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(1759) 第5章 (1)日本の茶化し文化

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川上音二郎一座
オッペケペー節 (明治の流行歌) (1900年/明治34年-日本人最古の歌声)


これとか、「八木節」 「河内音頭」など、まさに、ジャパニーズ・ラップですね。




(6) 古田博司著 『新しい神の国』

目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )



第5章 神々の復権

1.日本の茶化し文化
2.2ちゃんねらーのティーゼイションと左翼の堕落
3.ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
4.自己をテイーゼイトする私小説
5.何を言っているのか分からない人たち
6.大本営的虚構の背景


NEC_0006.JPG
深窓に微笑む(戦前の絵葉書「近代朝鮮麗人」シリーズより)



1.日本の茶化し文化


先にも言ったが、筆者は 「全集つぶし」 ということをよくやる。

そのようにして以前、『丸山眞男集』 をつぶしてみたことがあるのだが、
あることに気づき、付箋を貼りっぱなしにしておいたものである。

今回それをたぐってみたところ面白い結果を得たので、以下、若干開陳したいと思う。


筆者の見立てでは、この大政治学者は 「田舎者と町人」つまり、日本的な庶民が大嫌いなようである。

刈部直(かるべ・ただし)によれば丸山は、

   「少年時代に住んだ四谷愛住町のあたりを、
   『地域は山の手ですけれども、ことば使いはむしろ下町的に近かった』、
   あるいは
   『庶民の住んでる地域で、いわゆる山の手階級の住宅地ではないんです』
   と回想し、引っ越してきたはじめの頃は
   『“田舎っぺい”といわれてとてもいじめられました』」

と、座談で語っているそうである。(苅部直 『丸山眞男』 岩波新書、2006年)。

とすれば、幼少期の体験の反動かもしれないが、たしか次のように言っている。


   「理念型としての 『田舎者』 を地盤とする日本の真面目主義(云々、中略)、
   真面目であることと、真面目 『主義』 とを見分けることは、
   この陰湿な国土では必ずしも容易ではない。

   それは、すべてをポーズの次元で評価し、
   たとえば深刻な芸術に受けとめることを、深刻ぶることとしていやがる、
   あの混同と実は同じ根から出ている」

   (「『飯塚浩二著作集』 第五巻解説」1976年。『丸山眞男集』 第十巻、岩波書店、1996年)。


つまり真面目はよいのだが、田舎者のくそまじめ主義と、後半の人々の 「深刻ぶらなさ」 を、
彼のいう「陰湿な国土」、つまり日本国の根として大いに退けているのである。


後半の人々については後に、さらに次のように詳細に語っている。


   むしろ、一般的に申しますと、日本では偽悪というのは、
   逆説的に、しばしば偽善の効果を持つことがあります。

   日本の風土では批判的な思考が弱いですから、自分の姿勢をいちばん低くしておいて、
   どうせおいらはインチキですよ、と最初に言っておくと、
   寝そべった姿勢は重心がいちばん低いですから、いちばん安定しているわけです。

   そういう安定した位置から、理念とか理想とかを求めようとする、
   背伸びした生き方を嘲笑するというのは、よく見られる風景であります。

   江戸の 「町人根性」 以来の、これが一つの処世術です。

   ( 「福沢諭吉の人と思想」 1995年、同第十五巻、1996年)


うむ。町人の 「茶化し」 がよほどお気に召さぬようである。

背伸びした生き方を嘲笑する態度とか言ってる。


丸山先生は、「理念的なものこそ実在的である」 というヘーゲル学徒でいらっしゃるので、

   「一つの事実によって他の事実を批判することはできないんです。

   事実は無限に異なり、細分化されます。理念によってこそ事実を批判できる」

   (「日本思想史における『古層』 の問題」1996年、『丸山眞男集』 第十一巻、岩波書店1996年)

などといい、事実を理念や理想の下位に置き、
理念や理想を茶化すことを心から厭(いと)わしく思われるのである。


たしかに歴史上、江戸の町人の「茶化し」にもずいぶん行き過ぎたものがあり、

儒者・貝原益軒が『女大学』を出すと、
開茎へき軒(かいまらへきけん)なるものが
『女大楽宝開』(おんなだいがくたからばこ)(宝暦年間)を著し、

十返舎一九が『道中膝栗毛』を出すと、
吾妻男一丁(あずまおとこいっちょう)というもの(実は一九の弟子の九返舎一八)が
『閨中膝磨毛』(文化九年)なるパロディー本を刊行したのであった。


また後世、丸山先生が敬愛する、荻生徂徠先生が
論語を解釈した『論語徴』(宝暦10年)なる書物を著されると、
たちまち洒落者が『論語町』(跋文は虚来山人)などを出し茶化した。


たとえばその一節に、論語の
「巧言令色好鮮矣仁」 (こうげんれいしょくすくなしじん)
に注釈して、
「女郎をあやなし、口ぼこにかけ、よいかげんに長さほにするのたぐい」
(遊女を騙して適当に振る)
とか、
「譬(たと)ヘバ北辰ノ其ノ所ニ居テ、衆星之(これ)ニ共(むか)フが如シ」
などという聖人の周りに徳を慕って人が集まる様を述べたありがたい儒学の一句も、
「大門口は北斗のことく、諸客は星のことし、是を俗によはひほしと云」
(吉原大門に客が星のごとくに集まるのを夜這い星という)
などと茶化す。


茶化しは日本の庶民の伝統であった。

しかし、これら道学先生たちを茶化せる実力はじつは相当のものではなかったのか。

漢学の素養が相当のものでなければ、パロディー本などかけぬ道理である。

彼らの実力をゆめゆめ軽んじてはならない。


こうなると、中には庶民の 「茶化し」 をまねる侍の粋人が現れたりするのが江戸である。

幕府の側用人家の柳沢淇園(きえん) など
「ひとりね」 (享保9、10年頃) という当時発禁本になった随筆を書き、
そこで前述の荻生徂徠先生を好意的に茶化していて、
「荻生惣右衛門が和語のうちには、通じにくき程かはりし言葉づかひあり。
是は田舎にそだちたる者ゆへに、かやう有也」
などと言っている。


荻生徂徠は当時柳沢家に五百国で召し抱えられており、柳沢淇園の友であった。

この 「ひとりね」 は岩波古典文学大系96 『近世随想集』 (1971年) の巻に入っていて、
以前、「なぜこんな江戸のエロ本が権威ある全集に入っているのか」と、岩波のある編集者に
尋ねたところ、「古いものは偉いからいいんですよ」 との回答であった。


とどのつまり、「茶化し」 は日本の伝統文化であり、
丸山眞男先生は敢然と一人、ドン・キホーテが風車小屋に突進したように
これと闘わんと決意なさったに相違ない。

そこで、「茶化し」 と繰り返し括弧に入れるのも面倒だし、
また入れないと文中に紛れてわかりにくいので、
以下 「茶化し」 を日本伝統文化の述語として専門化し、
Teazation、すなわちティーゼイションと呼ぶことにしたいと思う。


さて、丸山眞男のティーゼイション嫌いは困ったもので、
これがないがために庶民文化が育たず、
ガチガチの頑固頭の儒教インテリだかりを大量生産し、
近代化がうまく行かなくなった中国や朝鮮の方をほめてしまうことにもなる。

丸山眞男といえば、近代主義者ではなかったかと思うのだが、
以下、感情はおそらく別問題なのであろう。


   式亭三馬の 『浮世床』 の一節にある 「学者先生」 にたいするつぎのような嘲弄は
   必ずしも例外現象とはいえません。

   「唐(から)のことばっかり探して、足もとのことに疎いだの、悪い病にとっつかれた」
   「孔子の道はおいて、王子の道(王子には稲荷があって繁華街だった―丸山注)も
   ろくそっぽうにゃしるめえ」。

   ここには平民の感情として、
   アメリカにおける “ common man ” のプラグマティクな生活態度から出たところの
    「反知性主義」 とむしろ共通したものがある。

   実生活に疎くて空理空論ばかりいっているということです。(中略)

   いずれにしても古典の権威と知識人への尊敬とが不可分に結びついて来たという点で、
   フランスと比べられる国がもし東アジアにあるとすれば、
   それは日本ではなくて中国や朝鮮だろうと思います。

   (「近代日本の知識人」 1977年、同十巻、1996年)


丸山眞男は、日本の庶民の「反知性主義」が気に入らない。

真面目さを深刻ぶっているとあざ笑い、古典の権威を茶化し、知識人への尊敬をつゆほどももたず、

孔子様を 「魯国のおじい」 (『心学早染艸』 (しんがくはやそめくさ) とティーゼイトする山東京伝や、

東アジアの中世を席巻した 『二十四孝』 の有りがたい道徳本を、
『本朝二十不孝』 という親不孝者の話に書き換えた井原西鶴、

「行粋(いくすい の流れは同じ人にして、しかももとの野夫(やぼ)にはあらず」
などと跋文でうそぶく、シナ思想のパロディ本
『世説新語茶』(せいせつしんござ)(安政5、6年頃)の著者、大田南畝(おおたなんぼ)、

「腐儒者(くされじゅしゃ)韮(にら)の羹(あつもの)くらひけり」 (『蕪村句集』、安永6年の作)
と、儒者を茶化す与謝野蕪村

なんぞは、まぁ、みんな許せない輩なのであろう。


しかし、日本にはこのような庶民の強いティーゼイション文化があったがゆえに、
朝鮮で猖獗(しょうけつ)を極めた朱子学もあらかじめ矯められ、

「他方、山鹿素行が大胆に朱子学に挑戦した書物 『聖教要録』 の刊行は 1666年であり、
伊藤仁斎が独創的な 『論語古義』 『孟子古義』 の草稿を完成したのは 1663年ごろである。

つまり、
社会的イデオロギーとしての朱子学の普及と、
「古学派」 の朱子学への挑戦とは、
“ほとんど同時的に” 進行した、とみなければならない」

(『日本政治思想史研究』 英語版への著者序文」 1983年、同第十二巻、1996年、“傍点”原文)

のであり、外来の理論に対する反骨と挑戦の態度がはじめから胚胎されていたに違いないのである。


伊藤仁斎などは、朱子の理とは何かと弟子に問われても、
「お天とうさまのようなものじゃ」 といってしまう強かさがあった。


丸山眞男の庶民ぎらいは、社会主義好きと同じ根から出ており、感情の問題であると思われる。

しかし結果的に日本の庶民こそが、
頑固なインテリたちの頭をやわらく導き、
日本に豊かな庶民文化を育て、
東アジアとは異なる独自の実践に鍛えられた、
侍たちのフレシキブルな文化を用意したのであった。




2.2ちゃんねらーのティーゼイションと左翼の堕落
3.ティーゼイションが社会的対象を喪った近代

に続く。





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