Tibetan Freedom Song part I by nawakyipo (2011)
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第6章 チベットを侵略した
(1697) 「チベットを侵略した」 (1) 池上 彰著『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25 )
(1698) 「チベットを侵略した」 (2) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 )
パンチェン・ラマが
「二人」になった
チベット仏教の最高指導者が「ダライ・ラマ」であれば、ナンバー2は「パンチェン・ラマ」です。
パンチェン・ラマ十世は、ダライ・ラマ十四世がインドに亡命した後もチベットに留まりました。
中国政府への妥協の姿勢をとりました。
その結果、かつてダライ・ラマ十四世に与えられたのと同じく、「全国人民代表大会常務委員会」の副委員長のポストに就きます。
こうした妥協的な態度が、多くのチベット人からは「裏切り者」と見られていました。
しかし、パンチェン・ラマがチベットに留まると、チベット人の独立意識を高めると危惧した中国政府は、パンチェン・ラマの本拠地を「北京」に置かせたのです。
ところが、「文化大革命」の嵐がチベットでも吹き荒れるようになると、パンチェン・ラマは遂に立ち上がります。
1962年、パン・チェン・ラマは、過去の中国支配の被害の実態を告発する報告書を書き上げ、周恩来に提出したのです。
チベット語での文書を中国語に翻訳したところ、漢字で7万字にも及ぶ文書になったことから、この告発の書は、通称『7万字』と呼ばれます。
パンチェン・ラマ24歳の決断でした。
パンチェン・ラマのこの行動は、毛沢東にとっては裏切りでした。
これ以降、パンチェン・ラマは北京で監禁されるのです。
監禁は9年8カ月にも及びました。
「文化大革命」が終息した1978年になって、ようやく人々の前に姿を現したのです。
その後も北京に滞在させられていましたが、1989年1月、「文化大革命」で破壊されたチベットの「タシルンポ僧院」の仏塔が再建されたことから、その落慶法要を営むために、チベットを訪問。
極寒の席で長期間に及ぶ儀式を勤めたせいでしょうか、急逝してしまうのです。
50歳の若さでした。
中国政府は、パンチェン・ラマの遺体をミイラ化して「タシルンポ僧院」に建立した「宝塔」に奉納しました。
中国政府にとってパンチェン・ラマは「愛国人士」とされているのです。
パンチェン・ラマ十世が亡くなると、その転生者を探さなくてはなりません。
しかし、問題はパンチェン・ラマの転生者を、誰が認定するか、ということです。
チベット仏教においては、もちろん、ダライ・ラマが認定することになります。
ダライ・ラマ十四世は、チベットに留まっている信者に指示して転生者を捜索させ、1995年5月、チベットに住む6歳の「ゲンドゥン・チューキ・ニマ」を、パンチェン・ラマの転生者として認定し、公表しました。
すると中国政府は、発表直後に、この子を拉致。
以来、この子は行方不明になってしまったのです。
「史上最年少の政治犯」と呼ばれる所以です。
一方、中国政府は、この年の11月、独自に「ギェンツェン・ノルブ」という子を、パンチェン・ラマ十一世に認定しました。
宗教を認めない共産党が主導して、転生者を認定するという、実に奇妙なことをしたのです。
かくて、「パンチェン・ラマ十一世が、二人、存在するという事態になりました。
「ギェンツェン・ノルブ」の両親は、どちらも中国共産党の党員です。
ギェンツェン・ノルブも、先代と同じく、チベットに住むことは認められず、「北京」に滞在し、中国共産党による教育を受けています。
将来、ダライ・ラマが没したときには、パンチェン・ラマが、ダライ・ラマの転生者を認定する権限を持ちます。
そのときは、中国政府が認定し、言うことを聞く「パンチェン・ラマ」に、「ダライ・ラマ」を認定させることになるでしょう。
それによって、中国政府によるチベット完全支配が、完成するのです。
(左)ダライ・ラマ十四世が認定した「パンチェン・ラマ十一世」
このあと、直ぐに、中国政府によって拉致されてしまいます。
(右)中国政府が認定した「パンチェン・ラマ十一世」
漢人の大量移住と
自然破壊進む
中国政府によるチベット支配の強化は、その後も続いています。
チベットの人口が減少した分、漢人の大量移住が進みました。
漢人がチベットに移住すると、高い給料を受け取れるなどの優遇政策がとられているのです。
「人民解放軍」も大量に駐留しています。
2006年7月に、著者(池上さん)がチベットを訪問した際、要所要所に「解放軍」の基地が存在するのを確認できました。
ラサ空港とラサ市内を結ぶ幹線道路は、「解放軍」の車両が多数往来しています。
チベットでのチベット人の人口は、600万人。
それに対して、漢人の人口はすでに750万人。
チベット人が少数派に転落してしまっているのです。
これでは、仮に「チベットの自治」が認められても、実態は漢人による支配が継続してしまう可能性が高いのです。
自然環境を無視した「大躍進政策」や、その後の急速な経済発展によって、自然破壊も進んでいます。
豊かな森林が乱伐され、森林面積は急減しています。
1950年に、2520万ヘクタールあった森林面積は、1985年には、1357万ヘクタールにまで減少しています。
ヤクの放牧が無秩序に進んだため、草地も減少。
雨を貯める森林や草地が減って、水源が枯渇し始めています。
江沢民政権以降、中国政府は、「西部大開発」を進めています。
経済的に遅れたチベットを開発しようというわけです。
経済が発展すれば、チベット人も豊かになり、中国政府に対する不満が解消されるだとうと計算しているのです。
「西部大開発」のため、中国各地の省は、チベットに財政支援を行っています。
チベットの各地域を、他者が支援するという、「支援の縁組」が行われているのです。
ラサは、北京市と江蘇省が支援し、シガツェは、上海や山東省などが支援するというわけです。
支援する以上は、現地視察。
というわけで、各省の役人たちが、続々と「視察」名目でチベットを訪れています。
私(池上さん)が取材中にも、ラサ市内のチベット料理のレストランでは、山東省から家族同伴で「視察」に来た省の役人たちが、チベット自治区の役人たちから、”盛大な”、「官官接待」を受けていました。
もちろん、チベット政府の役人たちも全員、漢民族です。
これを見つめるチベット人の視線は冷ややかでした。
「西部大開発」によって、チベットが、ここ数年で急激に発展したことは間違いありません。
しかし、それが果たしてチベット人たちにとって、幸せなことなのか。
高地のために酸素が薄く、息切れして、時折り意識が薄れる状態の中で、私(池上さん)は、そんなことを考えていました。
ラサ駅に到着する清蔵鉄道
Tibetan Freedom Song part IV 2011 by nawakyipo (2011)
ダライ・ラマ、
現実路線へ転換
亡命直後は「チベットの独立」を訴えていたダライ・ラマですが、チベットが中国の自治区となり、中国支配が着々と進む中で、「現実路線」に転換。
最近では、中国の中でのチベットの高度な自治を求めるようになりました。
この運動で、ダライ・ラマは常に“非暴力”の方針を貫いてきました。
この活動が評価され、1989年、『ノーベル平和賞』を受賞しました。
最近では欧米にも「チベット仏教」が広がっています。
ダライ・ラマの説話を聞きたいという人が増え、ダライ・ラマは世界各地を回っています。
アメリカの映画俳優リチャード・ギアも、「チベット仏教」の信者。
「チベット亡命政府」支援に私財を投じています。
そのチベットには、2006年7月、「北京」から、中心都市「ラサ」までの直通鉄道「清蔵鉄道」が開通しました。
標高が5000メートルを越えるような山岳地帯を走るという、世界最高所の鉄道です。
これ以来、多数の中国人観光客がチベットを訪れるようになっています。
これを、「中国による文化侵略」、「経済戦略」と見る人も多く、もしチベット人の反乱が起きれば、鉄道を使って大量の軍隊と軍需物資を一気に投入できるようにもなったのです。
ダライ・ラマは、この鉄道をどう受け止めているのか。
私(池上さん)の問いに、笑顔でこう答えました。
「一般論で言えば、鉄道の開通は経済的な繁栄につながり、いいことだと思います。
しかし、鉄道が軍事的な目的に使われるのであれば、危険なことです。
要するに使い方の問題です。
使う人の心によって、鉄道の価値は変わるのです」。
安倍晋三首相とロブサン・センゲ首相
2011年にダライ・ラマ十四世は「完全なる民主主義」への移行として政界を退き、
宗教的活動に専念することを表明しました。
それによって政治は「チベット亡命政府」の権限で行うようになりました。
(http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/110319_message.html )
帰国交渉への
希望を語る
ダライ・ラマが、果たしてチベットに帰還できる日は来るのか。
私(池上さん)の質問に、こう答えました。
「2002年から、中国政府と直接対話を開始しました。
我々、亡命政府の人間5人が、使節団として中国を訪問しました。
一番大切なことは、亡命政府の人間と、中国側が、信頼関係を築くことです。
中国は、最近、少しずつ民主化の動きがあり、変化が起きて「います。
中国人の中にも、チベット仏教やチベット文化に興味を持つ人が増えてきました。
少しずつ、ゆっくりとですが、変化は起きています。
それがいい方向に向かうことを信じています。
いまの中国の憲法では、チベット人は自治ができると書いてあります。
そのとおり、本当に自治ができることが大事だと思います。
完全な自治ができればいいわけで、独立したいと主張しているわけではありません。
中国の中で、もっと人々が仲良くできればいいと考えています」。
ダライ・ラマはこのように語り、中国との話し合いが少しずつ進展していることを示唆しました。
チベットで、中国政府によってチベット人の活動家が弾圧されていることに対して、欧米の政府やメディアは極めて批判的です。
2008年の「北京オリンピック」開催を前に、中国政府がどれだけ人権状況を改善できるのか、注目されて(いました)。
その際、チベット人にどんな態度をとるのか。
ダライ・ラマの帰国を認めるのか。
これが一つの試金石になっていることは確かです。
「慈悲」は
通じるのか
しかし、その一方で、「チベット」から「ダラムサラ」への亡命者は跡を絶ちません。
年間1000人を越える人たちが国境を越えています。
2006年9月30日には、チベットとネパール国境で、亡命を図る人たちに、中国の「国境警備隊」が発砲。
25歳の尼僧と、15歳の少年僧が射殺されました。
この様子は、たまたま近くにいたルーマニアの登山家が撮影し、そのショッキングな映像が世界に流れました。
中国政府が、チベット人に対して強硬な姿勢をとっていることを、世界はあらためて知ったのです。
ダライ・ラマへのインタビューで、私(池上さん)は、平和についての考えも尋ねました。
その答えは、こういうものでした。
「広島を訪問したとき、私は、『火によって火を消すことはできない』というメッセージを書きました。
怒りで火が燃え上がっているとき、その火を消すのは“慈悲”であり、愛情なのです。
平和の根本は慈悲にあります。
政治の上でも、相手を思いやることが大切だという考え方が、いま世界に広がりつつあります。
戦争によらず、対話という非暴力の手段によって問題を解決するという方法が、人々の心に広がっているのです」と。
中国政府によるチベット人への対応は、決して生易しいものではありませんが、それに対してダライ・ラマは、慈悲をもって接するという方法を堅持しています。
その“慈悲”が、中国政府に通じるのか。
ダライ・ラマの、常に笑みを絶やさぬ応対ぶりに、私は慈悲の力を信じたくなりました。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
(http://www.tibethouse.jp/home.html )
GEPE
Bod Gyallo (2012)
習近平中国国家副主席と
(註:国家主席は2003年以来、胡錦濤氏)
公明党代表・山口那津男の
会談
恫喝の下では対話できぬ
2013.01.27
(http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130127/plc13012703080003-n1.htm )
中国共産党の習近平総書記が、訪中した公明党の山口那津男代表との会談で、尖閣諸島をめぐる日中の対立に言及し、「対話と協議による解決が重要だ」などと語った。
山口氏が安倍晋三首相の親書を手渡し、途絶えている「日中首脳会談」を提案すると、習氏は「ハイレベルの対話を真剣に検討したい」と応じた。
関係改善の「意欲の表れ」(山口氏)といえなくはないが、習氏が「歴史の直視」との表現で歴史認識への「慎重な対応」を安倍政権に求め、首脳会談の実現に「環境整備が重要だ」と条件をつけたことは順序が違う。
習政権が真摯(しんし)な対話と首脳会談を望んでいるなら、尖閣を海と空から威嚇する恫喝(どうかつ)をただちにやめるべきだろう。
そうでなければ、「日中間に領土問題は存在しない」とする安倍政権は一方的に譲歩を迫られ、国益を失うことになりかねない。
今回、習氏が強硬路線の転換をにじませたのは、クリントン米国務長官が「日本の施政権を害そうとする、いかなる一方的行為にも反対する」と警告したことが影響している。
それは日米同盟を強化することが、日本にとって最優先課題であることを意味している。
公明党はかつて日中国交正常化に向けた環境整備に尽力するなど、中国共産党とのパイプ役を務めてきた。
その実績をテコに、山口氏は政権与党の党首として日中関係の改善で成果を挙げたかったのだろう。
しかし、訪中前に尖閣問題で中国側が唱える「棚上げ論」に同調する発言をした山口氏は、習氏との会談前日、王家瑞中央対外連絡部長からも、「棚上げ論」を持ち出された。
宣伝戦に利用された印象がぬぐえない。
中国側は今月末、村山富市元首相らを招き、要人との会談を予定している。
親中派とされる政治家と接触することによって日本の国内世論の懐柔を狙い、安倍政権を揺さぶる構えだろう。
山口氏の訪中の間も、中国公船は尖閣周辺の接続水域への出入りを続けた。
領海侵犯さえ常態化している。
領空侵犯も起き、中国機に対する航空自衛隊の緊急発進は昨年4~12月で160回と過去最多となっている。
話し合いの環境整備をすべきは、第一に中国側である。
胡錦濤・中国国家主席
(1698) 「チベットを侵略した」 (2) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 )
(抜粋)
この年(1987年)以降、ラサでは、毎年のように「チベット独立」を求める暴動が起きるようになるのです。
とりわけ1989年1月に、「パンチェン・ラマ十世」が亡くなると、大規模な暴動が発生します。
当時のチベット自治区の共産党書記は、中国の国家主席、胡錦濤(コ・キントウ)。
胡錦濤は、この年の3月にはチベットに「戒厳令」を敷いて、住民の独立運動を弾圧したのです。
天安門広場での学生に対する弾圧に先立つこと、3カ月前のことでした。
このときの断固たる弾圧ぶりが、中央から評価され、その後、出世街道を進むことになります。
習近平・中国国家副主席
(Wikipedia )
2009年ウイグル騒乱
(Wikipedia )
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(1700) 「チベットを侵略した」 (3) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
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