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(855) 中世日本では男色も普通だった\(^o^)/

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ELTON JOHN
  Daniel (1973)












菅原正子著
『日本人の生活文化』
2008年2月20日発行



第一部 日本人の生活 -西洋と比較して-
第二章 男女関係と夫婦関係



5 普通だった男色






日本に来たイエズス会士たちがもっとも非難した日本の風習は、男色であった。


フランシスコ・ザビエルは書簡のなかで、男色について次のように書いている(1552年1月29日付、コーチン発、ヨーロッパのイエズス会員宛)





   彼等が語る時には私は真実を見出せませんし、
   彼等はあからさまに姦淫を行なって少しも恥と思わず、
   すべての坊主が過ちになるような少年を抱えています。


   そして彼等はそのことを認めたうえで、それは罪ではない、と言っています。


   人びとは、坊主達に見ならって、
   彼らが行なっているのだから世俗の人間である自分達もそうするのだ、と言っています。





日本では男色が公然と行なわれていたことは、ヴァリニャーノの「日本諸事要録」第二章にも書かれている。





   最悪の罪悪は、この色欲の中でもttも堕落したものであって、これを口にするに堪えない。


   彼等はそれを重大なこととは考えていないから、
   若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。


   それは、仏僧が説く教義はこれを罪悪としないばかりでなく、
   きわめて自然で有徳の行為として、僧侶自らがこの風習を有するからである。





日本では男色は、悪い風習どころか誇りにさえ思われていたという。





僧侶が男色の対象としたのは、寺院にいた少年たち=稚児であった。


日本の中世の文学では、稚児物語という僧と稚児の恋愛物語のジャンルさえあり、室町時代の御伽草子には『秋夜長(あきのよなが)物語』『あしびき』『花光草子』などの稚児物語がある。





『秋夜長物語』は、室町中期頃の絵巻物三巻(個人所蔵)や多くの写本が残され、室町時代にかなり流布した物語であった。


物語のあらすじは、比叡山延暦寺の僧桂海が、三井寺の稚児梅若(花園左大臣の子)と相思相愛になるが、山門(比叡山)と寺門(三井寺)の合戦に発展し、梅若は瀬田川に入水して自殺する。


桂海は比叡山を出て修行し、東山の瞻西(せんさい)上人として尊崇されたという。まるで『ロミオとジュリエット』の稚児物語版のようなストーリーで、僧侶と稚児の恋愛が男女の恋愛と同じように描かれているが、梅若が石山の如意輪観音の化身であったというところには仏教色が表れている。





男色が、僧侶だけでなく、武士の間でも行なわれていたことは、次の武田信玄(晴信)の古文書からもわかる。


信玄には春日源助という近習(きんじゅう)がいた(のちの高坂昌信)。


その源助に浮気はしていないと誓った誓詞が次の文書である(東京大学史料編纂所所蔵)。





   誓詞之意趣者、


   一、弥七郎ニ頻ニ度々申候ヘ共、虫気之由申候間、無了簡候、全我偽ニなく候事、


   一、弥七郎ときニねさせ申候事無之候、此前ニも無其儀候、
      況昼夜共弥七郎と彼義なく候、就中今夜不存候之事、


   一、別而ちいん申度まま色々走廻候へハ、還而御うたかい、迷惑ニ候、


   此条々いつわり候者、当国一二三大明神、富士、白山、殊ハ八幡大菩薩、
   諏方上下大明神可罰者也、仍如件、


   〔宝〕
   内々法印ニ而可申候ヘ共、
   申待人多候間、
   白紙ニ而、明日重而
   なり共可申候


   (天文15年)七月五日   (武田)晴信(花押)


   春日源助との





信玄は、弥七郎と共に寝たことはない、昼も夜もない、特に今夜は思いも寄らぬことである、と色々な神に誓って弁明している。源助から弥七郎との浮気を疑われた信玄は、一生懸命弁解して源助をなだめているのである。





男色の相手の若者をからかう言葉もあった。


天正一三年(1585年)、北条氏直の近習で12歳になる田村千代丸が、ほかの若侍に「すばりかわき」と言われて恥に思い、小刀で腹を切って自害した。


からかった若侍も「冗談で言ったのに」と悲しんで腹を切り、一緒にいた二人の若侍も生き残っては申し訳ないと腹を切り、結局四人の若衆が死んでしまったという(『北条五代記』「童男の作法昔に替事」)。





戦国時代の日本では、少年たちも男性の恋愛の対象とされ、男色が罪の意識もなく社会一般で普通に行われていたのであった。


なお男色は、江戸時代前期まで盛んであったが、18世紀に衰退していった。












前の章の、離婚の証明に 〔箕(み)〕 を渡したというもかなり笑えましたけど、この章も大爆笑しながら書き写しました。武田信玄が富士山から白山から ∩(´∀`●)∩アハハハ♪(●´∀`)つ彡☆バンバン



この本を書かれた菅原正子博士は、日本の生活文化史についてまとめられた授業のテキストとなるよい本が見つからなかったので、ご自分で作ることを思い立ったのが執筆の動機だそうです。



私も常々、歴史というものは時の権力者が書き遺したもの、あるいは造ったものから推考されたものが99%くらいであって、では、普通一般の庶民はどうだったのだろうか、というのが疑問だったのですけれど、この本は、それを実に解決して下さったように思います。



なお男色は、江戸時代前期まで盛んであったが、18世紀に衰退していった。



この一文が全てを物語るといっても過言ではないほど、ヨーロッパがルネッサンス期に発明された羅針盤などによって大航海時代を迎え、自国を豊かにするために世界中に進出していった、その時まで、日本は実は世界で最も現代思想に近い、あるいはその先を行った思想文化を持っていたようです。



【はじめに】から抜粋させていただきます。



     ◆



ところで、日常生活について、私たちはあまりに当然すぎて記録に書き留めることをしないのが普通である。


しかし、外国人の目から見ればそれは異文化であり、めずらしい風習として記録される。


戦国時代末期に西欧から日本に来たキリスト教カトリックのイエズス会士たちは、西洋文化とはまったく異質の日本の文化・風習について記録・書簡などに書き残した


そこには、日本側の史料にはほとんど書かれていない日本人の性格・行動や日常生活について記されている。





これらイエズス会士たちの史料は、これまで史料として充分には活用されていなかったと思われる。


内容的に、にわかには信じ難い記述があるのもその一因であろう。


例えば、ルイス・フロイス著の『日欧文化比較』(岩波文庫では『ヨーロッパ文化と日本文化』)の第二章には、「ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫にしらせず、好きな所に行く自由を持っている」とある。


日本の女性に控えめで大人しいイメージを持っている人々の多くは、この文章を読んで、ヨーロッパの女性より日本の女性の方が自由に行動していたということに驚き、本当であろうかという疑問を抱くであろう。


このような内容がこの著にはこのほかにも散見する。


(中略)


イエズス会士たちの描いた中世末期の日本人像は、驚くほど現代の日本人と共通する点が多い。


また、当時の慣習については、西洋よりもむしろ日本の方が現代社会に近いのではないかと思われるような記述もみられる。


例えば、西洋のキリスト教社会では容易に離婚を認めていなかったが、日本では離婚が頻繁に行われていたために、イエズス会士たちは離婚を禁止するキリスト教カトリックの布教に苦心した。


これなどは日本の方が西洋よりも現代社会を先取りした形である。


(中略)


多くの人は、近代の明治民法などで定めた不平等な男女や夫婦のあり方が、それ以前から継続してきた日本の伝統的な風習を思っているかもしれない。


しかし、明治時代の日本の法はフランス法やドイツ法など大陸法を継受して作られており、これらヨーロッパの法の影響が大きい。


特にフランスのナポレオン法典は明らかに男女不平等の法典であった。


日本の中世の法を丹念に読むと、むしろ男女平等観がかいま見えることがある。



(中略)


本書では、近代以前のくらし・生活文化・慣習について中世を中心に明らかにし、現代の日本の文化・慣習と共通する点、相違する点などを考え、西洋の影響を受ける以前の日本の生活文化とは何か、日本固有の文化とは何かをさぐりたいと思う。



     ◆



これらのことは、日本では江戸時代にあたる頃に書かれた西洋文学の中にも垣間見ることが出来ます。『嵐が丘』や『ジェーン・エア』はイギリスの姉妹の作品ですが、随所に男尊女卑の生活が見られます。



それらは、日本の片田舎で普通の農家の暮らしを見て育った私には奇異に思われ、日本はもっと自由で、男女も平等ではなかったのかと思うことが度々でした。



そう考えると、日本には当てはまらない気がする近年の様々な運動、男女平等、女性の解放、女性の社会進出、格差を無くせ、同性婚を認めよなどといった事柄は、二千年近くに及ぶキリスト教の教義(聖書)によって雁字搦めに縛られ続けてきた西洋の人たちが、やっと、その教義からの解放に目覚めたものでしかないように、私には思えるのです。



日本は太陽から産まれた国であるというのが基本です。『日の丸』がその象徴です。宇宙にあっては全てが元素の組み合わせの違いだけであり、何がどのように融合していたとしても、同じ元素によって生まれているに過ぎないのですから、全てが等しいのです。



キリスト教の『聖書』にあるような、女は男の一部などではなく、女は〔XX〕であり、その〔X〕の1つが変化して〔Y〕になって、男=〔XY〕になったといった宇宙の過程が、日本の文化にはごく自然に現われているような気がします。



昨日、日本には産業革命がなかったとマイミクさんから教えて貰って、そういえばそうだなあと、今さらながら驚きました。ヨーロッパのルネッサンスに汚染されていないのです。だからこそ、資本主義の道には進まず、のんびりと鎖国なんてしていたのですが、そのために工業機械的には大きく遅れをとりました。



みなさんのお好きらしい維新の人たち(笑)のお陰で、日本もそのヨーロッパ資本主義の道を歩むことになった時、ヨーロッパの工業機械だけでなく、文化までも遅れていると思ってしまった維新の人たちの所為で、日本はえらい時代遅れの生活文化を取り入れてしまったのですね。



それが150年くらい経った、今、世界はやっと、日本の400年くらい前の庶民の生活感覚に近づいてきたといったところでしょうか。














(847)  中世日本の男と女とジェンダー


(848)  中世日本の夫婦のあり方(1)夫と妻と妾


(851)  中世日本の夫婦のあり方(2)夫婦別財


(852)  中世日本は離婚が多い国だった


(855)  中世日本では男色も普通だった\(^o^)/


(856)  中世日本の毎日の食事


(858)  中世日本ではすでに普及していた教育


(860)  中世日本の節分












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