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(1379) Billboard 200 は脇に置いといて「青年団の父・田澤義鋪」

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(前記事の一部を重複します)



明治維新により、近代国家の建設と共に、自給自足的な村落が解体する中で、伝統的な若者制度も消えていったが、自由民権運動の影響を受ける世の中で、山本滝之助広島青年会を起こす等、全国的に青年組織の結成が広まっていった。



それらの組織は、大正時代には〔青年団〕および〔処女会(女子青年団)〕と称されるようになった。



1912
(明治45年)に明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として明治天皇を祭神とした明治神宮の建立が計画された。



山本滝之助影響を受けて、青年講習運動を実践していた内務省
明治神宮造営局総務課長田澤義鋪は、神宮造営奉仕作業を全国の青年団呼びかけ、日本中より、280団、1万5千人の青年団員が動員された。



これを契機に、全国の青年団を一つに結びつける組織、大日本連合青年団結成された。



明治神宮外苑内に現在もある
日本青年館(旧館)は、東京市助役となった田澤義鋪主唱の下、全国青年団員一円拠金活動により、1925(大正14年)に建てられたものである。












山本滝之助(やまもと・たきのすけ)
1873年(明治6年) - 1931年(昭和6年)
Wikipedia



広島県沼隈郡千年村(現・福山市)に農家の長男として生まれる。



小学校卒業後、尋常小学校雇となり、
以後22年にわたり小学校
教師、1905年(32歳)校長に就任。



教師生活のかたわら、
居村を中心に地域の若連中の改善に取り組み、
1890
年(17歳)
「好友会」という青年会を結成して
青年団運動を始める。



また多くの青年団体機関誌を発行。



特に1896
、24歳のとき自費出版した代表的著作『田舎青年』は、
方にも近代社会に目覚めた青年がいることを主張して注目された。



当時青年と言えば立身出世を目指す都会青年のみを意味し、
実際人数の多い田舎青年は
自己の希望を満たされず、世間から忘れられた存在であった。



山本はこの著作の中で、
都会青年も田舎青年も平等であると主張。
「田舎に住める、学校の肩書なき、
卒業証書なき青年」に目を向けるよう呼びかけ、
田舎青年の教育の重要性指摘した。



また「青年会を設くべし」と全国を巡講して実際を指導、
各地の青年団の結成及び全国的な組織化に尽力。



これらの活動は
『日本青年館』の建設、
『大日本連合青年団』結成
を促した。



山本の長年の功労に報いるため、
死後まもなく
財団法人『日本青年館』に設けられた『顕頌会』によって
『山本滝之助全集』が刊行されている。













田澤 義鋪(たざわ・よしはる)
1885
明治18年) - 1944年昭和19年)
Wikipedia



大正期及び昭和初期の社会教育家、政治家思想家

佐賀県鹿島市
出身。

青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。

とりわけ
青年団
運動及び青年教育に尽力した活動が知られており、
青年団の父」と称されている。




経歴



佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)に生まれる。



4歳で鹿島小学校に入学。



幼少時は、旧
鹿島藩鍋島直彬
の薫陶を受ける。



1909年(明治42年)東京帝国大学
法科大学政治学科を卒業。
高等文官試験(高文試験)に合格、内務省
に入省する。



1910
(明治43年)、25歳の若さで静岡県安倍郡
へ出向し郡長に任命される。



郡長となった当時
日本は
日露戦争
疲弊しており、
地方農村の経済的並びに人的基盤における建て直し急務であった。



このため田澤は、
学校教育とは無縁の勤労青年に、
教育自己修練場を与える活動を展開し、
彼らと寝食を共にしながら指導にあたった。



田澤の「青年団運動」挺身のきっかけの一つは、
広島県の小学校教師山本滝之助
の情熱であった。



山本滝之助は、広島で青年教育を指揮し、
全国に青年指導の重要性を訴え、
地方の青年組織支援を内務省へ働きかけていた。



1915年
大正4年)、
明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮』
創建が決まると、
 田澤 義鋪は、内務省明治神宮造営局総務課長に、異動。



全国から青年団員を集め、
彼らの勤労奉仕『明治神宮』を造営することを提案し、
実行に移した。



現在の『明治神宮』外苑
木々(いわゆる「神宮の杜」)は、
造営時
全国の青年団員が持ち寄ったものであり、
これは田澤のアイデアによるものである




全国から集った青年団のこの活動は、
田澤の主唱の下、
1925
(大正14年)の
大日本連合青年団』
結成
および
日本青年館』
建設
へとつながっていく。



(略)



1929年
(昭和4年)には、
青年団活動を経験した壮年者による
〔地域の魂・社会の良心〕をモットーとした協同組織『壮年団』結成の
運動を全国へ広げることを目指し、『壮年団期生同盟会』を創立。



1931年
(昭和6年)、
『日本青年館』の別館『浴恩館』に、
『青年団指導者養成所』(のちに『青年団講習所』と改名)を開設。



自ら指導にあたり、
1933
(昭和8年)には、
同郷同窓の後輩でもあり親友でもあった
下村湖人所長として迎えた。





20050807_1[1].jpg
小金井市文化財センター(旧浴恩館)
http://mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Koganeishi/Yokuonkan/Yokuonkan.htm





(略)



1936年(昭和11年)、
二・二六事件後の広田弘毅
内閣組閣の際、
内務大臣として入閣を求められたが、
政治信念とは相容れぬ内閣のために固辞した。



1944年
(昭和19年)、
四国
善通寺
での講演の際、
日本軍の勝利を信じる聴衆を前に、
「敗戦はもはや絶対に避けがたい」
「この苦難を通らなければ平和は来ない」
と言い残し、
壇上で突如意識不明となり倒れる。



そのまま同地で療養するも、8カ月後に59年の生涯を閉じた。



(略)



教育論



田澤は青年団を
「自然に発生した創立者なき団体」
「郷土を同じくする青年の友愛の情を基盤とする共同生活の集団」
と定義づけていた。



また、
青年教育について
「画一主義注入主義払拭し、
自由創造の精神をもって
青年には
自ら考えさせ、
自ら修養させ
向上させるべき」
という持論があり、
自己を磨き自己を成長させるのは、
結局は自身による修養しかない
という事を愛情を持って気づかせることが
教育者の使命である
とした




戦前、
ことに進学率の低かった
明治期の青年団に対しては、
学校教育
の補助教育機関
という位置づけのもと、
文部省
主導で、
講習会、
映画(当時は
活動写真
)会、
通俗図書の閲覧
などによる教育が実施されていた




田澤の考え方は、
これらと一線を画すものであり、
これは現在における青年団の意義、
さらには生涯学習
の考え方にも
通ずるところがある




1914年
(大正3年)、
田澤は安倍郡千代田村(現
静岡市
沓谷)の蓮永寺において、
18歳から26歳の青年団員を対象とした講習会を実施する。



この講習会の最大の特徴は、
参加者と講師におよそ一週間の共同生活を課した点であった。



その意図は、
寝食をともにする事によって相互友愛の精神が芽生え
相手を尊重しあい、個人の意見を集約集団の意見を作り上げる



そして
集団に寄与し貢献することによって、
自己の存在の意義を実感し、
義務感責任感培うところにあった。



このような宿泊型研修の考え方は、
戦後の青年団の事業にも受け継がれており
現在
この理念に則った青年リーダー養成事業が、
『日本青年館』と、
『日本青年団協議会』の、
共催事業として行われている。



日本青年団協議会』については、
田澤の理想から大幅に逸脱し、
「政治団体化」している点に関して小さくない非難の声がある。



全一論



田澤青年教育論の根底にあったのは
全一論(思想)」と呼ばれる
人生観
であった



すなわち、
人の人生は一個の人生ではなく、
祖先より子孫に伝承される「縦の永遠の命」であり、
また
家族・職場・地域ひいては国や民族といった「横の繋がり」の中で、
相互に影響しあい、ともに営んでいく人生である、
という思想である。



そして、個々の存在が充分に個性を発揮しつつ、その存在を立派に認められながら、渾然たる全体の調和の中に立つとし、
個性の充実こそが全体の充実に繋がり、ともに成長発展していくと考えていた。



関連施設・団体



田澤の残した業績と思想を伝える事を目的に、財団法人『田澤義鋪記念会』が1952
(昭和27年)設立された。



主な活動としては、優れた活動を行った地域青年団を『田澤義鋪賞』として顕彰している。



佐賀県鹿島市の生家跡地には、『田澤義鋪記念館』が1984
(昭和59年)に開館し、地域の教育環境づくりと田澤精神の発揚を目的に活動を行っている。



関連



下村湖人著 『この人を見よ』 -田澤義鋪の生涯-






〔リーダー〕というものは養成して出来あがるものではなく、
自然と備わった求心力や牽引力のある人が
自然と選ばれるものだと、私は思います。


それを人工的に作り上げたリーダーなんてロクじゃない!!www


養成所とは、文字通り、どーしよーもないような人たちこそを集めて
自己の発見や、自己啓発の開眼に寄与すべきですw


それと、やはり田澤さんは、
歌を歌ったり映画を観賞したり、運動会をやったりなんだりかんだり、
そんなジジババでも出来るようなことを
“青年団”に求めてはいなかったことが分かって
嬉しかったです (^^♪



さらに、つづく。






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