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(863) 【失ったものの大きさ】「ざらざらした」精神を回復せよ

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【失ったものの大きさ】







麻生太郎 2009年5月28日 ミス沖縄












【正論】
年頭にあたり
文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
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「ざらざらした」精神を回復せよ
2011年1月4日
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110106/stt11010614340021-n1.htm.



≪ごっこの世界の惰眠の終わり≫



尖閣諸島沖における中国漁船衝突事件やロシアの大統領の国後島訪問、そして北朝鮮による韓国・延坪(ヨンピョン)島砲撃など、危機をはらんだ出来事がつづいていることを鑑(かんが)みるに、どうも歴史は、ざらざらしてきたように思われる。



戦後民主主義下の日本について、「ごっこの世界」といわれたことがあるが、たしかに「戦後レジーム」の中で惰眠をむさぼってきた日本の社会や日本人の精神は、何かズルズルベッタリな、スベスベしたものであった。



その人間観、あるいは国家観は、実に生温(なまぬる)いものであり、戦後60余年平和と繁栄の中では、そんなものでも結構、通用したのである。



そして、日本人の精神の歯はもはや硬いものを噛(か)むことができず、軟い、甘ったるいものだけをただ呑(の)み込むようになってしまった。
「民意」とは、そこから発生しているにすぎない



だから、現実がざらざらしたものになってきて、「ごっこの世界」がついに破れ去り過酷な歴史の進展が露呈されてくると、日本人は、ただなすすべもなく、あるいは拠(よ)るべき基準も持たず、安逸の惰性の中にひきこもろうとして立ちすくんでいるのである。



≪生誕150年内村鑑三を振り返る≫



代表的な「明治の精神」である内村鑑三は、今年生誕150年を迎える。
私が鑑三について一冊の本を上梓(じょうし)したのは、もう20年も前のことだが、その最後の章を「ざらざらした信仰」と題した。



この著書を司馬遼太郎氏にお送りしたところ、お葉書(はがき)を頂いた。
そこには、
「小生は内村鑑三にわずかながら関心を持ちつづけて四十年以上になります。
自分のなかの鑑三が、ご本によってくっきりとした深まりを見せました。
『ざらざらしている』という御表現も、感じのいいものでした。
創始者のもの本気でつくられたもの懸命に考えられたものは、整理をへていないためにざらついています
と書かれていた。



「明治の精神」とは、「ざらざらしている」のである。
明治という時代の「創始者」たちは、「ざらざらしている」。
平成の日本が、スベスベしているとしたならば、それは戦後の日本が、国家を「本気でつく」ることなく、人間について「懸命に考え」てこなかったからではないか。



嘉永6(1853)年の黒船渡来以来、沸き立った日本人の精神的エネルギーは、「明治の精神」に結実した。
この精神的エネルギーは、思考力、道徳力をはじめ、政治力、外交力、経済的勤勉さ、社交的誠実さなどを含むものを指しているが、幕末維新期に盛り上がったそのエネルギーは、160年ほど経(た)った今日、ほぼ消滅してしまったようである。



「戦後レジーム」の、いわば静力学的な安定になずみ、歴史が動力学的な、新たな局面に突入した事態の前で、足踏みしてしまい、動力学的な次元での平衡を「本気でつく」ろうとしない。



21世紀の10年が終わり、11年目に入る今年は、ますます現実はざらざらしてくるに違いない。
「ざらざらしている現実を抱きしめる」(ランボオ)ためには、ざらざらした精神が必要である。
動力学の世に対処するには、躍動する精神が回復されなくてはならない。





「整理」にのみ長(た)けた秀才が、政治、官僚、経済、文化の世界で跋扈(ばっこ)しすぎている
のではないか。
そういう今日の日本でエリートとされている人間は、あえていえば、「本気で」、あるいは「懸命に」考えていない
のである。



≪明治のエネルギーを今一度≫



そういう意味で、今年生誕150年内村鑑三振り返ることは、日本人の精神的エネルギー回復する上で、何よりも有効であると思われる。
司馬氏の『坂の上の雲』が現在、何かと話題になるのも、そこに「明治の精神」が活写されているからに違いない。
たしかに今日の日本必要なのは、「明治の精神」の回復である。
その「ざらざらしている」活力である。
その精神的エネルギーを内村鑑三の思想から我々(われわれ)は汲(く)みとらなければならない。



保田與重郎は、昭和12年に岡倉天心と内村鑑三をとりあげた「明治の精神」と題した文章の中で、
内村鑑三明治の偉観といふべき戦闘精神も、日本に沈積された正気(せいき)の発した一つである。
しかもその『日本主義』は『世界のために』と云(い)はれた日本である。
彼はそのために所謂(いわゆる)不敬事件をなし、日露戦役に非戦論を唱へ、排日法案に激憤した。
アメリカ主義を排し、教会制度に攻撃の声を放ちつづけた」
と書いた。



保田自身も日本の「正気の発した一つ」であり、三島由紀夫もその一つであった。
今年は、「日本に沈積された正気」が、いよいよ発する年になるのではないか。
それが日本の希望であり、保守再生の真の源泉も、その「正気」にあるであろう。(しんぽ ゆうじ)











 
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