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(1319) 関係ないのに水俣病(戦後教育とGHQ)その4

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美智子妃殿下は流産されている。民間から初めての皇室入りというプレッシャーではなく、学閥からくるイジメのストレスだと思える。


(3)でホリエモンの例えを書いたが、王家というものは、我々庶民が想像できるほど、普通の暮らしをしているのではない。なんたって、ティアラをつけてイブニングドレスですよwww


その行動範囲も、学生の頃なら今の天皇陛下が目白で、なんて話も知ってるけど(目白在住の人に聞いたw)卒業されたら制限されるし、テニスだって、そこらへんでやってるワケじゃない。


その行動範囲の中で出会う人というのも、それなりの家がらの、それなりの人だということを、知らないのか、考えが及ばないのか、まるで頭に入れていない文章などをよく見かける。


美智子妃殿下も、日清製粉のお嬢様というだけでなく、代々続くお家柄のお嬢様だったが、先ず、「正田」というので、えらいバッシングがあった。


訓読みではなく、音読みだから、由緒正しくないというのだ。


古来からの家柄なら「まさだ」であるべきなのが、「しょうだ」では、皇太子の嫁、そして天皇家には相応しくないという。


次にイジメられたのは、学習院出身ではないということ。


ここで、あっ!と思った人はいるかなあ?


宮内庁がりストアップしたお妃候補の中には、当然、学習院出身、あるいはナニガシの縁故関係という方々が沢山いたのに、よりにもよって民間から!!なんてとこでしょうね。


挙句の果てに、皇太子より背が高いだのなんだの、あることないことイジメられたらしい。


美智子妃殿下が猫背なのは、その為です。


唯一、救われたのは、美智子妃殿下は、潜在的に、いずれそれなりの家に嫁ぐことを前提として過ごされていたこと。


でも雅子殿下は違った。


キャリアに向けて進んでいた。


その、仕事で、今の皇太子と出会った。


皇太子が一目惚れ。


でもキャリアを目指していた雅子様は求婚を断り続けた。


宮内庁では他にもいっぱいお妃候補を用意して、週刊誌は、あの人が本命、この人が本命と書き立てたけれど、皇太子の気持ちは変わらなかった。


一目惚れしてから6年後に、やっと、雅子様のお気持ちが折れた。


さあ、納まらないのが、誰?!


ご結婚から6年目に、朝日新聞が一大スクープを一面に大きく報じた。雅子様ご懐妊。


6年目ですからね、どのくらい報道関係者が押し掛けたか。


妊娠してるのに、ヒールを履いたり、ワインを飲んだりしてもいいのか!!


大きなお世話だ!!w


悪意に満ちた報道の出処は、身近にいる人物でなきゃ、そんなこと分かりませんよね?という所。


ほら、週刊誌なんかが、まるで隣りの家かと思うような記事を書いてるじゃないですか。皇太子一家が、庭があるかないかの家に住み、ピンポーンと押すと雅子さまが出て来るなんて暮らしをしてるみたいですねぇwww


お手伝いさんだって一人や二人じゃないのよ。テレビなんかでやってる大奥のドロドロを縮小したみたいなもんです。


で、雅子様は流産されました。 げに恐ろしや皇室は。


将来的に天皇になるかもしれない、なんだっけ?名前・・・様が、学習院ではなく、よりにもよって、お茶ノ水女子大(笑)付属幼稚園なんて所に入園されたのに、頑なに愛子様を学習院に通わせておられるのは、なんらかのお気持ちがあるのかも知れない。


あれねえ、想像できますよ。近年は学習院なんていっても庶民が普通に行きますから、お受験なんていうバカ親が週刊誌なんかを鵜呑みにして、家で雅子様の悪口とか言ってるとするでしょ。ガキは素直ですからね、学校に行ってそのまま言う。そんなところだと思いますよ。


大体、問題があって、校長とかを降格させられた人が担任って、どんだけ馬鹿にしてるか。普通じゃ考えれれません。げに恐ろしやです。


それにしても、なんで雅子様をこんなにバッシングするんだ?と思って、あちこち検索してみました。


雅子様の母方が、水俣病のチッソの社長をされていた、あのあたり。


江頭なんたらさんは、日本興業銀行に勤めておられて、その銀行は、お助け隊とか言われたくらい、企業経営にノウハウを授けて危機を救っていたそうです。


江頭なんたらさんは運が悪かったのか、それだけ有能だったのか、水俣病で問題になっていたチッソに下向しました。


その経過。


1956年。水俣病の発生が確認された。


当時、日本では7カ所、世界では20カ所に同じ製法をしている工場があり、その他にも世界には水処理なしの垂れ流し工場などもあったのに、何故、水俣だけ、こんなにも病気が発生したのか、それが分からないために、政府の認定が遅れたそうです。


原因としては、水俣湾では魚介類がたくさん採れたので、食べる量も多かった。


そして、メチル水銀化合物で育った魚介類が卵を産んで、どんどん増えていったのではないか、ということ。


1964年。江頭ナニガシが、水俣病でガタガタしているチッソの専務として就任。やがて社長に。


1968年。政府がやっと、発病と工場排水との因果関係を認める。


1971年。江頭ナニガシがチッソの社長を退任して会長に。


1972年。チッソの千葉県五井工場に押しかけた訴訟デモに対して、会社側がヤクザを向け、その騒動によって、その手のものを手がけている共産圏の報道写真会社のカメラマンが重傷を負う。


なお、訴訟デモに押しかけた人たちは白装束だった。


1973年。水俣病の判決が降りて、賠償などが始まる。


江頭なにがしは辞任して相談役となる。


現在、なぜか雅子殿下バッシングの理由に、これを声高に叫ぶ人たちがいる。


江頭なにがしがチッソに下向したのは、水俣病が確認された8年後であり、被害者との和解などには動いたかも知れないが、直接の責任はない。


むしろ経過を見ると、解決に向けて動いたと思われる。


被害者にしてみれば済まないことだが、当時はまだ公害が知られておらず、世界中で同様のものがあった。


現にメチル水銀化合物にしても、上記のように、世界では27カ所、水処理もしないで直接垂れ流しの国もあったという惨状で、今尚、中国など新興国や後進国などでは、同じ事が行われている。


それなのに、なぜ、江頭ナニガシというよりも、雅子殿下だけがバッシングの対象とならなければいけないのか。


それを言うなら、過去のことではなく、今現在、垂れ流している国や工場に対して言うべきではないのか。


最後に疑問として残るのは、デモ隊の白装束wなんかそんな一団があったっけねえ。


なお、1970年は歴史に残る左翼運動が頂点の年。その翌年の千葉五井工場でのイザコザは、なんか臭う。重傷を負ったカメラマンも、ただの報道カメラマンではなく共産系だし。



〔参考〕
Wikipediaより


1989年:週刊新潮2月16日号pp31-32に
〝水俣病「ニセ患者」も三十年〟
として、胎児性患者・上村智子の母親の意見を掲載


私らが裁判に勝ったら、一任派の人たちも千八百万円もらいなすった。


それはまだいいのやけど、お金が出たばっかりに、
〝自分もそげんとじゃ(そういう症状だ)〟
と言う人の出てきたとです。


それも、以前は伝染病やとか言うとった人やら、
〝あそこの家は貧乏やから、魚しか食うもんがなくて病気になった〟
とか、陰口叩いとった人に限って、我も我もと申請ばするとです。


ろくに魚も食べんのに水俣病になった人やら、
四十年(1965年)になった水俣に越してきた人やらが、
〝水俣病や、水俣病や〟言うて・・・・。


絶対、焼酎飲みすぎてアル中になった人やら、中風やらの人が申請しとるとです。





これは、形は違っても成田空港の直ぐそばですからね、私んち。すっごく良く分かります。


「反対しねぇと、豆腐1丁、売ってもれぇねってど」なんて焚きつけてたヤツらに限って、イの一番に、1等値の代替え地と補償金を貰って、さっさと引っ越して、その一等地に入母屋の凄い家を建てて暮らしている。


素直にその言葉を信じて反対して残っていた者は、最後の方の、あんまり良くない代替え地だったりする。


あるいは革マルだのなんだの、あのへん、どれがどれやら区別がつかないんですけど、気のいい農家の年寄りに取り入って養子縁組しちゃったり、1坪運動という、滑走路予定地のあちこちに、1坪づつ土地を買い占めて、立ち退き絶対反対!!とかね。


物事には“ウラ”があることが多いです。



つづくへ




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