① TENZIN PESANG
Beautiful (2013)
② TIBET NEED YOU NOW SONG 2012
③ TENZIN KUNSE
My People, My Homeland (2012)
池上 彰 著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第6章 チベットを侵略した
ダライ・ラマ14世と池上彰氏
テレビに登場しない不思議
チベット仏教の最高指導者にして、1989年のノーベル平和賞受賞者ダライ・ラマ14世。
2006年11月に日本を訪れた際、東京都内でインタビューすることができました。
フジテレビの番組での取材でした。
ダライ・ラマは広島で開かれた国際平和会議出席のために訪日。
12日間日本に滞在し、東京で大規模な講演会も開いたのですが、多くの日本人が、この事実を知らないままでした。
テレビで報道されることがほとんどなく、新聞報道も極めてわずかだったからです。
まして、テレビの長時間インタビューは、最近では、今回のものしかありません。
どうしてなのでしょうか。
それは、日本の報道各社が、北京支局を“人質”にとられているからなのです。
ダライ・ラマは、中国がチベットを支配するようになった後、インドに亡命し、亡命政権を樹立しています。
これが現在の中国政府にとっては「分裂主義者」ということになります。
その人物を日本のメディアが大きく取り上げることは、中国政府にとって不快なこと。
そういう行動をとった日本のメディアが北京に支局を置いていたら、厳重な抗議をしたり、北京支局の取材活動を制限したりする、というのが従来の中国政府のやり方でした。
中国での取材活動に不利益になることを考えると、日本のメディアは、なかなかインタビューしにくいというが本音なのです。
中国政府が、そこまで神経を尖らせるダライ・ラマ。
その理由は、中国共産党率いる人民解放軍によるチベット侵略の歴史があるからなのです。
その歴史を振り返ってみましょう。
チベット自治区と青蔵鉄道の路線
秘境 チベット
チベットの空は青い。
これこそが本当の青空なのだ、と思い知らされるのです。
天に近い国。
これがチベットです。
2006年7月、私がチベット訪ねたときの第一印象でした。
人びとが暮らす地域は、3000メートルから5000メートルの高地で、平均標高は4000メートル。
まさに天に近いのです。
チベットは、天然の要塞に守られ、どの方面からも、陸路で近づくのは困難を極めます。
南にはヒマラヤ山脈、西にはパミール高原、北には大崑崙山脈とタクラマカン砂漠、そして東はアムネマチン山脈。
これを越えてチベットに入ることは、過去も現在も容易なことではありません。
インドのインダス川、ガンジス川、中国の長江、黄河などアジアの大河は、いずれもチベット高原を源とします。
チベットが「世界の屋根」と呼ばれる所以です。
自然環境が厳しいため、生きていくのは大変です。
農作業としては大麦が主食として栽培されています。
家畜としてヤクや羊が飼育され、ヤクの乳からはバターも作られます。
ヤクの糞は炊事用の燃料にも使われ、エネルギーの自給に役立ってきました。
中国はチベットを「西蔵」と呼んで憧れてきました。
「西の宝蔵」という「わけです。
チベットは過去に巨大な版図を確立したこともあります。
八世紀には「トルキスタン」や「ネパール」を支配下に置き、「唐」の王朝の首都・長安を占領したことすらあったのです。
しかし、インドから仏教が伝わり、『チベット仏教』が確立すると、周辺を侵略することのない、平和な国家となりました。
私たちが通常「チベット」と呼ぶのは、中国の「チベット(西蔵)自治区」のことですが、これは、もともとのチベットより面積がずっと小さいのです。
本来のチベットは、中国全体の4分の1の面積を占め、日本の約10倍です。
1965年、現在の中国が、中央チベットと、西チベットの地域に、「チベット自治区」を創設し、チベットを分割しました。
現在は中国の「青海省」になっている地域も、もとはチベットの一部でしたが、「清」の時代にチベットから引き離されました。
また、「四川省」や「雲南省」、「甘粛省」にも、チベット人居住地域が存在しています。ここも、本来はチベットなのです。
チベットの象徴といえば、「ラサ」にある『ポタラ宮殿』でしょう。
『ポタラ宮殿』は、17世紀に「ダライ・ラマ五世」が建てました。
「ポタラ」とは、「観音の聖地」という意味です。
この宮殿が、歴代のダライ・ラマ法王の執政府になってきました。
ラサのポタラ宮殿
輪廻・転生のチベット仏教とは
ここで、チベット社会を理解するために、『チベット仏教』について簡単にまとめておきましょう。
仏教は紀元前四世紀にチベットに入ってきました。
チベット土着の宗教である『ポン教』と混交して、独自の『チベット仏教』が形成されました。
仏教では、人間の人生は輪廻の中にあり、死んでも再びこの世に誕生します。
ただし、生前の行いによって、次にどんな生を受けるかが決まることになっています。
行いが悪ければ、人間ではなく畜生(動物)に生まれ変わるかも知れないのです。
仏教では、この世の人生には苦しみが満ちあふれていると考えます。
人生を終えても、また再生するので、苦しみから逃れることができないのです。
これが「輪廻」です。
しかし、仏教徒が悟りを開けば、解脱を達成することができます。
「解脱」とは、「輪廻の輪」から脱出すること。
もはや誕生・苦しみ・死・再生という輪から逃れ、誕生も死も関係なくなると考えられています。
しかし、『チベット仏教』によれば、悟りを開いて輪廻から解脱された人物であっても、すべての人々が悟りを開けるように働きかけるため、繰り返しこの世に戻ってくることがあると考えられています。
この“人物”を、チベットでは「化身」(トゥルク)と呼びます。
「菩薩」のことです。
「活生」(生き仏)という呼び方もありますが、これは中国式。
ダライ・ラマ本人は、そういう呼び方は間違いだと言っています。
そもそも仏は輪廻から解脱しているので、この世に形を持って現れることはないはずだからです。
あえて解脱しないで、人びとを助けるために人間として転生を繰り返すのが「菩薩」です。
「菩薩」は、次の転生で仏になれるのに、それをしないで人間の形で再びこの世に生まれてくると信じられているのです。
「ダライ・ラマ」は、「観音菩薩」の生まれ変わり(化身)であるとされています。
現在のダライ・ラマは十四代目。
「ダライ・ラマ」とは、「知恵の大海のごとき上人」という意味です。
チベットには「ダライ・ラマ」以外にも、転生(てんしょう)を繰り返す「化身」がいるとされています。
もし「ダライ・ラマ」が亡くなると、どこかに転生し、あらためてこの世に生まれてくると考えられていますから、転生者を探し出すことが大事な作業になります。
ダライ・ラマと
パンチェン・ラマ
チベット仏教には主に四つの「派」があります。
宗教と政治の両面でのチベットの最高指導者ダライ・ラマは「ゲルク(徳行)派」です。
同じ「ゲルク派」で、ダライ・ラマに次ぐ高位は「パンチェン・ラマ」で、「阿弥陀仏」の化身とされています。
「パンチェン・ラマ」とは、『偉大なる学者」という意味です。
どちらかが亡くなると、もう一方が、相手の転生者を探す責務を負います。
転生者はまだ幼児なので、将来のダライ・ラマやパンチェン・ラマになるように教育する責任も負っているのです。
チベット政府のトップは「ダライ・ラマ」で、現在は世俗の大臣三人と、僧侶の大臣一人により、内閣が構成されています。
ダライ・ラマが転生してまだ幼いときは、摂政がつきます。
中国の侵略を受ける前のチベットは、成人男性の四人に一人が僧という宗教国家でした。
何千人もの僧侶を擁する僧院がいくつもあり、僧院が所有する荘園からの上納金によって僧院が運営されていました。
中国こぼれ話
ダライ・ラマ十四世の発見
1933年、先代のダライ・ラマ十三世が死去すると、転生者探しが始まりました。
ダライ・ラマの遺体はラサにある「夏の離宮ノルブリンカ」の王座に安置され、顔が南に向いていたのですが、数日後に、顔が東を向いているのが見つかりました。
そこで、「転生者はラサの東の方向にいる」ということになりました。
転生者を探す場合、チベットの聖なる湖ラモイラッツォの水面の変化で兆候を探る習わしになっています。
ダライ・ラマの摂政が、湖畔に滞在中、湖面にチベット文字の「A」「K」「M」という三文字の幻影を見ます。
さらに緑色と金色の屋根のある寺と、青緑色の瓦葺の家の風景が湖面に現れたというのです。
1936年、転生者の捜索隊は、「A」が「アムド地方」であり、「K」が「クムブム寺院」であると考え、この寺院を訪問します。
そこで、この寺院が緑色と金色の屋根を持つことを確認します。
さらに近くを捜索した結果、青緑色の屋根瓦のある民家に、二歳になる男児を発見したのです。
この子は、ダライ・ラマ十三世の持ち物と、それにそっくりの偽物の双方を示して、どちらを手に取るかのテストを受け、合格しました。
ダライ・ラマの持ち物を選んだのです。
この子が、いまのダライ・ラマ十四世です。
その後、「K」と「M」は、村の山の上にある「カルマ・ロルパイ・ドルジェ寺院」を指していたという結論になりました。
チベットのヤク
(ポタラ宮 )
中国共産党
「チベット解放」へ
1945年、チベットから遠く離れた北京で、毛沢東が『中華人民共和国』の成立を宣言しました。
国内ではまだ、(中華民国の)「国民党軍」との内戦が続く中での「建国宣言」でした。
毛沢東は、「国民党軍」との戦闘を継続しながらも、「中国全土」の「解放」をめざします。
この「中国全土」の中に、「チベット」も含まれていました。
多くの寺院があり、僧侶が政治をするチベットは、「中国共産党」にすれば「遅れた封建社会」そのものであり、「人民は抑圧に苦しんでいる」ということになります。
毛沢東の「新生中国」は1950年1月1日、「人民解放軍はチベットを解放する」と宣言したのです。
これを知ったチベット政府は、なんとか独立を維持しようと考え、各国に対してチベットを独立国として認定するように働きかけましたが、他国は、これを受け入れませんでした。
「新生中国」がチベットへの主権を持っているという態度をとったのです。
チベットは国際的に孤立しました。
1950年10月、「人民解放軍」の4万人の部隊が、長江を渡り、チベットの東部に進撃します。
この年の6月、朝鮮半島では「朝鮮戦争」が始まり、10月には、「人民解放軍」が「義勇軍」という名の下に北朝鮮軍の支援にも向かっていたのですから、「中国軍」は東と西で、同時期に二正面作戦をとっていたことになります。
驚くべき軍事力です。
当初チベットは抵抗しますが、武器も貧弱な舞台は、「解放軍」の大勢力になすすべなく、三週間後に降伏。
この戦闘で8000人のチベット兵が死亡したといわれています。
しかも、チベットは一枚岩ではありませんでした。
当時、パンチェン・ラマ十世はまだ13歳。
青海省に滞在していました。
パンチェン・ラマの側近たちは、「ラサのチベット政府」と対立していたことから、「中国共産党」の側につきます。
毛沢東に対して「チベット解放」を要請したのです。
「中国共産党」にとっては、絶好の“誘い水”になりました。
チベットのナンバー2からの要請は、「チベット解放」の大義名分になったからです。
「ラサのチベット政府」は、このパンチェン・ラマの行動に驚きます。
「チベット政府」は11月、『国連』に対して「中国の侵略」を訴えましたが、この年の6月に「朝鮮戦争」が始まっていたことから、世界の関心はそちらに集まり、「チベット問題」は『国連』で取り上げられませんでした。
「チベットは中国の国内問題」として扱われたのです。
当時のダライ・ラマは、まだ15歳。
15歳の若者が、中国の大軍と対峙することになったのです。
中国軍の圧力下で
「十七条協定」が結ばれた
「人民解放軍」は、『三大規律八項注意』を守り、チベット人の感情を害することがないように厳重な命令を受けていました。
実際に「人民解放軍」を目の当たりにした人たちは、規律が乱れていた「国民党軍」に比べて好印象を持ちます。
一部では、「人民解放軍」を歓迎する空気もありました。
「人民解放軍」の圧倒的な勢力の前に、「ダライ・ラマの政府」は妥協を余儀なくされます。
「政府」の特使を北京に派遣して交渉に臨んだのです。
この席には、パンチェン・ラマも出席していました。
しかし、交渉にはなりませんでした。
「中国共産党」は、あらかじめ『チベット平和解放に関する協定』(十七条協定)を用意していて、代表団に署名を強要したのです。
1951年5月、この『協定』が結ばれました。
この『協定』で、チベットを中国に併合するが、チベット人の望まない改革は行わないことなどが約束され、「チベット政府」は、「チベット地方政府」として存続が認められたのです。
10月、「人民解放軍」の2万人の兵士が「ラサ」に入りました。
国営の新華社通信は、「チベット人民は帝国主義の攻撃から解放され、祖国である中華人民共和国に戻った」と報じました。
チベットのどこにも「帝国主義勢力」などはいなかったのですが。
2万人の兵士は、当時の「ラサ」の人口の、半数に匹敵する大軍でした。
毛沢東と会見するダライ・ラマ14世 (1954年)
ダライ・ラマ、
毛沢東と会見
中国の「人民解放軍」がチベット各地に駐屯すると、「共産党」は、チベットの周辺部から「共産主義化」を始めます。
僧院から権力を奪い、「共産党」が政治の主導権を握り、「封建主義者」たちを糾弾し、「自己批判」を迫るのです。
「自己批判」を迫られて罪を認めると、「労働改造所」に送り込まれました。
「ダライ・ラマ」のお膝もとの「ラサ」では、礼儀正しく振る舞いながらも、周辺部では確実に権力を掌握していったのです。
また、「ラサ」に「解放軍」が入って人口が急増したことから食糧不足が発生し、物価が高騰。
チベットで初めてインフレが発生しました。
チベットの人々の「解放軍」に対する反感が募るようになります。
1953年7月に「朝鮮戦争」が休戦となり、「義勇軍」という名の「人民解放軍」が中国に引き上げると、毛沢東は、チベットの「共産主義化」を一層推し進めます。
1954年、「ダライ・ラマ十四世」と、「パンチェン・ラマ十世」は、北京に招待され、毛沢東と会見しました。
毛沢東の第一印象について、「ダライ・ラマ」は、こう書いています。
「握手をした瞬間、強烈な吸引力を感じた。形式ばった場であったにもかかわらず、彼はとても友好的で、自然な印象を与え、わたしの抱いていた懸念など、どこかに消えてしまいそうだった」(十四世ダライ・ラマ著 山際素男訳 『ダライ・ラマ自伝』)
当初、ダライ・ラマは毛沢東の魅力にひかれるのです。
ダライ・ラマは、「中華人民共和国」との提携の可能性を本気で考え始めたと述懐しています(同書)。
マルキシズム(マルクス主義)が気に入り、共産党員になりたいという気持ちさえ抱いたというのです。
北京滞在中、「共産党大会」が開かれ、ダライ・ラマは「全国人民代表大会」の「常務委員会副委員長」に選出されています。
名前だけの存在であることを、ダライ・ラマは認識していましたが。
北京に一年近く滞在している間に、ダライ・ラマは、すっかり毛沢東の虜になったのですが、1955年、チベットに帰る前日、毛沢東に突然呼び出されます。
その席で、毛沢東は、こう言ったというのです。
「あなたの態度はとてもいい。だが、宗教は毒だ。第一に、人口を減少させる。なぜなら僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ」(同書)
これを聞いたダライ・ラマは、こう書いています。
「私は激しい嵐のような感情が顔に出るのを感じ、突然非常なおそれを抱いた」(同書)と。
毛沢東と「中国共産党」が、決して「チベット仏教」を認めないことを、これで悟るのです。
さらにダライ・ラマは、北京からラサに帰る途中、チベット各地に立ち寄りました。
そこで、「共産党支配下」に入ったチベットの現状を知ることになります・
「人びとに生活状態を尋ねると、こう答えた。『毛主席と、共産主義、中華人民共和国のおかげでわたしたちはとても幸せです』と。しかしその人びとの目は涙でいっぱいだった!」(同書)
ダライ・ラマは、こうして中国に対する警戒感を抱くようになるのです。
☆ チベットは「独立国」だったが
☆ チベットで反中国暴動発生
☆ ダライ・ラマ、インドへ亡命
☆ 中国、チベットの支配権確立へ
☆ 大躍進政策の被害はここでも
☆ 中国軍、インドを攻撃
☆ 文化大革命でも大きな被害
☆ 胡耀邦と胡錦濤の時代
へと続く。
GEPE
Tsewei Yonmchen (2012)
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(1697) 「チベットを侵略した」 (1) 池上 彰著『そうだったのか!中国』より
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