姜 育恒
梅花三弄
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第4章
「大躍進政策」で国民が餓死した
「子どもが座れる稲」?
当時(1960年前後)の中国では、「子どもが座ることができるほど豊作の稲」というものが宣伝されました。
そんな写真も公表されました。
毛沢東の指示の成果というわけです。
田に稲を密植、つまりびっしり植えれば、それだけ多数の稲の穂が実り、米が豊作になる。
こう考えた毛沢東の指示により、全国の農村で稲の密植が行われたのです。
「偉大な指導者」の指示に間違いがあるはずはありませんから、現場では、「密植の成果」を出さなければなりません。
毛沢東や共産党幹部の現地視察があるときは、現場の責任者が、伸びた稲を一カ所に集め、「稲がびっしり生え、子供が座ることもできるほど」という姿を見せます。
視察が終われば、稲を元に戻してしまいます。
こうした作為の中には、稲の間にベンチを隠し、その上に子供を座らせて写真を撮っていた例もあったことが、後になってわかります。
こうした成果が大々的に発表されれば、全国の農村では、
「偉大な指導者の指示はやはり正しい。うまくいかないのは自分たちのやり方が悪いからだろう。うまくいかないと報告すると、自分たちの責任が問われる。上には、うまくいっていると報告しておこう」
ということになります。
こうして全国一斉に稲の密植が行われ、米の生産高は急減します。
実際には米の生産が減少しているのに、中央政府には、「米が豊作」という報告が上がるようになりました。
共産主義理論を
「進化論」にあてはめた
当時のソ連や中国、そして北朝鮮などの社会主義国では、「稲を密植すれば大豊作」という荒唐無稽な理論が一世を風靡していたのです。
これはソ連の生物学者ルイセンコの「マルクス主義の生物学への応用」なるものでした。
マルクス主義によれば、資本主義社会では労働者同士が同じ階級として団結・協力し、資本家と戦って革命を起こし、社会主義を実現するのが「歴史の必然」であり、これが「科学」だということになっていました。
この理論を、自然界の植物の世界にも単純にあてはめたのです。
植物は、同じ種が高密度に植えられると、人間社会で労働者が互いに協力し合うように、種同士が助け合って豊作になるという「理論」でした。
「同じ階級」の植物同士は、光や肥料について互いに争ったりはしないだろうと考えられたのです。
動植物は遺伝的な特質を持っているという、現代では当然の理論も否定し、環境が動植物の性質を決定すると主張しました。
環境が変われば人は変わるという共産主義理論を単純に植物にあてはめたものでした。
農村に生まれながら農業のことを知らなかった毛沢東は、ソ連のルイセンコ学説をそのまま中国に導入しました。
毛沢東はすでにこの時点では個人崇拝の対象となっていたので、毛沢東の説に、誰も異論を唱えませんでした。
この密植方式は、中国で惨事を引き起こしますが、北朝鮮でも金日成が農業に導入し、大きな被害をもたらすことになります。
荒唐無稽な農業
改革が実行された
荒唐無稽な農業改革は、密植だけではありませんでした。
「農地深耕」、「農地管理」、「作物保護」、「水利灌漑」も行われました。
農地深耕とは、田や畑を深く耕すことです。
深く耕せば、それだけ農作物が豊かに実るという根拠のない理論が唱えられ、農民たちは土地をひたすら深く掘り下げることが求められました。
地下三メートルも畑を耕す地域もあったのです。
地域差も考慮せず、全国一律に深く耕したため、表土の薄い場所では表土の養分が失われてしまうという事態も発生しました。
農地管理は、輪作のことです。
田畑で同じ作物ばかりを育てると土地がやせてしまうので、定期的に休ませるべきだということです。
これ自体は間違いではありませんが、機械的に一斉に田畑を休耕させたため、耕作する農地が急減しました。
作物保護は有害生物の駆除です。
スズメ、ねずみ、昆虫、ハエが「四悪」とされ、絶滅させるための人海戦術が展開されました。
スズメ退治のためには、農民が総出で太鼓や鍋を叩いてスズメを驚かせる方針がとられました。
驚いたスズメは地上に降りてくることができず、飛び続けているうちに疲れ死ぬだろうというのです。
<注意>
これ、縄文時代とかじゃなくて、わずか50年くらい前の話ですからね。
信じられないようなことが、大真面目で全国一斉に繰り広げられたのです。
スズメ退治によってスズメの姿が消えると、今度は天敵がいなくなった昆虫が大発生し、農作物に被害が出ました。
水利灌漑は、大規模な灌漑工事やダムの建設です。
農民たちが、これも人海戦術で駆り出されました。
高度な技術も機械もなかったため、セメントや鉄鋼を使わず、人力で土砂を積み上げるというレベルの工事でした。
このためすぐに崩壊し、大きな被害を出すことになりました。
農民がこの仕事に駆り出されたため、肝心の農作業ができなくなるという副作用も伴いました。
虚偽の報告が
行われた
こうした農業改革は、共産党公認の「正しい」理論にもとづいて行われている以上、生産が伸びなければ、それは農業に携わっている者が失敗したことになります。
人民公社も要するに国営企業。
保身に走る官僚がいて、いかにうまくいっているかを上に報告することになります。
そのためには、中国に古くから伝わる「白髪二千丈」のような誇大な報告が行われました。
たとえば湖北省では、共産党地方委員会の幹部が、遠方の水田から豊作の稲を抜き取り、鉄道沿線の水田にびっしりと植えました。
毛沢東の専用列車が通過する際、車窓から豊作の様子を見せ、毛沢東に大豊作を印象づけようとしたのです。
毛沢東の政治秘書の田家英は、当時内輪では、次のように慨嘆していたといいます。
「楚王は柳腰の女性(にょしょう)を妃に求めた。
すると後宮はひとり残らず体重をへらすために断食し、餓死した。
主人がおのれの好みをあかるみにだせば、召使いは気に入られようと死に物狂いになってそれを追い求めるものだ」(李志綏著 新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』)
李志綏(りしすい)は、当時毛沢東の主治医でした。
李は、大躍進政策のありさまについて、後にこう分析しています。
「毛沢東は、ごますりと、へつらいに、なれきっていた。
この壮大な計画をなんとかのませようと党や政府の最高首脳をおしまくっていたのだ。
そんな毛に気に入られようとして、また応じなかった場合のわが身の政治的な将来も恐れて、高級幹部は下級幹部に圧力をかけ、下級幹部は下級幹部で農民を無慈悲に働かせたり、上司の聞きたがるような報告をしたりして対応せざるをえなかった。
このようにして考えられぬ途方もない報告書が作成されたのである。
穀物の平均収穫高が一畝につき5トンどころかその2倍増、3倍増にもなったのだ」(同書)
「食糧生産が順調に進んでいる」という報告を受けた毛沢東は、豚の餌にしても食糧が余ってしまうと、幻の剰余食糧の処分に頭を悩ませたといいます。
ここには、すっかり「裸の王様」になってしまった独裁者がいたのです。
★ 農民が鉄鋼の生産も始めた
★ 鉄製品も木材も失われた
★ 働かなくても食べられた
★ そして飢えがはじまった
へと続く。
(1705) 「大躍進政策」で国民が餓死した (1) 毛沢東の誇大妄想を追いかける北朝鮮
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-30 )
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(1706) 「大躍進政策」で国民が餓死した (2) ほんの50年前の中国
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