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(1744) 第2章 (1)歴史的必然を信じた人々

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GEPE
Tsewe Yumchen (2012)



古田博司著新しい神の国
目次
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28 )


第2章 マルクスどもが夢のあと

1.歴史的必然を信じた人々
2.偽の近代精神の自滅
3.ポスト近代におけるマルクスの残留思念
4.もっと現実的になるべきではないか
5.演繹より帰納重視の教授法
6.教養は教えられるか



1.歴史的必然を信じた人々


1991年以前、日本のインテリの間では世界に二つの近代化の道があると信じられていた。

アメリカのような資本主義による道と、ソ連のような社会主義の道である。

そして社会がある発展段階を経つつ進歩し、どの国でも必ず近代化できるし、せざるを得ないのだという進歩主義が世を覆っていた。


「進歩」が神さまのように見えた時代は皆が幸せだった。

近代日本は先進国が歩んで成功した、いわば実験済みの目的地に向かっているだけだったから失敗の危険はないし、しかも大きな収穫が目の前にぶらさがっている。

そういう世界では、博愛や平和や自由があたりまえの理想のように唱えられ、その伝道者を任ずる進歩主義者たちは例外なく正義派であった。



ただ不思議なことに、彼らにとって社会主義は資本主義に優るものだと観念されていた。

これはおそらく理性の問題ではなかったのが。

なぜならば、かの丸山眞男ですら、その講義録で日本を半封建的と規定するマルクス主義講座派を受け継ぎ、ブルジョア革命からプロレタリア革命への“歴史的必然”を公然と説いていた(米原謙「丸山眞男と社会主義」『思想』第988号、2006年8月)。


また、ソ連崩壊後の1992年には、

「社会主義といわれると、広い意味では賛成でしたね。それは今でもそうです。

だから、このごろ腹が立ってしょうがない、社会主義崩壊とかいわれると。(中略)

『どこが資本主義万万歳なのか』ってね(笑い)。(中略)

第一にソ連的共産主義だけが社会主義じゃないということ」

といい、資本主義に対する対抗概念としての社会主義が大好きだったことを暴露している(「同人結成のころのこぼれ話」1992年、『丸山眞男集』第十五巻、岩波書店、1996年)。


毛沢東を賛美し、社会主義の近代化を資本主義によるそれよりも優れたものであると主張した高内好は、1969年、武田泰淳夫妻とのソビエト旅行を終え、ストックホルムへ向かうスカンジナビア航空機内で、

「行ってみてこい。紙がちゃんとあるぞ。やわらかい紙だ。

紫の水が出るぞ。色気のある便所だねぇ。

物が豊富というのは・・・ロシアにゃわるいけどあ、言っちゃわるいけどやっぱりいいなあ」(武田百合子『犬が星見た』中央文庫、1982年)

と漏らし、ストックホルムに着くと、ドルをもちポルノ雑誌を買いに勇躍街に飛び出したのであった。


たしかに戦後の保守勢力との対抗軸として社会主義が選び取られたという側面もあるだろう。

貧しかった日本では、体制批判は常に若者をひきつける課題であり、勉学に励むものの多くがマルクス経済学に包摂されていった過程もよくわかる。

だが、そのじつ社会主義の理想が日本のインテリたちを魅了したのは、それが資本主義の後進国としての己の劣等感を打ち消してくれたからではなかったのか。


資本主義の道を歩む限り、先を行くものが物質的にも、精神的にもより成熟した社会を作り出しているのは当然のことであり、後に続くものはどうしたって追随的であり未熟であり、幼稚になる。

先を行くものの社会は資本主義的により洗練されていて、そこに行けば劣等感がそそけ立つもので
ある。


また、資本主義の成熟度は精神の発達段階(民度)にも即応していた。

たとえば、フランスでは1930年代にサルトルが出て、人間は意味なくこの世に生まれてくるのだから、人生には意味がないというようなことを言い、みなをがっかりさせたものだが、日本人がこの失望の段階に至ったのは1990年代のことだったと思う。

そのころにはサルトルはもう終わっていて、日本には「終わりなき日常を生きろ」と言う、宮台真司しか
残されていなかった。


オーストリアではムージルという文学者が、
小説『特性のない男』(『ムージル』第一巻、加藤二郎訳、松籟者、1992年)
の中で、ヴァルターとウルリヒという登場人物に、つぎのような会話をさせている。

1930年の作品である。


「ではきみは」とヴァルターが鋭く言い返した。

「われわれに人生の一切の意味をあきらめろとでもいうのかい!」

ウルリヒは、いったい何のために意味なんか必要とするのかと、ヴァルターに尋ねた。

そんなものがなくても、なんとかやっているではないか。(中略)

ウルリヒは頑なに説明を続けた。

「人生で必要なのは、自分の仕事が隣人よりもうまくいっているという確信だけさ」



われわれ日本人がこの精神段階に達するのは、2000年に入ってからかも知れない。

しかし、社会主義を信じていれば、民度の後進性は資本主義体制内の後進性であり、社会主義とは
何らの関係もないと、ひとまず言える。

おまけにそうした「真理」を知っている自分は、遅れた日本の庶民などよりずっと進んでいるのである。


そこで、アヴァンギャルド芸術の花田清輝などは、
「ちゃんと“歴史的必然”のなんたるかを心得ている進歩的文化人」
  (「ドン・キホーテの秘密」『花田清輝著作集』Ⅱ、未来社、1963年。傍点筆者。←私は“”)
と揶揄しているのだが、それはまさに感情の問題であった。

かくして進歩的文化人たちの仕事は、理想的と思われる海外の都合のよい事象を選んで来ては日本の現実に貼り付けて批判し、日本の後進性をより露わにすることに費やされた。

このように日本では「社会主義や共産主義にシンパシーを持つ自由主義者」という、アメリカなどでは
単体で発生するリベラリストが浮塵子(うんか)のように大量発生し、インテリの分厚い層をなしてしま
った。




2.偽の近代精神のの自滅>に続く






まったく、頭が良すぎる人だとか、カネとヒマを持て余してる“進歩的文化人”だとかってのは、ロクなことを考えてないですねw

人生の意味\(◎o◎)/!

私は何のために産まれて来たんだろう・・・なんてことを考えてる人たちも、ヒマなんでしょうねw

そういえば、昔の赤ん坊は両手をしっかり握って産まれてきたそうで、「自分の運命をしっかり握って産まれてくる」と言われました。

が、近・現代は進化して(?!)両手を広げて産まれてくる赤ん坊が大半ですw

素っ裸で、運命さえも持たずに産まれてきたんですから、意味もへったくれもありません。

自分というもの、そして自分の人生に、意味を持たせたかったら、自分で計画表でも作るんですね。それに向かって努力して、初めて「意味」が顕われる。

計画性はゼロで、努力という文字も辞書にない私は、意味なく生きてますけど(^^;



 


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