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◆ 敗戦真相記 ( 1) 『敗戦真相記』を読む ―田瀬康弘

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L.A.GUNS ~ Over The Edge (1991)


永野護著敗戦真相記
2002年7月15日発刊


敗戦真相記を読む ―田瀬康弘


主である私にしか物の所在がわからないほど本や資料が乱雑に積み上げられたオフィスの机で、机を離れたときにでも、どこにあるか無意識のうちに掌握しているのが、ぼろぼろになった『敗戦真相記』のコピーである。

朽ち果てそうになってはコピーを繰り返し、いまあるコピーの束はおそらく四代目ぐらいにはなるだろう。何度読み返したことか。どれだけたくさんの人にこのコピーを手渡したことか。

私の手許にくるまでに何度かコピーされているために、活字は滲んだようになって読みにくい。敗戦直後に本になったものだから、それでなくとも半世紀以上も前のものなのである。 

著者である永野護について私が知っていることといえば、永野重雄ら広島の永野兄弟の長兄で、たしか岸信介内閣だったかで運輸大臣をした人、実業界と政界の境界線のようなところに棲息していた、いささか胡散臭そうな人、という程度の知識であった。 

永野なる人物がどういう人物であるかは、この際、さほど重要とは考えない。私がこれから述べようとするのは、あくまで彼が終戦の翌月、原爆投下の広島で行った講演の速記録をもとに加筆修正し、昭和 21年(1946年)元旦、書物の形にして発効した『敗戦真相記』についてである。

永野については毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばするようなところがある。したがって、彼の人物論の上に『真相記』について語ることは、ときに冷静な分析を妨げることになるような気がする。永野が実に立派な人物であった、と記しても、また稀代の悪人であったと評しても、結果は同じことで、読者に先入観を植え付けることにしか役立たない。 



「こんなものがあるのだけれど」と『真相記』のコピーの束を私にくれたのは、たしかかつて私の同僚で、いまは雑誌『選択』の編集長をしている阿部重夫氏であったように思う。阿部氏は、われわれの共通の友人でもあり同僚でもある永野護の孫にあたる永野健二氏から手に入れたのだと思う。

あるいは直接、永野健二氏が私にくれたのもだったかもしれない。いずれにしろこの『真相記』は、知的関心の方向がまったく違うわれわれの人間関係をつなぐ重要な存在であり続けた。 

「なぜ日本は戦争に敗れたのか」

こんな単純な命題にだれも正面から答えていない。「敗れるべくして敗れた」とそれだけをつぶやくように語るだけで、半世紀以上も多くの日本の責任ある立場の人間が口をつぐんできた。

おそらくは天皇の戦争責任というタブーに踏み込むことを避けるために、意図的にその分析作業をサボタージュしたものだろう。 

私はこの永野護の敗戦真相記以上に、さまざまな角度から、しかも冷静に敗因を分析したものを知らない。軍事的な分析や国力の比較など、特定の角度からの分析は少なくないだろう。

しかしながら『真相記』のように、戦時の庶民の生活実態にまで踏み込んで、冷静に分析したものは、しかもだれにも理解できるような説得力を持った形でのものは他に存在しないだろう。 

永野は前書きでこう述べている。

我々は痛切にこの現実を自覚し真剣な反省と努力とによって日本国民の文化水準の向上をはかり軍備より解放せられたる文化大国を再建することによって今日の敗戦の弔鐘を明日の勝利の暁鐘と転化し得ることと信じます」 

半世紀を経たいま、「勝利の暁鐘」どころか、日本は同じ過ちを繰り返している。 
敗因として永野があげたすべての項目が、いま、日本にそのままあてはまるのだ。 
日本が没落の一途をたどった原因として。 



なぜ、「どこから見ても勝ち目のない戦争」をしてしまったのか。なぜ冷静にその分析をしようとしないのか。永野は論文の冒頭でその答えを示している。 

みんなの胸の中に何だかまだ割り切れないもやもやした感情が残っておりはしないかすなわちはっきり敗けたとは理屈の上では考えながらどうも本当に敗けたという気持になれないいわゆる勝負には負けたが角力には勝っていたのではないかだからもう一遍角力を取れば相手を投げ付けることができるのではないかという気持が残っていやしないかと思います」 

この永野の言葉を、いま(注: 2002年)の日本にあてはめてみる。10年ほど前までは押しも押されもせぬ世界第 2位の経済大国であった。「もはやアメリカから学ぶものは何もない」と日本人は胸を張った。 

アメリカは財政と貿易の「双子の赤字」に苦しんでいた。「日本に学べ」とばかり日本的経営に強い関心を示し、日本型の終身雇用、年功序列システムを羨むような論調さえ見られた。 

図に乗った日本人はアメリカの不動産を買い漁り、マンハッタンのど真ん中のロックフェラーセンターに手を伸ばしたことでアメリカ人の怒りを買う羽目になった。 

それなのに、なぜ?」

「まだ割り切れない、もやもやした感情が残っている」のである。競争で負けたことは承知しながらも、「もう一遍、角力を取れば相手を投げ付けることができるのではないか」と考えているのである。 

歴史の転換点を、われわれ日本人は極めて情緒的にしか捉えていないようである。したがって、何故にこのような結果になったのかの分析作業へのエネルギーが出てこない。 

ただ漠然と「時代は変わったらしい」と受け止める。その変わり身の速さたるや、驚くべきものである。和辻哲郎が『風土』で指摘するところのモンスーン型気質なのか、実にあっさりと諦めてしまうのである。 

『敗戦真相記』の中で、私がもっとも共鳴したのは次のくだりである。 

諸藩の事情が日本有史以来の大人物の端境期に起こったということでありまして建国三千年最大の危機に直面しながら如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなくただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まってわいわい騒ぎながらあれよあれよという間に世界的大波瀾の中に捲きこまれ押し流されてしまったのであります」 

有史以来の大人物の端境期

いまの日本には、まさにこの形容がそのままあてはまる。「大人物」どころか、ごく普通のリーダー層にさえ人材に事欠くありさまだ。永野は「人材飢饉」という表現を用いているが、見事な表現である。 

永野はこう嘆く。 

維新当時日本の各地に雲のごとく現われた各藩の志士例えば一人の西郷一人の木戸一人の大久保のごとき大人物が現存しておったならそれ程の人物でなくてもせめて日清日露の戦役当時の伊藤山県ごときの政治家また軍人とすれば陸軍の児玉源太郎大山巌海軍の山本権兵衛東郷大将のごとき人物がおったならばさらにもっと降ってせめて加藤高明原敬あるいは一人の山本条太郎が今日おったならばおそらく日本の歴史は書き換えられておったろうと思われるのです」 



永野は「支那事変から大東亜戦争を通じて」日本と世界の指導者を比較している。 日本の指導者は、近衛文麿、東条英機、小磯国昭。それにルーズベルト(米)、チャーチル(英)、蒋介石(支那)、スターリン(ソ連)、ヒトラー(独)、ムッソリーニ(伊)。 

「千両役者のオールスターキャストの一座の中に我が国の指導者の顔ぶれの如何に大根役者然たるものであったかを痛感せざるを得ないでしょう」と述べているのだ。 



「人材」。 

幕末から維新にかけてあれほど傑出した人材がいたのに、日本から人材が姿を消してしまったのはなぜなのか。

人材の有無は、時代が過ぎてからでなければわからない。そこが難しいところだ。育てようとして育つものでもない。しかしながら、人材の育成や発掘に手をこまねいていれば、それだけ国家や社会の大きな損失を招くことになる。

「指導者は育成しうるものか」という私の拙き問いに米歴史学者のポール・ケネディは答えた。

「イエス、アンド、ノー」 

「人材」 を考えるとき、どうしても勝海舟『氷川清話』に出てくる話に言及せざるを得ない。万延元年、すなわち 1860年、勝は咸臨丸で米国へ渡った。半年後に帰国した勝は江戸城へ招かれる。 

居並ぶ老中から質問が浴びせられる。

「其の方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳かに言上せよ」 

勝は答える。

「人間のする事は、古今東西同じもので、アメリカとて別にかわったことはありません」 

「左様であるまい。何か、かわったことがあるだろう」 

再三再四の問いに、勝はこう述べる。

「左様、少し眼に付きましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のように思いまする」 

「この無礼者、ひかえおろう」 

勝が日本は政府でも民間でもおよそ人の上に立つ者はみなその地位相応に怜悧ではない、と嘆いた幕末。いまわれわれは当時に思いをはせ、何と人材の溢れていた時代よと懐かしむ。勝が永野の敗戦真相記を読み、なおかついまの世を眺めたならば、何と感想を漏らしただろうか。 

戦時中、東条英機首相を激しく批判した『戦時宰相論』を書き、軍部の弾圧を受けた政治家中野正剛はこう指摘した。 

「国は経済によりて滅びず。敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨 (きすう) に迷うことにより滅びる」 

この指摘の正しさをわれわれはいま、痛感せざるを得ない。 ごく当然過ぎるほどのことを述べただけで身を滅ぼすほどの弾圧を受け、それでもなお叫び続けた勇気ある政治家が存在したことを誇りに思いながら。 



戦争の根本的な原因について永野は、日本の国策の基本理念が間違っていたことを挙げている。すなわち「日本だけ栄える」という考え方で「大東亜共栄圏建設の名前で自給自足主義を強行した」ためと指摘している。 

その上でいくつかの日本の特殊事情が加わり、戦争への胚子を育て上げて行ったと述べている。その事情とは、

1.  日本の指導者がドイツの物真似をした。明治以来の軍閥官僚はドイツ本位で進めてきたが、ドイツ同様、卓越した民族という誤った意識がナチス・ドイツへの心酔につながった。 

2.  軍部が己を知らず敵を知らなかった。近代戦の実態も英米の事情も知らず精神力を過大評価した。軍部の独善主義は幼年学校教育にあり、極端な天皇中心の神国選民主義がある。 

3.  世論本位の政治が行われなかったこと。新聞までもが主張を封じられた。社会全体が憲兵の監視の下で生活するような空気であった。  



「戦争の発生原因それ自体がすでに敗北の要素を内在しておる」と永野は断じている。戦後の日本にはアジア諸国の植民地を解放してやったのは日本であり、そのことに感謝している国々もある、という主張もあった。これに対して永野は満州、フィリピン、タイなどの例を挙げ、それぞれ人心を把握できていなかったと指摘する。

その結果、「日本人の勢力地域が拡大すればするほど反対に日本の戦力は脆弱になるという奇妙な論理が成り立つようになって、ちょうど下手な石工の築いた石垣のようなもので、いたるところ穴だらけで、どこを突いても、すぐに総崩れとなる形勢になっていた」と述べている。 

何のために戦争をするのか

いかなる戦争にも戦争目的がある。いわば戦うための大義名分である。満州を占領し、中国へ侵略し、太平洋戦争へとつながっていった一連の戦争は、そのたびごとに戦争目的が変わった

国際社会に対して一定の説得力を持たない戦争は、まず、勝ち目がない。肝心の日本人ですら、戦争目的を理解できていなかった。一般大衆は「憎き鬼畜米英をこらしめる」ぐらいの意識しかなかったのである。

永野は日本と、敵国である米英の諜報能力のあまりの違いにも言及している。彼らのスパイ能力について例を挙げて書いている。

日本で初めて噴進式飛行機を中島飛行機で完成したのが終戦の年の 6月か 7月。そのときほんの数時間、格納庫から飛行機を外に出しておいたところ、写真を撮られていた。終戦後、米兵から写真を見せられた関係者が度肝を抜かれたという話である。 

戦争が始まってから米国ではたくさんの日本語研究所ができた。日本の教科書を第三国を通じて輸入し、日本のすべてを研究した。

これに対して日本は、中学などで英語を正課にしていたくせに、戦争が始まると「敵性語」だとして教室から英語を駆逐してしまった。この差がいかに大きかったか。 

根拠のない優越意識と精神主義だけで欧米の科学兵器の進歩に打ち勝てると考えたのはなぜなのか。

太平洋戦争で日本にもっとも手痛い打撃を与えたのは「レーダー」の存在だったと永野は言う。日本に爆撃に来た米国の戦闘機が、闇夜に正確な写真を撮っており、実に正確な投弾ぶりだったと驚いている。

原爆にしても、広島に原爆が落とされたという報告を聞いた日本の専門家たちは「技術的にできるはずがない」と容易に信じなかったというのである。 

日本の敗戦後、厚木に着陸した米軍の飛行機についておもしろいエピソードを永野は紹介している。

飛行機には給油が必要だ。しかしアメリカのタンカーは横浜港に停泊しているので、厚木まで送油しなければならない。横浜から厚木まで 40 kmを米軍はパイプを敷設すると言い張る。

日本側は測量するだけでかなりの日数がかかり、すべて敷設し終わるには 3年は掛かるとみた。ところが米軍はこれを 27時間で仕上げたのである。 

アメリカのニュース映画で東京空襲のニュースの題名が「科学無き者の最後」というものだったという。

この言葉を引用して永野は「単に科学兵器や経営能力に対して言われるばかりでなく、実に軍をあれほどまで横暴にさした日本の政治の根本的な仕組みにあてはまること」と指摘している。 



『敗戦真相記』 には 「日本における陸軍国と海軍国」 という一項がある。実にいまの日本をそのまま表しているようで興味深い。要するに戦争をしようというのに、陸軍と海軍の作戦がまったくばらばらだったというのである。作戦がばらばらぐらいならまだしも、互いに相手に情報が伝わらないよう腐心していたとあっては、何をかいわんやである。 

「大日本兵器」という東京・青砥にある軍需資材関係の向上には、門が 2 つあったという。軍人の要求で陸軍用と海軍用の 2 つの門ができたのである。例えば鉄なども、海軍は日本製鉄、陸軍は日本鋼管と分かれており、少ない資源を奪い合っていたという。 

この手の話はあまりにも情けない。しかしながら、半世紀以上経たいまの日本でも同じようなことをしているのである。霞が関の役所の対立は「省益あって国益なし」と言われるような状態から変わっていない。省益どころか同じ組織の中で情報を隠したり、権益をめぐる対立を繰り返したりしている。 

「みずほ」 グループのシステムが発足当初からうまく機能しなかったのは、第一勧銀、富士、興銀の 3 つの旧銀行間で、システムの統一をめぐる抗争があったためだ。システムは完全に 1 つにしなければ混乱が生じるという問題意識はあったにもかかわらず、それぞれが自説を譲らず、結果、不安を解消できないままのスタートになってしまったのである。 

縄張り意識を捨てきれない。なぜなら、責任問題が生じるからである。責任を問われれば、自らの地位が危うくなる。したがって、みな自分がよって立つ集団の権益を守ろうとする。保身なのである。「大合併」というプロジェクトよりも、己の保身が優先した結果が、世界に恥をさらすことになってしまったのである。 

永野論文はトロッキーが満州事変直後に書いた「噴火山上の日本」という興味深い一文を紹介している。 

日清戦争は日本が支那に勝ったのではない腐敗せる清朝に勝ったに過ぎない。 日露戦争は日本がロシアに勝ったのではない腐敗せるロマノフ朝に勝ったに過ぎない要するにこれは一つの後進国がさらに一層遅れた後進国に対する勝利に過ぎない」 

日本は日清日露の成功に思い上がり東洋制覇の事業に手を出し始めたがこれは早晩アメリカかソビエトロシアに対する衝突を招くだろう。 日本の生産と科学は果たしてこの大戦争に用意ができているかどうか。 日本国民の神秘主義と精神論はこの大戦争によって冷酷にテストされるに違いない」 

この一文に関する限り、トロッキーは完璧に正しい。彼の洞察力に感心するよりも、わが日本の指導者層に、なぜ、同じようなことを考え、意思決定に反映させうることのできる人物がいなかったのかを残念に思う。 

永野は高度な日本人論の域にまで達したこの論文の中で、こう結論づける。 

何故こうまで軍部の独裁を許したかということになると一面は明治維新以来の日本の政治性格の半封建性によるものでありますが他面たしかに前述したように重臣議会財界文化各方面の人たちの無気力によるところが多いことを認めざるを得ません」 

「無気力」。

経済大国の輝ける地位から、自ら滑り落ちつつある日本をもっとも端的に象徴する言葉は、この「無気力」ではないか。戦後最悪の経済情勢などといわれながらも、どこにも危機感が感じられないいまの日本。 

政治もまた自立能力を完全に喪失し、問題解決のための政治であるはずが、いまや政治そのものが「問題」 あるという現実。にもかかわらず、指導者達も一般大衆も、どこか「なるようにしかならない」という気分に取り付かれている。 

最後に永野は「戦争の廃墟の上に再建さるべき新しい日本の前途に洋々たる希望を持ち得る」という言葉で締めくくっている。最後まで希望を持たせないまま締めくくるのでは、やり切れないという思いだっただろう。それに永野自身、半世紀後の日本はもう少しましな国になっていると考えていたのではないだろうか。 

永野論文を読み終えて考えるのは、人間も国家や社会も、それほど急には変わらないものだということである。敗戦から何も日本は教訓として学んでいない。ただ外交的に優柔不断な態度を取ることや、世界に向かって決してメッセージを発したりしないというマイナスの行動しか出てこない。 

しかしながら敗戦直後にこれほど冷静かつ的確に戦争という国家的大プロジェクトを分析してみせた人物が日本に存在していたことにいまさらながら驚くとともに誇りを覚える 



田勢康弘

日本経済新聞論説委員、作家 (筆名 黒河小太郎)。 1944年、中国黒竜江省生まれ。早稲田大学政治学科卒。日経ワシントン支局長などを歴任。日本記者クラブ賞受賞。ハーバード大学国際問題研究所上席研究委員。東大、早大講師。 著書に『政治ジャーナリズムの罪と罰』『だれが日本を救うのか』『総理執務室の空耳』(新潮文庫)『ジャーナリストの冒険』(新潮OH!文庫)『寸前暗黒』(黒河、角川書店)など多数。



永野護著敗戦真相記
目 次ー
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L.A.GUNS ~ Over The Edge (1991)

この曲は謡(うたい)から始まります。

そしてそれに続くこの曲ほど、この日本の音楽を見事に洋楽と融合させ、じっと耳を傾けていると能舞台が浮かんでくるような曲を、私はまだ他に知りません。

それだけに、この曲を日本人が作曲したのだったら、どんなにか嬉しかっただろうと、聴くたびに思います。



この記事は2009年11月25日保存の再投稿です。

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