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(1380) Billboard 200 を横目で見ながら、「葉隠」&「煙仲間」





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http://okusa.saloon.jp/asahi/hagakure/top.html





山本常朝と田代陣基の出合い



宝永七年(1710年)の三月初旬、佐賀城の北12キロ、金立山(約 500メートル)の麓の草庵(現在、黒土原と呼び、『葉隠記念碑』が建てられている)で、『葉隠(はがくれ)』誕生の契機となった一つの出合いがあった。



穏棲し、亡き、佐賀藩第二代藩主、鍋島光茂の菩提を弔う日々を送っている山本常朝(つねとも・52歳)の草庵を訪れたのが、藩士・田代陣基(つらもと・32歳)である。藩主の祐筆役(文書役)を辞めたのち、求道の心に燃えて常朝を慕ってきたのであった。



浮世から何里あろうか山櫻 古丸(常朝)

しら雲や只今花に尋ね合い 期酔(陣基)



初会の日に詠んだ二人の俳句だが、相知った喜びがにじんでいる。






ということで、私は忍者の術かと思った、『葉隠』(^^;)。いわゆる武士道というよりは、処世術ですかね、現代のサラリーマンなんかにも通用する内容だという、佐賀・鍋島藩の武士たちが回し読みしたという書物が誕生することになる、ひとつの出会い。


三月といっても“山桜”とありますから旧暦ですね。ちょうど今頃からの晴れやかな季節のもとです。





葉隠の成立ち



田代陣基は「宝永七年三月五日」初めて参会し、草庵の近くに住み、「享保元年九月十日」までの六年半にわたり、常朝から教訓や古人の遺訓のほか、歴史伝説、実話物語、人物評などを聞き、自分で調べた記録などを加え、巻別に整理し、全十一冊にまとめあげた。



これが『葉隠聞書(はがくれ・ききがき)』である。



成立ちの特徴として、葉隠は藩主の命令や世に出す目的で書かれたものではなく、常朝、陣基、二人の合意だけでできたものである。



「この始終十一巻、追って火中すべし。
世の批判、藩士の邪正、推量、風説等に遺恨悪事にもなるべく …」
「消却せよ」
との注意書が秘本扱いであることを示している。




『葉隠』は心ある武士によって秘かに写され、廻し読みなどされてきたものである。





葉隠の名のいわれ



三百年程前に筆録された『葉隠聞書』の「葉隠」の名のいわれは諸説が多い。



① 西行法師の「山家集」にある、
  「はがくれに散りどまれる花のみそ偲びし人に会うここちする」
  からとったとする説。



② 人里遠く離れた大変淋しい所、
  周辺に木立が多く、木の葉に隠れる草庵での語り合いという、
  周囲の環境から思いついたものとする説。



③ 歴史学者、久米邦武博士の「草葉の陰から」
  「鍋島侍は覚悟の根本は死で、草葉の陰から鍋島藩を背負う精神である」
  から、この集まりを葉隠と言う。



④ 葉隠巻二に
  「人の為になることは我が仕事と知られざる様に、
  主君には陰の奉公が眞なり。
  仇を恩で報じ、陰徳を心がけ…」
  とあることから、
  常朝が「陰の奉公」を重んじ、売名的行為を戒めた心境を汲んで名付けたとする説。



⑤ 殿様である五代藩主、鍋島宗茂が、
  金立権現原の田代陣基の家に立ち寄って、葉隠と言った
  という説。



などがある。つまり、「葉隠」の名は内に秘めた情熱を重んじる思想に加え、草深い樹陰での聞書ということから名付けられたものと見られる。





葉隠の時代背景



葉隠は今から約280年ほど前の元禄時代に書かれた、鍋島武士の日頃の心掛けを書いた本である。



その背景を眺めてみよう。



山本常朝は葉隠の中で嘆いている。



今の世は若者が集まれば、
① 金銀の噂
② 損得の考え
③ 内緒事…家庭の暮らしむきの話等
④ 色欲の雑談
ばかりが時の話題となっている。



「損得我儘」ばかりに日を送り、「行き当たりては恥をかき」、それを恥と思わず「我さへ快く候えば何も構わず」、また家老達が心の底から藩を思ってないと、涙を流し声を震わせる。



常朝をこのように嘆かせた元禄時代、葉隠の時代背景は、どの様な社会・経済状態であったのであろうか。



(1) 元禄時代は、戦国以来のダイナミックな武士道との決別の時代と思われる。
   即ち、関ヶ原戦から100年を経過し、島原・天草の乱から70年を過ぎ、
   年文化の時代へと移り変わって来ている。



(2) 町人の経済力が大きく成長し、
   武士の権力より町人の経済力がものを言う
   町人文化の時代へと変わってきた。



   武士も奉公人(サラリーマン)時代へと変わり、
   軍人としての武士より、
   経理、外渉、産業開発等に能力のある武士が
   重要視されるようになった。




(3) この時代の経済社会を見ると、
   米経済から貨幣経済へと移り変わり、
   貨幣経済が農村まで浸透し、
   商品の流通に携わる町人たちの経済力が急上昇した




また、庶民の生活様式も大きな社会変化をもたらした。



家庭での食事が夜を含めて三食になったのもこの時代である。



庶民が茶屋遊び、酒、博打を好み、芝居を見て楽しむようになった。



前髪姿の若衆、華麗な小袖、絵画から工芸、染織の意匠、友禅等の芸術が花開く。



松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴等、文学の方面でも目ざましい発展を見ることができる。




日本史のどの時代より町人が「いきいき」していたと思われる。



佐賀藩の武士も、参勤交代(一般的には一年間江戸勤務。佐賀藩は長崎警備のため短く、百日大名と称された)で江戸に参り、大都市で町人文化に接し、その影響を受け、憧れを持つ侍(武士)が多くなってきたのではないか。



元禄社用族汚職事件の発生や、浮かれ妻騒動や密通等、多くの課題が葉隠でも指摘されている。






葉隠の神髄(第七章より)



1.葉隠の中核的思想



葉隠を代表する基本的内容は、なんと言っても『四誓願』をあげねばならない。



一、武士道においておくれ取り申すまじき事。

一、主君の御用に立つべき事。

一、親に孝行仕るべき事。

一、大慈悲を起こし人の為になるべき事。



『四誓願』を見ると、主君への御用よりも、武士の個人的倫理が積極的に表現されており、封建制の時代に武士の有様を主張したのは、公に尽くすべき強烈な倫理であり、美意識の主張として理解される。



2.葉隠の名言(抜粋)



★ 武士道というは死ぬ事と見付けたり。
  二つ二つの場にて早く死ぬほうに片付くばかりなり。
  別に仔細なし。胸すわって進むなり。
  (中略)
  我人、生きる方が好きなり。
  多分すきの方に理がつくべし…




武士に武士道とは何かと問いかけても、答えられるものが極めて少なかった「油断千万の事なり」の現実を実感し、武士の行動や思想哲学が、山本常朝の考えている展望と異なって来たので、武士道の再構築の必要性を痛感し、死の覚悟をもって公務に尽くす葉隠武士の、決意の行動原理を表現していると思われる。



★ 恋の至極は忍恋(しのぶこい)と見立て候。
  逢いてからは恋のたけ低し、一生忍んで思い死することこそ恋の本意なれ。
  「恋死なん、後の思いに、それと知れ、ついに洩らさぬ中の思いは」
  この歌の如きものなり。
  これに同調の者「煙仲間」と申し候なり。



和歌の意味は、
「恋慕ったまま死んだ私を焼く煙を見て、最後まで明かさなかった私の心を知って欲しい」。
自分の胸の中を相手に打明けず、相手に心から尽くす隠し奉仕陰徳は、常朝が重んじる「陰の奉公」に相通じるものである。



『次郎物語』の作者下村湖人は、青少年育成事業として、同志的結合を大切にする「煙仲間運動」を提唱し、この語が有名になった。



慈悲より出づる智勇本ものなり
  慈悲の為めに罰し、慈悲の為め働く故に、強く正しきこと限りなし。



慈悲と仁(愛情)は同義と葉隠は解し、慈悲あっての智勇だという。




★ 大事の思案は軽く、小事の思案は重く。



大事の思案は平常の間に検討し、前もって心にきめておき、その場に臨んでは簡単に態度をきめるべきものである。これに反し、日ごろの覚悟が不足であれば、その場に臨んで簡単に判断をつけることができず、誤りをふやすことになろう。



★ 先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を呑む様に請け合わせ、疵直るが意見なり。



先ずその人のよい点をほめあげておいて元気をださせるように気を配り、のどが渇いている時に水を飲むように受け入れさせて、欠点をなおすというのが、本当の意見というものである。



★ 勝ちといふは、味方に勝つ事なり、
  味方に勝つといふは、我に勝つ事なり、
  我に勝つといふは気を以て体に勝つ事なり。



大酒にておくれ取りたる人、数多(あまた)あり。
  先ず我が丈分をよく覚え、その上は飲まぬようにありたきなり、
  酒座にては気を抜かさず、思わぬ出来ごとありても間に合う様にありたし。
  又、酒宴は公界(くがい)ものなり、心得べき事なり。
  酒に酔ひたる時、一向に理屈を言ふべからず。
  酔いたるときは早く寝たるがよきなり…。



鍋島藩士は酒を飲む人が多かったのであろう。酒席は公の場と戒めている。300年前も今も、酒に関する注意は全く同じで、葉隠には酒にまつわる挿話が多い。



★ 人間一生、誠にわずかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。
  夢の間の世の中に、好かぬことばかりして苦を見て暮すは愚かなことなり。
  この事は、悪しく聞いては害になること故、若き衆など之は語らぬ奥の手なり。
  
我は寝ることが好きなり。いよいよ禁足して寝て暮すべきと思うなり。



無骨一辺倒でない自在な幅広い常朝の人物像が浮かぶ。これはもちろん怠惰のすすめではない。禅でいう「大悟一番」の心境であろうか。心の迷いを去って真理を知る常朝の気持ちと思われる。若者が誤解しないよう「奥の手なり」と言っているのは面白い。



慈悲と仁(愛情)は同義と葉隠は解し、慈悲あっての智勇だという。



以上は、膨大な項目から若干の例にすぎない。葉隠の内容は千差万別多岐にわたり何れの時代にも適応した教訓であり経典である。



中に涙が溢れるような心あたたまるような話もあれば、思わず吹き出したくなるような面白い話もあり、話題は非常に豊富である。



『葉隠』は外国語に翻訳され、欧米人にも大きな反響を与えている。それは、日本の武士道の中に崇高で強靱な犠牲的な生き方が発見され、感動したからであろう。イタリアの宣教師は『葉隠』の中にバイブルをみたと称賛している。



『葉隠』は単なる日本の古典や修身教科書的なものではない。いまや世界に通じる書であり、21世紀に生きる人たちへの警告の書である。



現代に生きる私達は『葉隠』を学び、『葉隠』を正しく理解し、『葉隠の心』を継承し、文化遺産として後世に伝える義務があると思う。












ということで、私は、〔喫煙仲間〕かな? それとも昔のことだから、〔カマドで煮炊きする仲間=同じカマのメシを食う仲間〕とかかな?と思った、『煙仲間』(^^;)。下村湖人と
田澤義鋪は、佐賀県の同郷でしたっけねぇ。


通俗的に、〔武士道というは死ぬ事と見付けたり〕なんて言葉が独り歩きして、戦争中はそれが特攻隊や玉砕の時などに使われたりしたそうですが、それって読解力が不足していたヤカラですねwww


〔武士道というは死ぬ事なり〕。これで初めて成立しますが、〔死ぬ事と見付けたり〕ですからねw〔哀しきものは宮仕え〕なんていう川柳の類で、バカになってハイハイと従っていれば無事に勤めを果たせたり、出世するものなんだなあ・・・なんてところだというのが、それに続く文章で物語っています。


武士道というは死ぬ事と見付けたり。
二つ二つの場にて早く死ぬほうに片付くばかりなり。
別に仔細なし。胸すわって進むなり。
(中略)
我人、生きる方が好きなり。
多分すきの方に理がつくべし…



実はこの時、『葉隠』の作者の田代陣基は、三代目の藩主に仕えていたそうですが、後に四代目の藩主となる誰とかにも俳句だったかな、なんだか手習いを教えていて、それが三代目の気に障ってお役御免になり、その時に、草深く、
常朝和尚さんを訪ねて、意気投合したということのようですから、バカになれよ~・・・なんて話は、当然、出たと思います。


で、陣基さんだか、常朝和尚さんだか、そうは言っても私はバカに徹し切れなくて、これ、この通り・・・なんてタメ息ついてますwww


そういった一文もあるので、書くのは書いたけれども、読んだら燃やして下さい、なんて断ってるんですね、この『葉隠』。それで内緒でこっそり回し読みされたワケです。


では、表向きの武士道とは、どういうものでしょうか。


それが〔煙仲間〕ですね。武士道というは煙仲間なり、だそうですwww


最後まで誰にも知られなくてもいい。誰の為でもなく、自分自身の納得が行けば、それでいい。


蛇足ですが、『四誓願』の最初の、〔武士道においておくれ取り申すまじき事〕というのも間違って解釈されそうですね。人に先んじて何かをやるように、ではなく、物おじするな、ということだと思います。えー、そんなの恥ずかしくて出来な~い!なんて言わないように、ですwwwその為に、日頃、鍛錬を積んでおくように、となるワケで、私は武士にはなれません ^^;






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