中華人民共和国では、雪山獅子旗の掲揚は「チベット独立の意思表示」として厳禁されている。
MHINDROL LHAMO
Jikiten Khorwa (2012)
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第6章 チベットを侵略した
(1697) 「チベットを侵略した」 (1) 池上 彰著『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25 )
チベットは「独立国」だったが
では、チベットは、独立国だったのでしょうか。
それとも、「中国の一部」だったのでしょうか。
中国の清朝の時代の1720年、清はチベットに派兵しています。
現代の中国政府は、このことをもって、チベットは中国の一部になったという見解を持っています。
これ以降、清朝は、チベットに定期的に官僚(駐蔵大臣)を送り込むようになりmす。
現代の中国政府にすれば、清朝がチベットを支配していた証拠ということになりますが、チベットに言わせると、清朝は国として認め、大使を派遣していたのだということになります。
1903年、イギリス軍がチベットに侵攻し、チベット軍と戦闘になったことがありますが、このとき、清朝からの駐蔵大臣オタイは、これを傍観しました。
清がチベットの支配者であれば、清としてはチベットを守ろうとしたはずです。
傍観していたということは、駐チベットの清朝大使というのが実態だったということです。
また、チベットが、独自の軍隊を持っていたことも、独立国である証拠になります。
歴代の清の皇帝は、チベット仏教を理解し、支援しましたが、チベットの内政には干渉しませんでした。
一方、チベット人は、長らく「国家」という概念がなかったため、自ら独立を宣言することはなかったのですが、結果として、実質的な独立を保ってきました。
しかし、1907年、チベットがあずかり知らぬところで、イギリスとロシアは、清のチベットへの宗主権を認める「英露協商」を、ロシアのサンクトペテルブルグで結んでいました。
ダライ・ラマ十三世は、清の干渉によって、一時イギリス領インドで亡命生活を送ったこともありましたが、1912年に清朝が崩壊すると、チベットにいた清の兵士は追放され、1913年2月、ダライ・ラマ十三世は、ラサに戻って、チベットの独立宣言を発表しました。
自国を「いかなる支配からも解放された小国」と呼んだのです(ロラン・デエ著 今枝由郎訳 『チベット史』)。
ダライ・ラマ十三世は国民軍を組織し、雪獅子の国旗を制定(現在亡命政府が使用しているものとは異なる)。
初めて独自の通貨も導入しました。
しかし、チベットの独立をモンゴルは承認しましたが、中国やロシア、イギリス、フランスなどの商人は得られませんでした。
いずれも、自国の影響下に置きたかったからです。
またアメリカも、チベットが清の保護下にあることを認めていました。
清の後の中華民国の蒋介石は、チベットを保護下に置こうとし、中華民国の憲法は、チベットをモンゴルと並んで領土の一部としました。
中華民国のスローガンである『五族共和』(清朝末期に生まれ、孫文によって広められた標語。のちに孫文は、五族共和を否定し、中華民族への一元的同化を主張するようになる)の「五つの民族」とは、「漢族」、「蒙族」、「満族」、「蔵族」、「回族」を意味します。
「蔵族」すなわちチベット民族が含まれていたのです。
1914年7月、イギリスが仲介に入り、インドのシムラで、中華民国、チベット、イギリスが交渉し、『シムラ条約』を結びました。
この『条約』で、チベットは内政に関しては主権を確保しましたが、中華民国のチベットに対する宗主権を認めたのです。
ところが、当時の中華民国の袁世凱は、イギリスに騙されて中華民国の領土の多くがチベットに取られたと考え、この『条約』を批准しませんでした。
これに対して、チベット政府は中華民国の宗主権を認めないと宣言しました。
これにより、国際法的には、これ以降、チベットは主権国家ということになります。
しかし、国際社会の承認がなければ、独立国家であるといくら主張しても、現実には幻の存在でしかないのも、また事実なのです。
チベットの旗
(Wikipedia )
1910年代にチベットに滞在していた日本人チベット研究者・青木文教は、自著
『祕密之國 西藏遊記』(内外出版、1920年(大正9年)10月19日發行)
において、チベット軍の司令官と青木が戯れとして、それまでの軍旗でも使われていたチベットの記号(雪山・唐獅子・日・月)と、大日本帝国陸軍が軍旗として考案・使用していた旭日旗に擬似する意匠(旭日)を組み合わせ、新しく図案を作ったものが、たまたま新しい「軍旗」として採用されたと記している。
1947年(昭和22年)、チベット政府は代表派遣団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り、ここで自身を独立国家と表明している。
そのため、インドは1947年(昭和22年)から1954年(昭和29年)にかけてチベットを独立国家と認識していた。
また、この会議にはチベットの旗が持ち込まれたが、これは公的集会におけるチベット旗の最初の出現だった。
掲揚が発覚した場合は、旗を掲揚した罪で即座に当局に逮捕され、禁固刑などの実刑に処される。
日本などではチベット関係のデモ(北京オリンピックの聖火リレー抗議デモなど)や中国へのデモ(2010年尖閣諸島抗議デモなど)で頻繁に使用されている。
世界各地で開かれる「チベット弾圧」の抗議デモ。
チベット国旗やベトナムの黄色旗が多数掲げられている。
チベットで
反中国暴動発生
チベット東部の青海省は、早くから解放軍の支配下に入ったこともあり、「共産主義化」が急激に進められていました。
僧院が所有していた広大な土地が「人民に解放」されました。
要するに“中国人”の所有になったのです。
「反宗教宣伝」が繰り広げられ、僧侶たちは人前で公開自己批判を迫られます。
共産党の手法に怒って反乱を起こす人たちが相次ぎましたが、容赦なく弾圧を受け、処刑されました。
こうした弾圧を逃れるため、多数の難民がラサに到着し、あかには解放軍に対してゲリラ闘争を繰り広げるチベット人たちも出現したのです。
解放軍は、これに弾圧で答えました。
ゲリラの基地になった僧院は爆撃され、ゲリラの家族たちまでが拷問を受け、処刑されました。
処刑の際、「ダライ・ラマ万歳」と叫ぶ人たちが相次いだため、舌を抜いてから処刑するという手口までとられました。
ラサは平穏でしたが、カムやアムドなd、東チベットでは、容赦ない弾圧によって、多数のチベット人が虐殺されたのです。
ダライ・ラマ、
インドへ亡命
平穏だったラサにも、こうした虐殺の報が伝えられたことで、不穏な空気が漂います。
それを決定的にしたのが、1959年のことでした。
この年の3月10日、チベットに駐留する中国軍が、ダライ・ラマを駐屯地の観劇に招いたのです。
それも、チベットの護衛をつけず、単独か少人数で極秘で来るように要求したのです。
中国の軍隊が、ダライ・ラマを拉致しようとしている。
ラサの人々は、こう受け止めました。
ダライ・ラマが滞在していたノルブリンカ離宮の前には、3万人もの群衆が集まり、ダライ・ラマを守ろうとしたのです。
これに中国軍が激怒。
群衆が解散しなければ、ノルブリンカ離宮を砲撃し、民衆を掃討するという最後通告を発しました。
ことここに至って、ダライ・ラマは亡命を決意します。
本人が離宮を離れれば、群衆は解散し、中国軍との衝突が避けられるだろうと判断したのです。
3月17日の午後、まず4人の閣僚が、夕方にはダライ・ラマの母と弟が離宮を離れます。
その夜10時前、ダライ・ラマは少数の警護と共に離宮を出てインドに向かいました。
その後、バラバラに出た人たちが合流。
亡命者100人がインドをめざし、それをチベット軍兵士350人が警護しました。
極寒の峠をいくつも越え、吹雪や土砂降りの雨に悩まされながら、陸路二週間。
中国軍の追っ手に脅えながらの逃避行でした。
ダライ・ラマは途中で高熱を発し、赤痢で動けなくなるという事態にも遭遇しながら、ようやくインドとの国境を越えることができました。
インド政府はダライ・ラマ一行の亡命を受け入れ、最終的にダライ・ラマは、インドの高地ダラムサラに亡命政府を樹立しました。
標高1800メートルの丘陵地には、現在、政府の建物やチベット寺院が建設され、多くの亡命チベット人が暮らしています。
チベット亡命政府は、ダライ・ラマを国家元首とし、行政、立法、司法の三権分立のミニ国家となっています。
チベット亡命政府のある、インドのダラムサラ。(Wikitravel )☚クリック
古くからイギリス人の別荘などがある人口6万人ほどの街で、当時のネール首相が、この静かな地を、ダライ・ラマ十四世のために用意してくれたそうです。
現在はチベット難民も6000人。それぞれが山の斜面に家を建てたりして居住しているそうですが、日に日に、その数を増しているそうです。
ダライ・ラマのチベット帰還を求める運動が盛んになるのと比例して、中国の締め付けが強化され、それに対して焼身自殺で意志表明をする僧侶や民衆が後を絶たない惨状が、この2013年1月25日も続いているのです。
左側の青いピンの場所が、ダラムサラ。
右側の青〇の、チベットの「ラサ」を偲んで「リトル・ラサ」と呼ばれているそうです。
中国、チベットの
支配権確立へ
ダライ・ラマが離宮を離れたことを知った中国は激高。
ノルブリンカ宮殿を砲撃し、群衆に無差別砲撃を浴びせました。
大勢の死者を出したのです。
ノルブリンカ離宮に続いてポタラ宮殿や聖地ジョカン寺院を攻撃。
ここでも数千人死者を出しました。
中国軍は、ダライ・ラマがいなくなるや、チベットに対する「穏健政策」を放棄。
激しい弾圧によって支配権を確立しようとしました。
チベットの政府関係者や僧侶たちを、刑務所や労働改造所に送り込み、急速な社会主義化を進めたのです。
早くから中国軍に占領されていた東チベットでは、1953年からチベット人の武装蜂起が起き、戦闘が繰り広げられていましたが、ダライ・ラマが亡命した1959年以降は、チベット人の抵抗運動がチベット全土に及びました。
これに対して中国軍は、ゲリラの大量処刑、ゲリラの拠点になった僧院の攻撃・破壊、僧侶の処刑をもって臨みました。
チベット亡命政府が入手した人民解放軍の文書によると、1959年3月から、1960年9月にかけての、軍事作戦で、8万7000人のチベット人が殺されたというのです。
大虐殺でした。
それ以来、多数のチベット人が国境を越え、インドやブータンに難民となって流れ込みました。
中国こぼれ話
CIAも介入したが
チベットで中国軍に対する反乱が起きると、アメリカのCIA(中央情報局)は、東西冷戦の中でチベットのゲリラの支援を決定。
ゲリラのメンバーをグアム島のアメリカ軍基地で訓練し、1958年頃からは、武器・弾薬を空中から投下しました。
しかし、アメリカの介入を悟られないように旧式の武器ばかりを投下したため、銭湯にはあまり威力を発揮しなかったといわれています。
1960年になって、中国政府を刺激することを嫌ったアメリカ政府の方針転換によって、チベットのゲリラへの秘密の援助は打ち切られました。
music (2007)
大躍進政策の被害は
ここでも
中国の「社会主義化」といえば、「大躍進政策」がありました。
チベットでも、同じ政策が行われたのです。
中国各地で「大躍進政策」が実施されたのは1958年からでしたが、チベットでは、それより遅くて1965年からでした。
チベットでも「人民公社」が結成されました。
中国各地で“荒唐無稽な”農業改革が行われたようい、チベットでも、自然環境を無視した画一的な「改革」が実行に移されました、
チベットでは寒さに強い「大麦」が主食として栽培されていましたが、中国共産党は、本土と同じ「偉大なる穀物」を栽培しなければならないとして、「小麦」の栽培に切り替えました。
わざわざ寒さに弱い「小麦」を栽培しようとしたのですから、収穫量は激減します。
チベットの大地は肥沃でないため、定期的に休耕地にして土地を休ませなければならないのですが、「収穫量の増大」のために休耕地を廃止しました。
結果は、これも収穫量の低下につながります。
遊牧民は定住を強制され、ヤクが取り上げられました。
また、「小麦」の栽培のためにヤクの放牧が制限され、エサを失った多数のヤクが死亡しました。
人々は、食生活に欠かすことのできない乳製品を失ったのです。
栄養不足が広がります。
ヤクが激減したため、冬場にテントを覆うためのヤクの皮が入手できなくなりました。
寒さのために凍死者が出ました。
中国本土で餓死者が出たのと同じ事態が、チベットでも数年遅れで再現されたのです。
チベット自治区の人口は、公式発表で、1953年には280万人でしたが、1964年には250万人に減少しています。
その間に生まれた人もいる一方で、インドに亡命した人もいるので、差し引きすると、約80万人もの「過剰な死者」が出たことになります(ステファヌ・クルトワほか著 高橋武智訳 『共産主義黒書〈コミンテルン・アジア篇』〉)。
中国軍、
インドを攻撃
チベット人は、中国とインドとの戦争でも被害を受けます。
1959年、ダライ・ラマがインドに亡命し、インド政府がこれを受け入れると、中国とインドの関係は悪化します。
1962年8月、毛沢東の指示を受けた中国軍は、インドに侵攻しました。
1914年の『シムラ条約』で、イギリス領だったインドと中華民国の国境線に関して、イギリスは「マクマホン・ライン」を提案しましたが、中華民国が『シムラ条約』を批准しなkったため、国境線は確定していませんでした。
中国は、「マクマホン・ライン」を認めず、「インドが中国の領土を不法に占拠している」として、インドを攻撃したのです。
インド軍は不意を突かれ、中国軍が圧勝。
中国が「自国の領土」と主張する広大な土地を占領しました。
これは、毛沢東が「大躍進政策」の失敗から国民の目をそらす目的もあったとされています。
この戦争で、チベット人は軍事施設の建設に駆り出され、兵士としても徴用されました。
いまもチベットには、中国軍の大軍が、対インド警戒のために駐留し、インドを標的にした核ミサイルが、チベット高原に多数、配備されています。
チベット高原。
この美しい風景の、あちこちに、インドを標的とした、核ミサイルが・・・
文化大革命でも
大きな被害
チベットは、「文化大革命」でも無傷ではいられませんでした。
内部荒1万人の紅衛兵たちが、チベットに押しかけ、チベット仏教の寺院に乱入。
仏像や教典を破壊したのです。
貴重なチベット文化の遺産が、多数、失われてしまいました。
文化大革命に加わった紅衛兵の中には、チベット人の若者も含まれていました。
紅衛兵たちは、本土と同じく、長老たちを広場に引き出しては、「反動」、「封建主義者」、「帝国主義者」と罵り、公開批判を繰り広げたのです。
1959年以前のチベットには、6000もの寺院や僧院があったのですが、そのほとんどが破壊しつくされました。
現在h宗教行事も認められ、寺院や僧院の復旧も進められていますが、僧院ごとに僧侶の定員が決められました。
僧侶も社会主義思想の教育を受けることが義務づけられているのです。
当然のことながら、ダライ・ラマ十四世の写真を飾ることは禁止されています。
胡耀邦と
胡錦濤の時代
「文化大革命」がおさまり、鄧小平(トウ・ショウヘイ)が政治の実権を握ると、中国共産党は、胡耀邦(コ・ヨウホウ)総書記の時代を迎えます。
胡耀邦は1980年6月にチベットを訪問。
チベットに対して中国政府がどのような仕打ちをしてきたのか、その実情を知ることになります。
衝撃を受けた胡耀邦は、中国政府による過去のチベット政策を厳しく批判しました。
「もっとも愚鈍な植民地主義」だとまで言ったのです。
これ以降、胡耀邦は、チベット人への弾圧ではなく、自由化を進めました。
一部の私有地での農業を認め、漢人ばかりで占められていた地方行政機関への、チベット人の登用、政治犯の釈放を進めたのです。
行政機関でのチベット語の使用が認められ、チベット語による仏教の書物の出版も認められるようになりました。
胡耀邦による改革は、その後、「寛容の数年間」と呼ばれるようになります。
しかし、胡耀邦は、自由化を進める動きに寛容であったことが共産党保守派から批判され、1987年に失脚してしまいます。
この年以降、ラサでは、毎年のように「チベット独立」を求める暴動が起きるようになるのです。
とりわけ1989年1月に、「パンチェン・ラマ十世」が亡くなると、大規模な暴動が発生します。
当時のチベット自治区の共産党書記は、先の中国の国家主席だった胡錦濤(コ・キントウ)。
胡錦濤は、この年の3gつにはチベットに「戒厳令」を敷いて、住民の独立運動を弾圧したのです。
天安門広場での学生に対する弾圧に先立つこと、3カ月前のことでした。
このときの断固たる弾圧ぶりg、中央から評価され、その後、出生街道を進むことになります。
☆ パンチェン・ラマが、「二人」になった
☆ 漢人の大量移住と、自然破壊、進む
☆ ダライ・ラマ、現実路線へ転換
☆ 帰国交渉への希望を語る
☆ 「慈悲」は通じるのか
へと続く。
SCORPIONS
Wind Of Change (1991)
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(1698) 「チベットを侵略した」 (2) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
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