、一転して林彪を警戒し、冷ややかな態度をとるようになります。
林彪を名指しする批判は控えたものの、林彪派の人物に対する批判を始めたのです。
林彪、クーデターを
計画
かくて、文化大革命中の「最大の謎」とされた事件が幕を開けます。
林彪によるクーデターの企てと失敗です。
共産党の規約で「毛主席の親密な戦友で後継者」と指名された人物が、よりによって毛沢東の暗殺を企んだというのですから、あまりに不可思議な事件でした。
林彪と妻の葉群(ようぐん)、息子の林立果(りんりっか)は、毛沢東が林彪に対して不快感を抱いたことに危機感を持ちます。
毛沢東の権威は絶大で、本人の意向次第で、自分たちの運命はどうにでもなることを知っていたからです。
このままではトップの座の禅譲はおろか、自分たちの地位すら危うい。
そう考えた彼らは、毛沢東に対するクーデターを計画しました。
クーデター計画を彼らは暗号で「五七一工程」と呼びました。
「五七一」の中国語の発音が「ウーチーイー」で、武起義(武装蜂起のこと)と発音が同じだったからです。
林立果は、林彪の息子だったことで空軍で異例の出世を果たし、二十代半ばながら、空軍司令部の作戦副部長に就任していました。
林立果は、この地位を利用し、空軍内部に「林彪」グループを使って、クーデターを計画したのです。
1971年(昭和46年)の8月から9月にかけ、毛沢東は武漢など南方方面を回って、林彪批判を口にします。
この情報を得た林彪は、このままでは自分も劉少奇の二の舞になると判断。
クーデターの実行を命じました。
クーデターは失敗した
に続く。
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(1734) 毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った (3) 革命という名の王座争い
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