GEPE
Bod Gyallo (2012)
古田博司著 『新しい神の国』
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )
第2章 マルクスどもが夢のあと
1.歴史的必然を信じた人々
2.偽の近代精神の自滅
3.ポスト近代におけるマルクスの残留思念
4.もっと現実的になるべきではないか
5.演繹より帰納重視の教授法
6.教養は教えられるか
3.ポストマルクスの残留思念
偽の近代精神に翳りがさし始めたのは、1980年代に現実の日本が近代を終えて、ポスト近代へと入り始めた頃のことだった。
ポスト近代は近代と異なり、資本主義市場経済が失速しようと自由民主主義は後退しない、逆に後者が低迷しても前者は歩みを止めない。
田中明彦はそれをこう記述している。
「自由主義的民主性も定着し、その内部での政治改革はさまざま考えられるものの、この政治体制を転覆しようなどという試みは、時に起こるテロ活動を除いて、ほとんどありえない。
また市場経済の制度も確立し、景気の好不況はあるにしても、人々の生活水準が著しく上下動をすることもない」(『新しい中世 -相互依存深まる世界システム』 日経ビジネス人文庫、2003年)。
そのような時代に日本が入ってしまった。
地域はコンビニと幹線道路で風穴を開けられて住民運動が終息をむかえ、都市ではパソコンの登場など大衆情報化社会を可能にする革新が次々と生まれ、日本を暗く見る思索はどこか空高くへと飛び散ってしまった。
進歩主義者たちを晴れがましくも包んでいた理想の光は、現実の光のなかにやがて溶け込んでいった。
そして思いがけなかったことに、1991年、ソビエト連邦が突如崩壊した。
これにより、近代化の道が資本主義以外には考えられないこと、それにふさわしいイデオロギーが自由民主主義だけであることが明らかになった。
近代化に向けて世界中が進歩しているという一本の時間軸も、シャープペンシルの芯のようにバラバラに折れてしまう。
社会主義を歩んでいた国々は、賄賂とコネとネポティズムと暴力の支配する、ただの独裁国であることが露(あら)わになった。
北朝鮮やソ連崩壊後のCIS(独立国家共同体)諸国がこれである。
あるいは、一党独裁国のまま資本主義経済の道を歩み始める国もあった。
中国がそれである。
ここでは沿岸部の都市に、党の肩書をもつ金持ちが集まって近代生活を始めた。
他方、内陸部では山に密洞(ヤオトン)という穴ぐらを掘って住んでいる人々が、かの国の悠久の古代
生活をあいかわらず満喫している。
それでも日本の進歩主義者たちはくじけなかった。
世界は均質なロジックによって動いていると思いたかった。
そうだ、西洋の文化人類学者直伝の文化相対主義的な立場がまだ残っている。
ある文化は別の文化と同等の価値と力を有し、ある社会が進んでいるととか、ある国が遅れているというのは、部分的なスピードの遅速にすぎない。
世界は平等で同じ時間軸のなかにいると彼らは信じたかった。
ある人は次のように言った。
「韓国社会は今、すごいスピードで変化している。社会は日本よりもリベラルになっている」。
別の人はこうもいう。
「日本と異なり中国は圧倒的に外資主義だ。その中で日本は遅れている」と、あいかわらず海外を持ち上げた。
しかし、西洋の文化相対主義的な考えというのは、せいぜい別の社会の人々が家でおとなくしくしている限り、その生活様式を尊重すべきだという程度にすぎないのであり、韓国人や中国人が宗族主義や中華思想など、近代化を阻害する伝統の因子をより多く保有していることは、やはり専門家からすれば否定
すべくもない現実であった。
そうこうしているうちに、2000年に入ってからはマルクス主義に対する信仰が着実に壊れていった。
大学の講義科目からはマルクス経済に関するものが次第に姿を消し、日本のインテリ層が徐々に呪縛から解き放たれていった。
しかし何という壮大なる洗脳機構だったのだろうか。
価値・史観・階級の輪を柱とし、それらが複雑に絡み合うさまは天上の大神殿を思わせた。
今日ではすべて塵と化した大社会科学者たちの業績は、ひたすらその祭司たらんとする献身の理想に
満ちあふれていた。
だが、その神殿の柱は今やぶざまにも折れ、廃墟の荒涼を白日の下に曝してしるではないか。
なぜこのような無駄をし、屑のごとき書物を図書館に積み上げていったのだろうか。
日本のインテリは一体何をやっていたのだろうか。
結局、慨嘆が残っただけではなかったのか。
ところが、最近では嘆息する間もなく、カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズムなどというマルクスの残留思念が日本に入り込み、左翼インテリの第三・第四世代を中心に大学にはびこってしまった。
それによれば世の中は、権力が国家を想像させ、伝統を捏造(ねつぞう)し、身体を弄(もれあそ)び、
階級的暴力装置の本性を幻想が覆っているだけだというのである。
これは要するに、マルクスでは食えなくなった大学知識人の講座維持の便法であり、西洋からモデルを借り続けたまま、生涯をかけてやってしまった勉強の、最後の収益を獲得しようとする、姑息な権威護持手段ではないのか。
彼らもそのようなことにうすうす気がついているらしく、カルスタもポスコロもやっている本人たちは、恐ろ
しくペシミスティックな心性を共有しているのが常である。
なぜならばこの論を推し進めるほどに、国家も、社会も、法も、政治も、芸術も、学問もすべては幻想と
なり、アナーキーに陥ることは火を見るよりも明らかだからであろう。
中核派の「血債の思想」や、東アジア反日武装戦線の「反日亡国思想」は、アメリカ西海岸からやってきた批評理論によって一応マイルドなものに変えられたが、植民地の遺産を何から何まで悪いものと断じ、「帝国イデオロギー」とか「文化ナショナリズム」とかを大学院で教えている人々の中には、すでに驚くべき人材が輩出されている。
たとば、日本のことを「解放の言説を侮辱し、資産家セレブを尊敬すべきと信じている人間が国民の半数を占める劣等民族の国」(大橋洋一「ポストセオリー時代の批評と理論」同編『現代批評理論のすべて』新書館、2006年)などとオフィシャルに書いたりしているのである。
要は日本の同胞を侮蔑し、自分がえらいと言いたいだけなのかも知れない。
<4.もっと現実的になるべきではないか>に続く。
↧
(1746) 第2章 (3)ポストマルクスの残留思念
↧