GEPE
Yarlalong (2012)
(6) 古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
第3章 贖罪大国日本の崩壊
1.戦後日本の「愛国しない心」
2.韓国での排外体験
3.愛国心とナショナリズム
4.贖罪の宣伝戦
5.「倫理の高み」にのぼった中共
6.軍民二分論の破綻
7.韓国人の中国人評
8.朝鮮への贖罪工作
9.良心的知識人たちの「善意」
10.贖罪大国の崩壊
「共産党の反宇宙的力量」(『九評共産党』大紀元系列社論 2004年 台北)
1.戦後日本の「愛国しない心」
さて前章を受けての続編だが、日本の戦後60年間でインテリの圧倒的多数が一体何をやってきたかといえば、じつは厖大な数の反日日本人を育て、事実を曲げて東アジアナショナリズムを支持し、結果と
して「愛国しない」心をもつ、ハイカラ好みの日本侮蔑者を大量増殖させてきたということに尽きるだろう。
まとめると、日本のインテリ間に顕著な「愛国しない心」には、三つの歴史的な層が認められる。
まず第一は、明治以来の西洋コンプレックスによる、劣った日本を誇るのは恥ずかしいという層である。
舶来のものが格好よく、次々にそれに飛びついて演繹的な思考(外来の原理やモデルを基に、事象を
当てはめていく考え方)をするのがインテリの本分と心得ている節がある。
第二に、スターリン元帥の32年テーゼという日本共産主義者への下賜物のせいで、天皇を戴く君主制を後進性の象徴と見て、日本は絶対的に遅れているのだと考え、社会主義の近代化こそが進んでいると
思いこんだ、かつてのソ連の思想教化の層がある。
ありていに言えば、愛国するならソ連とか、社会主義国にしなさいという層である。
その近代化が間違ったものであったことが今日では世界の視野に曝されているにもかかわらず、未だ
慣性がかかっていて、なかなか止まらない。
第三は、マルクスの残留思念としてのカルスタ・ポスコロの層で、国家なんか権力者の造りだした幻想であり、愛国心など権力者に都合よく利用されるだけだという層。
これは主に大学時代に、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(公定ナショナリズム・出版資本
主義・官吏の巡礼の三本柱!)で洗脳された、若い世代が中心になって現出する。
そしてこの上に、社会主義崩壊の後だけに日本侮蔑の論理は半ば解体されていて、
「私は自由な市民だから国家なんか嫌いだ」という地球市民派とか、
「アメリカの寄生国家なんか愛せない」という反パラサイト派とか、
「私という個人に圧力を加えるから愛国心なんか厭だ」という似非個人主義とか、
さまざまな雑念がアナーキーな広がりを見せているのが実情である。
さて、このような日本嫌いの人々に、筆者がなぜ日本が好きなのかを鹿爪(しかつめ)らしく説明するのも甚だ大儀だし、第一彼らはこの本の題を見た段階で買わないだろうから、土俵のない野ッぱらでひとりで相撲を取っているような気分で、以下自分の「愛国心」のことをエッセイ風に話すことにしたい。
2.韓国での排外体験
筆者が愛国心というものに目覚めたのは、1980年からの6年間、韓国で青春期の後半を過ごしたときのことであった。
全斗煥大統領の第五共和国という時代で、韓国は資本主義経済で大いに発展を遂げるとともに、国民の統合を高めるためにかなり意図的なナショナリズムが喧伝されていた。
韓国もにではなく、北朝鮮も中国もそうなのだが、いわゆる「中華文明圏」という地域では、社会構造が
宗族(そうぞく=男子単系血族)の細胞の寄せ集めからなっており、一族エゴイズムがあまりにひどく、
国民統合が難しいという特徴がある。
中国の孫文はかつてそのような社会を砂のようだといい、「散砂社会」と呼んでいた。
宗族の一粒一粒が砂のようで、なかなか国族になれないというのである。
この地域の人々とつきあうとやがて分かるのだが、彼らは究極的には一族の繁栄しか考えておらず、いくつかの族で権益を独占して、這い上がってくる者をみな蹴飛ばすのである。
このような伝統社会では、独裁が政治形態としてはよりふさわしく、ほうっておけば時代は金現代でも
出て来るものは金父子“朝鮮王朝”とか、中国の共産党独裁政権になってしまう。
つまりばらばら度がひどいので、凝固剤もそれなりに強力でなければならず、だいたい選ばれるものは
決まって「反日」になる。
そして、それぞれの宗族のもつ排外心が束になり、「反日」に撚(よ)り集まって出てるのである。
このようなナショナリズムの中で生きていると、本当に毎日が不愉快であり、この不快さは学歴の高い者に対するときほどひどくなる。
なぜならば反日は、彼らの学校教育の成果であるから、教えられる期間が長いほど敵愾心(てきがい
しん)が苛烈になるという道理である。
私は韓国国費奨学生だったので大学院へ行くと、日本より数倍レベルの低い授業をしている。
こちらの方が先進なのだから当り前の話であり、まったく勉強にはならなかった。
それどころか日本人というだけで頭から悪者あつかいにする教授や学生がいて、喧嘩を吹きかけてくる。
うっとうしいこと限りないのである。
関川夏央が、「韓国の愛国心は『よそ者嫌い』といいかえた方がよいのではないか」(「特集 私と愛国心」『論座』朝日新聞社、2006年7月号)と、実に端的に指摘しているが、そもそもこの国には韓国の
ために尽くした外国人を抹殺するという悪い性癖がる。
朝鮮語の辞書を初めて作ってくれた英国人ゲールなどは、教科書に一行の解説もないし、中世朝鮮語を解読してくれた前間恭作の『龍飛故語箋(りゅうひこごせん)』など記憶の底の方に埋め伏され、数倍
劣った韓国人学者の解説本が解読書として流布されている始末である。
筆者は韓国人のこのような偏頗(へんぱ)な態度を見るにつけ、「嗚呼、日本人で良かったな」と素直に
思ったものである。
だが、そんな心はすぐに見透かされる。
ある時、ある韓国人から「日本と韓国とどちらが好きなんですか」と結せられ、日本と正直に応えたところ、「ではなぜ韓国に住んでいるのですか」と畳みかけられた。
以来、私は絶対日本に帰ろうと思ったのである。
そして帰国を果たした後に、滞韓中に生まれた息子が大きくなり、「ねえ、父さん。日本人で反日の人
って、なんで日本がいやなのに日本に住んでいるの?」と聞かれ、「いやまったくそうだね」と強く相槌を打ったのだった。
これが私の愛国心の源である。
<3.愛国心とナショナリズム><4.贖罪の宣伝戦>に続く。
〔参考〕
(1649) この対比がおもしろい(^^;
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2012-10-11 )
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(1749) 第3章 (1)戦後日本の「愛国しない心」 (2)韓国での俳外体験
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