ベートーヴェン
交響曲第6番『田園』第Ⅴ楽章-牧人の歌 ―嵐のあとの喜びと感謝の気持ち―
コロンビア交響楽団
ブルーノ・ワルター指揮(1958年)
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第5章
毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
(1) 紅衛兵とは何だったのか
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-07 )
(2) 南京大虐殺という発想が思い浮かぶ中国
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-09 )
(3) 革命という名の王座争い
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-16 )
クーデターは
失敗した
毛沢東の暗殺は上海で実行されることになりました。
毛沢東は専用列車で南方を回っていて、上海経由で北京に戻ってくるはずでしt。
そこで、上海駅に停車中に列車を襲うことにしました。
ところが、林立果の所属する空軍には、陸軍と違って地上での戦闘部隊がおらず、使える武器もほとんどないため、具体的な実行計画がなかなかまとまりません。
そうこうしているうちに、毛沢東を乗せた専用列車は、上海を出発してしまうのです。
毛沢東は、林彪一派を批判しながら、林彪グループの行動を監視させていました。
不審な動きを見せ始めたことに気づいた毛沢東は、上海を極秘のうちに出発し、北京に戻ったのです。
焦ったのは林彪とそのグループでした。
毛沢東の動きを見て、暗殺計画が発覚したと早合点した一家は、北京を離れて広州に逃げ、そこで再起を期することにしました。
ところが、計画からはずされていた林彪の長女の林立衡(りんりつこう)が、家族の広州行きを知って不審に思い、これを警備員に知らせたことから、林彪の逃亡計画が発覚しました。
1971年(昭和46年)9月13日午前0時32分。
林彪一家が乗った空軍のジェット機は河北省北戴河(ほくたいが)の空港を離陸。
事態を知った周恩来は陣頭指揮をとり、ジェット機を追跡させますが、ジェット機は南方への飛行を断念して北に向かい、モンゴル領内へと入ったのです。
林彪の国外逃亡でした。
しかし、慌てて飛び立ったため、ジェット機は燃料が不足していました。
モンゴル領内に入ったところで燃料が切れ、深夜に草原に不時着を試みましたが、失敗。
ジェット機は草原に激突して炎上。
乗っていた一家や乗員など9人は全員死亡しました。
「毛主席の親密な戦友で後継者」は、死亡したのです。
中国こぼれ話
クーデター組織は「連合艦隊」だった
林立果が組織した空軍内の秘密組織は「連合艦隊」と自称しました。
日本映画の『連合艦隊司令官山本五十六』と、『あゝ海軍』を見て感激した林立果が、「我々にもこの精神が必要だ」と言い出して、「連合艦隊」と呼ぶようになったのです。
「林彪失脚」を否定した『朝日新聞』
林彪が死亡してまもなく、香港の新聞が「林彪が国外逃亡を図って失敗し、死亡した」という情報を掲載します。
この情報の真偽をめぐって中国国外では大騒ぎとなりますが、当時の『朝日新聞』は、北京支局の記者が、「林彪が失脚したというのは偽情報だ」という記事を書きました。
林彪の著作などが依然と同じく販売されていることなどが根拠でした。
しかし、まもなく『朝日新聞』の記事のほうが間違いであることが判明。
「世紀の誤報」となりました。
と同時に、当時の中国政府に配慮して「文化大革命」を礼賛していたため、林彪が失脚するはずがないという思い込みが取材側にあり、誤報につながったのではないかという批判を受けることになります。
毛沢東の威信が
失墜した
この事態は極秘とされました。
モンゴルも、モンゴルの後見人だった当時のソ連も、中国との関係を考え、発表しませんでした。
しかし、中国の人民には隠していても、この情報は政府や党の幹部には直ちに伝わります。
「毛主席の後継者」の反乱に、多くの人々が衝撃を受けました。
とりわけ毛沢東の受けた打撃は大きなものがありました。
自らがナンバー2に指名した人物に裏切られたのですから。
毛沢東は、すっかり老け込んでしまいました。
毛沢東の主治医は、当時の様子をこう書いています。
「林彪事件以後は肉体的なおとろえが劇的にめだった。
さし迫った危機がさり、一味が逮捕され、わが身の安全をさとるや、毛はふさぎこんでしまった。
ベッドにひきもったまま、ほとんど何も言わず、何もしないで一日じゅう横たわっていた」(『毛沢東の私生活』
1971年(昭和46年)10月、「林彪が国外逃亡を図り墜落死した」ことが発表されました。
直ちに、「批林整風」運動が始まります。
林彪につながる人物が次々に摘発されます。
林彪が一転して敵となったわけですから、中国人民もショックを受けました。
それまでの「文化大革命」の極端な行き過ぎの多くは林彪の責任にされ、総理の周恩来が国家の立て直しに当たることになりました。
周恩来は、「文化大革命」によって迫害を受けて来た穏健実務派の復活に努力します。
1972年(昭和47年)になると、「長期にわたる革命闘争によって鍛えられた古参幹部は党の貴重な財産である」と、評価が逆転しました。
鄧小平も復活を果たし、副総理として周恩来を支えます。
それまで壊滅状態だった工業生産も回復し始めて、休校が続いていた全国の学校も再開されます。
「文化大革命」の競争は、一段落したのです。
今度は周恩来が
標的に
林彪が失脚したことに人々は驚きましたが、穏健派の周恩来が主導権をとり、「文化大革命」の行き過ぎが正されたことには安堵を覚えた人が多かったのです。
社会に明るさが戻りました。
しかし、周恩来が実権を掌握したことに不満を持つ陣営がありました。
「四人組」です。
「四人組」にしてみれば、自分たちが推進してきた「文化大革命」が中途半端な形で終息しそうになる一方、「四人組」には決して与(くみ)しようとしない周恩来や鄧小平が権力を持つことを面白く思わなかったのです。
そこで江青ら「四人組」は、「右からの巻き返し」に反対するという主張を前面に出します。
名指しこそしていないものの、周恩来による、行き過ぎ是正の方針に反旗を翻したのです。
毛沢東も、江青の主張に同調しました。
毛沢東も、周恩来の行き過ぎ是正には頼りつつも、自らが発動した「文化大革命」の終息には不満を持ち、江青の方針を黙認したのです。
「文化大革命」の発動が『海瑞罷官』の批判で始まったように、ここでも真の敵を明らかにしないまま、「あてこすり」の手法が用いられました。
周恩来を直接批判せず、孔子を批判するという手法がとられたのです。
毛沢東や江青には、周恩来の手堅い手腕が、儒教の教えに忠実な儒家のように映りました。
封建社会の教えであった儒教を創始した孔子を批判することで、婉曲に周恩来を批判したのです。
林彪と孔子を批判するという「批林批孔」運動が始まりました。
この運動は次第にエスカレート。
遂には「第二次文化大革命」の様相を呈するようになります。
1972年(昭和47年)5月、周恩来はガンに冒されていることが判明しましたが、江青は周恩来の治療を妨害します。
周恩来は、江青ら「四人組」の攻撃を受けながら執務を続けましたが、やがてガンは悪化。
1976年(昭和51年)1月、周恩来は十分な医療を受けられないまま死去したのです。
周恩来を悼んで
民衆が集まった
それは自然発生的に始まりました。
1976年(昭和51年)3月、北京の中心部にある天安門広場の人民英雄記念碑に、「敬愛する周総理に捧げる」と書かれた花輪や花束が掲げられ始めたのです。
花輪は夜になると公安部門によって持ち去られましたが、翌日になると、再び花輪が捧げられます。
そのうちに、大勢の人々が天安門広場に集まり始め、花輪が持ち去られないように監視を始めます。
花輪も人々の数も増え続けました。
最初は純粋に周恩来を悼んでいたのですが、「四人組」に牛耳られた報道機関が周恩来を悼む報道をしないことに対する批判が出るにつれ、群衆は、反「四人組」集会の様相を呈してきます。
「文化大革命」による混乱に倦(う)み疲れた人々は、周恩来を悼むことで、「文化大革命」に反対の声を上げたのです。
4月に入ると、花輪の数は1000を超え、清明節(二十四節気の一つで、中国では故人をしのぶ日)の4月4日は、日曜日だったこともあり、天安門広場には200万人もの人が集まりました。
そして4月5日。
「四人組」の反撃が始まります。
群衆の数が減った夜9時半、軍と警察の部隊が天安門広場に突入。
棍棒を手にした警察官が群衆を蹴散らし、あるいは殴打し、広場から排除しました。
抵抗した多数の人々が逮捕連行されました。
広場から花輪も撤去されたのです。
これは「天安門事件」と呼ばれました。
その後、再び「天安門事件」が起きることになるため、それと区別する意味で、現在では「第一次天安門事件」と呼ばれます。
「天安門事件」は、周恩来を悼み、「四人組」を憎む人々の自然発生的な行動でしたが、「四人組」はそうは見ませんでした。
自分たちが人民から憎まれているとは思っていない彼らは、鄧小平による策動だと邪推し、鄧小平排除に動きます。
鄧小平は再び失脚したのです。
毛沢東の死去で
文化大革命終わる
周恩来が死去し、鄧小平が追放されたことで、中国国内には再び閉塞感が漂います。
その閉塞感は、「中国の巨星」が墜ちることで終わりを迎えました。
1976年(昭和51年)9月9日午前0時10分、毛沢東は死去しました。
82歳でした。
周恩来の死語、毛沢東は華国鋒(かこくほう)を総理代行に任命していました。
あえて「四人組」の人物は総理代行にせず、毛沢東に忠誠を誓う地味な人物を任命していたのです。
華国鋒は、毛沢東が生前、「あなたがやれば私は安心だ」だという文書を書いていたと発表し、自分が毛沢東の後継者であるとことを宣言しました。
しかし、江青ら「四人組」は、華国鋒がトップに立つことを快く思わず、自分たちが権力を掌握しようと動きます。
これを見た華国鋒は、「四人組」によるクーデターを警戒し、先手を打ちました。
「四人組」逮捕です。
1976年(昭和51年)10月6日、「党政治局常務委員会を開催する」という名目で、張春橋、王洪文、姚文元を呼び出し、逮捕したのです。
同時に、自宅にいた江青も逮捕しました。
「四人組」逮捕は、「四人組」によるクーデターを事前に防ぐものではありましたが、逮捕時点での容疑ははっきりせず、むしろ華国鋒らによる予防クーデターとでも呼ぶべきものだったのです。
ともあれ、「四人組」の逮捕によって、中国全土に吹き荒れた「文化大革命」の嵐は去ったのです。
しかし、その後遺症は深刻なものがありました。
「失われた世代」が
生まれた
全国の学校は機能が停止していました。
この当時の十代の若者たちは、まったく授業を受けることなく、基本的な知識すら獲得することはできませんでした。
読み書きすら不十分だったのです。
この人たちは、現在の中国で五十代から六十代に達しています。
基礎的な教育を受けることなく成人した彼らは、「失われた世代」と呼ばれます。
「文化大革命」では、ごく普通の人々が、まるで熱病にうなされたように、職場や地域の人々を死に追いやりました。
しかし、こうした人々は、自己の行為を黙して語りません。
また、犠牲になって投獄されたり暴力を振るわれたりした人たちも沈黙を守りました。
共産党の方針がいつまた急変するかも知れない以上、沈黙を守ることが、自分を守ることであると判断したためです。
「文化大革命」で、いったいどれだけの犠牲者が出たのでしょうか。
正確な数字はわかりませんが、10年間で300万人が投獄され、50万人が処刑されたというデータがあります。
これ以外にも、武闘によって多くの死者が出たはずなのですが。
当時、紅衛兵に参加した人物は、当時の紅衛兵について、こう振り返っています。
「彼らの多くは、傲慢で、偏狭なところがあり、相手をとことん追い詰める率直さは、ときには子供のようだった。
社会のことはろくに知らずに、現実をあまりに理想化し、朝から晩まで革命の夢に浸っていた。
しかし、革命が何であるかは知らなかった。
そして、真理を追い求める熱狂を持ちながら、実際には無知をあおり立てていた」(陳凱歌著 刈間文俊訳 『私の紅衛兵時代』)
「文化大革命」を経験し、その後、アメリカに亡命した中国の二人の学者は、「文化大革命」を振り返った書物の中で、こう書き記しています。
「文革は、共産主義の世界においてのみ発生が可能だった。
人民が私有財産を持たず、生活物資が完全に共産党と政府に管理されていたために、人民は一切の権利を喪失したのである。
熱狂的な個人崇拝の背後には、人民の絶対的な無権利状態が存在していた。
共産主義革命が20世紀特有の現象であるように、中国の文化雲また共産主義世界特有の現象であった」(『文化大革命十年史』)
七分の功績と
三分の過失
毛沢東が死去し、「四人組」が逮捕された後、鄧小平はまたも不死鳥のごとく復活し、主導権を握ります。
この鄧小平の主導で、1981年(昭和56年)6月、『中国共産党 第十一期中央委員会 第六回総会』が開かれ、「建国以来の共産党の若干の歴史問題に関する決議」が採択されました。
「文化大革命」を、中国共産党として総括したのです。
「文革は指導者が誤って引き起こし、反革命集団に利用されて、共産党と中国国家と各民族人民に大きな厄災をもたらした内乱である」(産経新聞取材班『毛沢東秘録』)と規定して、「文化大革命」を全面的に否定しました。
毛沢東の誤りが初めて共産党の公式文書で認められたのです。
しかし、同時に次のようにも指摘しています。
「毛沢東同志は偉大なマルクス主義者であり、偉大なプロレタリア革命家、戦略家、理想家である。
彼は十年にわたる『文化大革命』で重大な誤りをなしたとはいえ、その全生涯からみると、中国革命に対する功績は誤りをはるかにしのいでいる。
彼にあっては、功績が第一義的で、誤りは第二義的である」(同書)
毛沢東の誤りは認めつつも、それよりも功績のほうが大きかったという総括なのです。
毛沢東には「七分の功績と三分の過失」があったと総括しています。
しかし、「大躍進政策」にしろ、「文化大革命」にしろ、決して「建国以来の共産党の若干の問題」ではありませんでした。
数千万人を死に追いやったことが、果たして「三分の過失」で済むものなのでしょうか。
中国共産党は、いまだに自己の歴史を正しく直視することなく、共産党としての反省もしていないのです。
中国こぼれ話
「四人組」のその後
逮捕された「四人組」は、「反革命罪」で裁判にかけられ、1981年(昭和56年)1月、『最高人民法院特別法廷』は、わずか1カ月の裁判で判決を下しました。
判決は、江青と、張春橋に、死刑、執行2年延期。姚文元に懲役20年。王洪文に無期懲役でした。
死刑判決に執行猶予がつくのは中国独特の法制度で、執行猶予が満期になった段階で減刑される可能性があることを示します。
江青と張春橋は2年後に無期懲役に減刑されましたが、江青は1991年(平成3年)、獄中で自殺しました。
習氏は「毛沢東の息子のようだ」
亡命中の作家・余傑氏
2013.02.16
(http://sankei.jp.msn.com/world/news/130216/chn13021614370003-n1.htm )
米国亡命中の中国の著名人権活動家で、作家の余傑氏(39)は15日までに、訪問先の台北市内で、産経新聞のインタビューに応じた。
昨年11月に中国の最高指導者に就任した習近平・共産党総書記について、余氏は「時代に逆行した民族主義者と国家主義者であり、政治改革は全く期待できない」との厳しい見方を示した。
習氏の強調する理念と政治手法は毛沢東と極めて近いことから「まるで毛沢東の息子のようだ」とも話した。(台北 矢板明夫)
◇
余氏は、習氏が就任以来、演説などで中国建国の父、毛沢東の詩を多く引用し、「中華民族の偉大なる復興」を繰り返して強調したことに注目。
「党内における自身の求心力を高めるために、毛沢東の継承者であることを強調する一方、国民に対しナショナリズムをあおるという大変危険なやり方をとっている」と分析した。
また、沖縄県・尖閣諸島問題や南シナ海の領有権問題をめぐり「周辺国と軍事的な対決姿勢を強めることは、武力衝突の危険が高まるだけではなく、国際社会から中国が孤立してしまう可能性もある」と指摘した。
発足して3カ月の習政権の評価については、
「改革の継続を口で言っているが、実際は何もやっていない。言論、宗教弾圧は前政権と同じやり方だし、国内にいる人権活動家へのすさまじい迫害は続けられており、改善された話は全く聞かない」
と批判した。
習氏が打ち出した反腐敗、反浪費キャンペーンについても、
「中国建国直後に毛沢東がやったことをまねしたにすぎない」
とし、
「政治運動をいくらやっても中国の国内問題を解決できないことは歴史が証明している。習氏は時代と逆行している」
と断じた。
海外の一部民主化活動家の間で、習氏の父親が改革派の習仲勲元副首相であることから、「政治改革」の進展を期待する声もあるが、余氏は、
「習氏はいま、毛沢東が作った一党独裁体制をいかに維持するかを優先している。大きな既得権益のしがらみの中にいる彼を、習仲勲の息子よりも、毛沢東の息子としてみた方がよい」
と語った。
余氏はまた、安倍晋三首相が国会で、服役中の中国の反体制作家、劉暁波氏について「釈放されることが望ましい」と発言したことを高く評価。
「中国の人権問題について日本はもっと影響力を発揮してもらいたい」と語った。
日本は東アジアの一員じゃない
(1) 世界の文明は8つ
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-16-1 )
(2) Y染色体ハプログループD
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-16-2 )
日本の代表的な3つのリズム
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-17 )
「大躍進政策」で国民が餓死した
(1) 毛沢東の誇大妄想を追いかける北朝鮮
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-30 )
(2) ほんの50年前の中国
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-31 )
(3) 裏庭で鉄の塊を生産
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-01 )
(4) 毛沢東の無知のさらけだし科学を輸出\(◎o◎)/!
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-01-1 )
毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
(1) 紅衛兵とは何だったのか
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-07 )
(2) 南京大虐殺という発想が思い浮かぶ中国(日本人には思い浮かびません)
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-09 )
(3) 革命という名の王座争い
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-16 )
(4) 失われた世代の誕生
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-16-1 )
「チベットを侵略した」
(1) 池上 彰著『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25 )
★ テレビに登場しない不思議
★ 秘境チベット
★ 輪廻・転生のチベット仏教徒は
★ ダライ・ラマと、パンチェン・ラマ
★ 中国共産党、「チベット解放」へ
★ 中国軍の圧力下で「十七条協定」が結ばれた
★ ダライ・ラマ、毛沢東と会見
(2) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 )
★ チベットは「独立国」だったが
★ チベットで反中国暴動発生
★ ダライ・ラマ、インドへ亡命
★ 中国、チベットの支配権確立へ
★ 大革新政策の被害はここでも
★ 中国軍、インドを攻撃
★ 文化大革命でも大きな被害
★ 胡耀邦と胡錦濤の時代
(3) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26-1 )
★ パンチェン・ラマが「二人」になった
★ 漢人の大量移住と自然破壊進む
★ ダリ・ラマ、現実路線へ転換
★ 帰国交渉への希望を語る
★ 「慈悲」は通じるのか
(4) 最近のチベット
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26-2 )
それでも地球は回る (1) 旧正月
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-14-1 )
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(1735) 毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った (4) 天安門広場を埋め尽くした花輪
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