(Ⅳ) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
AVANTASIA
Sleepwaiking (2013)
第6章 別亜論とは何か
1.日本は始めから脱亜していた
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
6.朝鮮植民地で「別亜」に気づいた人々
4.ファシズムとは何か
中野正剛について語ったので、ここでついでにファシズムについて若干述べておこう。
社会主義が革命であるとすれば、ファシズムだって革命だと喝破したのは松本健一であるが、
確かにこの両者は二十世紀のキャピタリズムと戦った勇敢なる対抗概念であり、ともに革命的であった。
そしてどちらも徹底的に負けたのである。
戦後の日本では、戦争を
英米の民主主義と日本の 「天皇制ファシズム」 との戦いであったと規定したのだが、
今日この規定はもはや支えるべくもなく諸家の研究により崩れつつある。
「天皇制」 で日本が神聖国家のようになってしまったのは、
水戸学や国学やドイツ渡来の有機体国家論によって補強された国体思想のせいであり、
イタリア渡来のファシズムが 「天皇制」 をどうかしたなどという話は、もともとが変な論法であろう。
戦後の共産主義者たちが三十二年テーゼを戦前のままに引きずっていて、
本来彼らにとっての別々の敵をくっつけて攻撃したにすぎない。
第二に、「天皇制」 を抜いて、民主主義 VS. ファシズムの戦いだったとしても、
民主主義は経済体制ではないが、ファシズムは経済体制をも含む概念である。
ファシズムという経済体制が戦ったのは、経済体制としてのキャピタリズムの方であった
と考えるのが、同じ土俵の公平さというものではないか。
英米の資本主義が敵としたのは、
まずドイツ・イタリア・日本などのファシズムという統制型経済体制であり、
つぎに戦ったのはソ連・東欧・中国などの社会主義という国家独占型経済体制であった。
前者との大戦でも後者との冷戦でも、
両経済体制は英米の資本主義体制によって追い込まれ、解体を余儀なくされたのであり、
ゆえにファシズムと社会主義はアンチ・キャピタリズムという点では同じ地平にあったといえよう。
戦前の日本で、
金融恐慌などに対処できず、政党政治が国民の信頼を失うと、
“革新官僚” といわれる統制型経済を志向する官僚が
企画院に集まり、
国家総動員機関として特化していくのだが、
彼らが
若い頃に東大新人会などを通じてマルクス経済学に触れ、
ソ連の計画経済に関心を寄せつつ、
国家社会主義的な思想傾向を持っていたことは周知のことである。
戦後の日本では、左翼文化人により
社会主義経済体制の順風満帆という嘘が宣伝され、「革新」 が彼らのスローガンであったように、
戦前の翼賛的文化人や全体主義知識人により、
ファシズムも全く同じ 「革新」 の地平で語られていたことを次に示そう。
前述の中野正剛の、『真直ぐに行け』 という随筆であるが、
以下、中野がローマ駐在武官のある中佐宅でご馳走になったところから話が始まる。
中佐夫人が言はれるには、
どうも伊太利の女中はお喋(しゃべ)りで大食ひで昼寝までする、不潔である、夜遊びに出る。
実に始末(しまつ)に負へなかつたのですが、
この間から来た女中は調子が違ふ、早起である、清潔(せいけつ)である、無駄話をしない、
物を聴けばはつきり言ふ、夜は暇があれば書物を読んで居る。
何でも貰った金は親の所に送るらしい。
どうも容子(ようす)が変だからその素性(すじょう)を聴いて見ると、
羅馬の町ではないが近在に於てフアツシスト党員(とうゐん)に加わはり
訓練(くんれん)を受けて来た者であるといふ話である。
これはフアツショといふものはえらいものだと思ひ、人様に話をして見ると
どの家でもフアツショの女中に取当つた者は仕合である。
金銭のことなど決して間違を起さない。皆さんがさうだと言はれる。
そればかりか経師屋(きやうじや)を傭(やと)つても、大工を傭(やと)つても
先づ今までの伊太利人、殊に共産党、社会民主党的の思想に影響(えいきやう)されたやつは
権利(けんり)の穿違(はきちが)へで、
労働時間内に退ける時間が来ればたつた一枚の壁紙(へきし)の貼(は)り残しでも
其儘打つちやつてさつさと帰つてしまふ。
然るにたまには変つた男がある、どうも働きがキビキビして居る。
時間が来ても、たつた一坪や二坪位ゐならば綺麗(きれい)に片付けて帰る。
調べて見ると斯ういふ人間は皆フアツショであります。
( 『真直ぐに行け』 育生社、1938年)
ファシズムの統制型経済体制が、統制された社会を生み出しているという、
「革新」 の歓びが横溢しているような文章ではないか。
次にならべて紹介するのは、
日本共産党員で、戦後は日朝協会理事、当時朝鮮総連と共に在日朝鮮人の北送事業を大いに煽った、
寺尾五郎という筋金入りの共産主義者の中国農村探訪記である。
ここに一つまことにほほえましいエピソードを紹介しよう。
人民公社が結成されて、今日から飯はタダだということになってから、
はじめの1、2週間というものは、誰もが2倍3倍食うそうである。
どこの公社でもはじめは計画の倍以上の食料を必要として面喰うそうである。
どうせタダだ、うんと食ってやれということである。
われわれ日本人とどこ一つかわらぬ同じあさましい人間である。
ところがいくらかっこんで見てもタダなものはタダなので、
張り合いがなくなるのかどうかそこまえは知らぬが、
とにかく2、3週間後には計画通りの食料の消費量にもどるそうである。
(中略)
いよいよ中国を離れる国境の深圳の駅で、
私は中国のいたる所で見かけた簡単なスローガンをしみじみともう一度見直した。
我為人々 人々為我 (これは中国語ではない。「我為人們 人們為我」 の誤りか―古田)
自分以外のすべての人々が、自分をふくむみんなのために働いている。
そして自分もすべての人々のために働いているというこのスローガンの中に、
人間の相互信頼の深さを今さらのように思い当たったのである。
そしてこの時ほど、中共のいう大衆路線という言葉の深さを感じたことはない。
大衆路線とは、大衆から発して大衆に帰るという意味だけでなく、
中共の人間大衆に対する無条件の信頼に根ざしていることを知ったのである。
( 「見てきた人民公社」 『世界』 岩波書店、1959年2月号)
寺尾五郎も、中国の何ものをも見てこなかった。
共産主義という観念論にその場その場の情景を当てはめて賛美するだけである。
別の対談では、
「その工場は、特別に圧力がかかる所以外、全部土ガメや瀬戸の大鉢をならべ、
土管でつないだものでした。
(中略)
小型の発電所も土四季です。
木製タービンです。
すつかり洋式の概念でこりかたまつている私たちの思想や感覚も、
ここまで土に徹した状態を見ると、はじめてことの偉大さがわかりはじめるというわけです」
(安藤彦太郎・寺尾五郎 「中国思想と人民公社」 『中央公論』 中央公論社、1959年3月号)
と、実に脳天気であるが、土管の発電所や竹製のタービンで生産がまともにできるはずがない。
結局中共は、この土法政策により約3000万人の餓死者を生み出すに至るのである。
以上、中野正剛(ファシスト)と寺尾五郎(コミュニスト)という、
二人のプロパガンディストに共通する点を見てきたが、
それは、「統制された人民の神格化」 であり、その大衆路線が資本主義を打ち負かすであろうという
根拠のない、途方もない 「革新的」 熱狂であった。
そして後に、ファシズムは瓦解してムッソリーニは広場に吊(つる)され、
中国人民公社はその未熟なる技術が何ものをも生み出さなかったことを実証して、
80年代に入ると次々に解体されていった。
けだし重複投資と非効率性だけは現在の郷鎮企業に継承された模様である。
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
に続く。
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(1768) 第6章(4)ファシズムとは何か
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