METALLICA
Wherever I May Roam (Live-Horsens DENMARK June 6, 2012)
(6) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
第3章 贖罪大国日本の崩壊
1.戦後日本の「愛国しない心」
2.韓国での俳外体験
3.愛国心とナショナリズム
4.贖罪の宣伝戦
5.「倫理の高み」にのぼった中共
6.軍民二分論の破綻
7.韓国人の中国人評
8.朝鮮への贖罪工作
9.良心的知識人たちの「善意」
10.贖罪大国の崩壊
5.「倫理の高み」にのぼった中共
翌1959年から、60年安保反対運動が始まると、親中共派のイデオローグたちがいよいよ活発な活動を開始した。
1959年の『世界』の4月号では、加藤周一が「中立と安保条約と中国承認」という論稿で中国の「倫理」を誉め讃えた。(←アバタもエクボってやつですねw)
私はアジア・アフリカ作家会議準備委員会で、中国の作家と同じ屋根の下に暮らしていたとき、もし
私が中国を訪ねたら、中国の町や村の人々は私に対してどういう態度をとるだろうか、ときいたこと
がある。(中略)
町にも、村にも、日本人に親や兄弟を殺された人々は少なくないはずだが、その人々はわれわれに
石を投じないのだろうか。
投じたとしても、抗議する資格がわれわれにないという考えが私にあった。
しかし中国の作家は、そんなことは決してしないだろう、と繰り返し、中国の大衆は日本帝国主義と
日本の人民とを区別することを知っているといったのである。(中略)
しかしその倫理的きびしさにおいて、これほどの礼は知らない。
アグネス・スメドレーが中国革命軍の倫理的高さについて語ったときに、彼女はまちがってはいなか
ったのである。(中略)
中国の承認は、政治問題であり、損得利害の問題であるよりまえに、われわれにとっては倫理の問
題であり、国民としての品位の問題である。
典型的な「軍民二分論」(「日本帝国主義」者と日本の人民とを区別する)であるが、これについては後述しよう。
それよりも驚かされることは、加藤周一が、ゾルゲ事件の関与者で中共軍に従軍し、戦後はソ連スパイの容疑者であったアグネス・スメドレーに権威を仮託し、自分の見方ばかりで正義感に投入して、中国の現状を全く見ようとしないことである。
したがって、現実的になりようがない。
「倫理的高み」にあるはずの中国革命軍は、1950年からチベットを侵略し、この年、1959年3月には
チベット動乱は頂点に達し、軍は民衆に砲撃を加えて、約3000人の死者を出していた。
加藤周一の論稿と同じ頃の出来事である。
その後、1950年から今日までに、総人口600万人のチベットで120万人が虐殺されたとチベットの人々は訴えるが、中共はこれを認めず、チベット侵略を「平和解放」と呼んでいるのである。
さらに同年の『世界』6月号では、ソロモン・アンドラーなるルーズベルト時代の米財務省官僚が、「中国経済の躍進と人民公社」という論稿を載せ、
「1958年の豊作の歴史的な意義はきわめて大きい。
中国の近代化の出発いらい、空腹をなくすことが民衆の圧倒的多数のための第一の急務であった。
いまや食糧問題は、その物質的側面において完全に解決されたのであり、『飢えたる民衆』は過去の墓場へほうむられたのである」
と述べている。
しかし本当はこの大躍進政策により、中国では約3000万人の餓死者を出している真っ最中であった。
このアドラーもスメドレーと同じく、ソ連と中共の工作員であったことが疑われている。
この後中国では、この大躍進政策の失敗とつづく大飢饉、1966年から1977年に及ぶ文化大革命による体制内大殺戮、1989年の天安門事件と失敗につぐ失敗であったにもかかわらず、なおも人口13億のうち、わずか5~6%を占める共産党員による独裁政治が今日も続いている。
そして「社会主義による近代化」という路線を選択した結果、20世紀の国民国家形成に失敗したことを肯(がえ)んずることなく、自らの失敗を覆い隠そうとしているのである。
彼らが自らの近代化の失敗を隠蔽すればするほど、その前近代的体質(独裁・反自由・非人権)に執着するものであり、ポストモダンの日本を前近代に引きずり込もうと試みるのは理の当然といわねばなるまい。
しかし日本の左翼知識人たちはなおもその現実に目を覆い、中共を「倫理の高み」に乗せたまま、21世紀を乗り切ろうとしている。
つぎに開設する「軍民二分論」は、そのような彼らの最後の砦の一つであろう。
6.軍民二分論の破綻
1955年2月号の『中央公論』に、福田恆存(ふくだつねあり)の「ふたたび平和論者に送る」という一文がある。
当時、トルコからの帰国の途で隣り合わせたオランダ人から、日本の軍隊と民衆は区別すべきだと聞かされたという。
「その男はじつにくだかった。何度もおなじことをくりかへしたあげく、『日本は現在自由主義国家群に属してゐるから味方だ』といふ意味のことを、これまたくどく喋(しゃべ)る」。
この頃のインテリは、ソ連や中国で同じように言われると、恥じてうなだれたり、ほっとしたりしたものらしい。
しかし福田氏は偽善者にはなれず、
「礼儀を知ってゐるひとなら、あのオランダ人のやうに恩やヒューマニズムの押し売りはしなかつたはず
です」
と言い、
「いまになつて、日本の軍隊は悪いが、おまへは許してやるといはれれば、やつぱり不愉快です。
私たちが戦争をとめられなかつたことからくる責任感ではありません。
あれほど嫌つてゐたけれども、あの日本の軍隊はやはり自分のものだつたといふ気もちがあるからです」
と結んでいる。
ここには軍民二分論よりもはるかに高い、自己責任の倫理的自覚がある。
次の軍民二分論は、1972年の日中平和友好条約の際、9月25日、人民大会堂での夕食会における周恩来首相のあいさつ冒頭に出てくる。
「中国人民は毛沢東主席の教えに従って、ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民とを厳格に区別
して来ました」とあるものである。
別に条文でもなんでもない。
マオタイ酒で上機嫌の田中角栄と大平正芳に、周恩来が恩着せがましくそう言っただけである。
その後、1991年にソ連が崩壊し、東アジアでも二つの社会主義国が転向した。
中国は翌1992年、鄧小平が
「先に豊かになれるものが豊かになれ」
という「先富論」を公表した。
同年、北朝鮮は憲法改正を行い、憲法から「マルクス・レーニン主義」の語句を削除、さらに翌1993年には計画経済を放棄した。
そして社会主義での近代化に失敗した両国では、翳りの見え始める1980年代からずっと、前者は反日デモ、後者はミサイルによる日本威嚇で失敗を糊塗してきたのである。
2005年の4月9日には、日本の国連安保理の常任理事国入りへの反対や歴史教科書非難、尖閣諸島の領有権問題などにより、北京市で発生した反日デモは1万人の暴徒にふくれあがり、日本大使館や大使公邸、日系企業や日本料理店を襲撃した。
同日、上海では数万人のデモが起き、翌10日には広州・深圳・蘇州へも暴動が拡大していった。(←この頃は世情に関心がなくて知りませんでしたが、昨年2012年の反日デモも、これと全く同じ展開でしたね!!)
その渦中、『朝日新聞』4月18日付に、法政大学教授の王敏氏の一文が載る。
題は、「思いやりが『反日』弱める」であった。
「抗日戦争は『一部の日本の軍国主義者が起こしたもの』という政府の説得に多くの中国人は従い、先進日本に学ぼうと純粋に盛り上がった」。
しかし、
「日本政府首脳の靖国神社参拝、教科書事件、閣僚の湿原などが相次いだのはそうしたさなかであった」
と王氏が日本を批判するや、同新聞は5月25日付の朝刊で日中会談キャンセル事件をめぐり、
「A級戦犯ら軍国主義者と一般の日本国民」
の区別を語り、一般国民は被害者だとして、中国政府は、
「反日感情の強い国民を説得したとされる」
と、あたかも中国が日本を思いやったかのように述べたのであった。
しかし中国国民の反日感情を強くしたのは中国共産党であり、反日デモは中国共産党が指導しなければ起きない。
それを証明したのが、2006年8月15日の小泉首相靖国神社参拝時での「織り込み済み」であり、中共が敢えて反日デモを煽動しない方針をたてれば、日本大使館や大使公邸、日系企業や日本料理店、日本人への襲撃や焼き打ちは起きないということが明らかになった。
ところが日本国内でも、軍民二分論を支持し、結果として中国の免罪を歓迎した人々がいたのである。
代表的なのを二つ挙げよう。
一般人民には罪はなかったとすることが、賠償放棄、友好交流の前提であり、だからこそ「一部の
軍国主義者」に参拝するという日本政府要人の行為はこの前提を破壊するものだと映るのである。
(川島真・北海道大学大学院助教授「“歴史的”に見る日中歴史問題」『中央公論』2005年7月号)
中国共産党は、(中略)日本批判を続ける一方で、日本側の責任は一部の軍国主義者、つまりA級
戦犯たちにあり、国民にはないとして、日本との外交を進めてきました。日本の首相による靖国参拝
は、その枠組みを根底から覆してしまった。(田中均・〈財〉日本国際交流センター・シニア・フェロー
「対談・ナショナリズムの衝突を回避できるか」『中央公論』2006年3月号)
けだし中国共産党が反日デモを主導し、日本企業や日本人を襲わせた時点で、恩を売って日本国民を取り込もうとする軍民二分論は、すでに破綻していたのである。
7.韓国人の中国人評
8.朝鮮への贖罪工作
に続く。
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(1751) 第3章 (5)「倫理の高み」にのぼった中共 (5)軍民二分論の破綻
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