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Phonya Marpo (2012)
日本は東アジアの一員じゃない
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池上彰著『そうだったのか!中国』 ―中国がチベットを侵略した―
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それでも地球は回る(1)旧正月
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古田博司著
新しい神の国
2007.10.10発行
あとがき
こと東アジアに関して、アジアを知るものと、アジア主義者であることとは、おそらく別の次元のあり方で
ある。
アジアとの連帯を叫ぶものが、アジアを知るものであるとは限らない。
過去往々にして、連帯を志向するアジア主義者の多くが、戦前は国家主義者やファシストであったり、
戦後はコミュニストや社会主義者などのプロパガンディストであったことが、それを雄弁に物語っている。
彼らの連帯の御旗は、前者では英米からのアジア解放であり、後者では日米安保体制反対であったが、その共通点に立脚すれば、共にアングロ・サクソン中心の資本主義に対抗するために東アジア連帯を
利用する、第一次と第二次の担い手だったということができるであろう。
彼らは揃って統制経済による人民団結の神話を信奉し、反資本主義が善であることを信じて疑わなか
った。
だが彼らの運動はどのような評価をもたらしただろうか。
今日では誰もが知るように、資本主義社会の向こう側にあったものは、神聖国家のユートピアでもなければ、歴史的必然の体制でもなかった。
結局彼らはアジアを知るものではなかったため、その末路は、前者では前近代に殴り込みをかけた侵略者であり、後者では独裁体制に奉仕する売国奴でしかなかった。
そして両者ともに、大戦時と冷戦時に祖国を危殆(きたい)に瀕せしめる立役者となったのである。
しかしアジアを知るものは、皮肉なことに、いつも彼らの活動の中から産みおとされた。
前者では植民地や占領地に入ったものたちの中から調査者や実務家が生まれ、後者では侵略に対する贖罪の動機が研究者や教育者の育成をうながしていった。
そしてどちらも、日本から東アジア諸国への近代化の輸出において、結果として大いに役立ったということになるだろう。
日本は東アジア諸国に対し、いつもこのような付き合い方しかできなかった。
はじめに嘘が先行し、そのあとで嘘によって結果が生みだされた。
アジアは一つ、儒教は同じ、水戸学同根、アジア的生産様式、インターナショナル、華流・韓流、惻隠(そくいん)の情。
東アジアの実像は、そのたびごとの偽の連続性によって被覆され、剥がされてはまた被われた。
実像は眩暈(めまい)がするほどの深い幽谷にある。
なのに、多くのものがその事実に無自覚であることをしいられ、鳥のように簡単に幽谷(ゆうこく)から喬木(きょうぼく)に遷(うつ)れると思いこんだ。
幽谷にくだり、消えていったものは少なくなかったが、まれに帰って来るものがいる。
帰って来た鳥はなかなか本当のことを言わない。
あとに続くもののいなくなることを恐れて、崖上の鳥たちに谷はそんなに深くはないとまた嘘をついた。
ときどき自分の行っている教育が諸刃の剣のようだと思うことがある。
私の大学の研究室を訪れる有為なる学生は、オタクをのぞけば、遅れてきた左翼学生ばかりであり、
親の教養や教師のイデオロギーで人生の半分くらいを生きられてしまっているものが多い。
「植民地時代の日本人の研究には見るべきものがない」などと言い放つ学生を、図書館の朝鮮植民地
時代の研究所が集まっているところに手を引いて連れて行くことすらあった。
そこで厖大(ぼうだい)な研究成果を見せ、その嘘を千々に裂くためである。
裂かれた方は素直に非を認めるのだが、往々贖罪という彼らの善なる動機をも同時に打ち砕いてしまうことがあった。
そこで研究者の卵を一人減らすよりは、嘘を放置した方がよいのえはないかという、ひそかな葛藤が生まれる。
しかしそのように育てた学生は、研究者より運動家になるかもしれない。
贖罪という目的のために事実を犠牲にする運動家は、さらに嘘を広め、多くの学生を育てていく。
そしてそのような学生が、また私の研究室の門を叩くことだろう。
右の方でも歴史的な遺産として、今日でもときどきアジア主義者を見かけることがある。
傾向として、資本主義嫌いや、アメリカ嫌いを東アジアとの架空の連帯感で解消しようとする人々が
多い。
彼らは、中国からやって来た律令制度や儒教を日本は独自に咀嚼(そしゃく)して文化を創ったとか言い、始めから中国に位負けしていたり、そうかと思うと今ではこちらが上で色々教えてやっていると胸を張る。
岡倉天心『東洋の理想』や、大川周明『日本二千六百年史』の言説の直系の子孫たちと言えるかもしれない。
位負けと優越感(その裏返しとしての同情)が交互に出てくるが、東アジアのことを学ぼうという動機は、贖罪の左翼よりずっと低い。
というわけで研究者にはほとんどいないが、企業人やマスコミ人のなかに結構いたりするので驚かされる。
全体の人口としてはこちたの方が多いかもしれない。
なかいは東アジア連帯感で中国人や韓国人に安易に近づいた結果、かえって煮え湯を飲まされ、己の
軽率を羞じている人もいるようである。
このような人々も、かつて筆者の話をなかなか聞いてくれなかった。
日本と東アジアは一つの文明圏だと固く信じているので、意思疎通が簡単でないということがどうしても納得いかないのだ。
彼らがどうも変だと思い始めたのは、中韓の靖国神社参拝問題と、北朝鮮の拉致問題が顕在化してからのことになるだろうか。
話してもそう簡単に分かる相手ではなさそうだと、ひそかに訝(いぶか)りはじめた。
筆者にいわせれば、右のアジア主義者も左のアジア主義者もどちらもやりにくい。
両者とも東アジアの実像から限りなく逸れているからである。
実像をしっかと見れば、日本と東アジはまったく別の文明圏と言うしかない。
日本は東アジア諸国からやってきた儒教を骨抜きにし、道学先生を笑い飛ばし、科挙試験や学閥政治などの硬直した体制を受け入れず、合議制で独裁者の発生を許さず、不気味な宦官制度や、宮刑や
凌遅之刑などの肉刑kらは自然に目を背けた。
そのような文明圏であり、何よりも東アジア諸国の社会構造の核である宗族を知らない。
それが中国・韓国・北朝鮮と同じ歴史的個性を有するはずがないではないか。
一つ二つ異なるというのとはわけが違うのである。
しかしそのような日本文明圏が、西洋からやって来た思想や文物をも同様の地平で漂白してしまうことを本書は述べたのである。
それは、キリスト教の処女懐胎や復活などハナから嘘だと馬鹿にし、キリスト教徒は人口の1%もおらず、厳格なる法の支配など喧嘩両成敗や和イズムで緩和し、合議制の全員一致も民主主義の多数決の原則と並存して活性化をやめず、個人主義文学は漱石・鴎外で早々と終わりを告げ、天使とか悪魔とか態とらしいものなんか大嫌いという文明圏である。
にもかかわらず、近代合理精神の根づいた自由と民主と人権の国として、日本はアメリカにもっとも近い国としてある。
個人主義はなくても、日本の個々人はもはや神々の尊厳を有するものであり、だからこそ非人権国家の拉致事件には国民全体が激怒した。
日本は脱亜も入欧もする必要はないのであり、既に当初から脱亜していたし、入欧の目的はすでに完結した。
個人主義教育などという無駄はもうやめ、武士道なんぞという狭い道徳は自分の家だけでやっていただき、感謝・尊敬・愛情くらいは子供に教え、人権の尊厳を大切にし、非人権国家から拉致被害者たちを
絶対に奪還する。
そのような文明圏の定立に筆者自身が誇りを持ちたくて、この本を書いた。
本書を核に当たり、これまでに諸処の雑誌や新聞に掲載した文章を修正して部分的に鏤(ちりば)めたので、それをここで挙げておきたい。
第一章
「多神的世界観の勧め」(『大航海』52号、新書館、2004年10月)
「無限増殖する偶像なき身体」(『大航海』53号、新書館、2005年1月)
第二章
「見えてきた東アジアの新時代相」(『日本のちから』第31号、東京財団、2006年4月)
「写実的でも現実的とは限らぬ日本人」(『産経新聞』正論、2006年6月9日付)
第三章
「愛国の季節」(『正論』 産経新聞社、2007年3月号)
「すでに時効を迎えた「過去」への贖罪」(『産経新聞』正論、2006年8月3日付)
「「軍民二分論」が醸すいかがわしさ」(『産経新聞』正論、2006年9月26日付)
第四章
「東アジアの伝統社会と「自己絶対主義」の根源」
(『修親』通巻567号、修親刊行事務局、2006年10月)
「北朝鮮の論理 背後に被害者正義史観」
(『読売新聞』 2006年4月6日付、および前掲「愛国の季節」)
第五~八章
書き下ろし(尚、第八章の「悔恨共同体」についての記述は、
中村紀一筑波大学名誉教授から多くの示唆をいただいた。ここに感謝したい)
これから世界は好むと好まざるとにかかわらず、アメリカ単極の時代をしばらくの間、経なければなら
ない。
繰り返しになるが、近代合理精神の根づいた自由と民主と人権の国として、日本はアメリカにもっとも
近い国としてある。
しかし日本の国内には、東アジア諸国への接近をつねに図ろうとするアジア主義者が右にも左にもあるのであり、これが強くなるほど、日本を危殆(きたい)に瀕せしめることは既に史実の示すところと言わねばならない。
この事実をはっきりと記述し、東アジア連帯の不毛性を説いておかねばならなかった。
これは東アジアの専門家であり、とりわけ朝鮮の土地と人々を愛し続けた筆者の使命であると考える。
一体ほかの誰に、このような悪役が演じられるというのだろうか。
アジア主義の根を断とうということは、そこから生みだされるアジアを知るものたちも同時に諦めようという提言だからである。
もっと別の形で、東アジアに関心をもつ若者たちを育てられないものだろうか。
それが筆者のこれからの課題である。
最後になるが、本書の編集を担当して下さった、湯原法史氏の辣腕に感謝しつつ、筆を擱(お)くことにしたい。
2007年8月15日 古田博司
目次
第1章 多神教的世界観の勧め
1.ホッブズ・ワールドのロック・ソサエティー
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-28-1 )
2.極限の身体
3.無限増殖する偶像なき身体
4.悲しみの島ハワイ
5.偏在する神々の魂
6.日本の神々の二つの系譜
第2章 マルクスどもが夢のあと
1.歴史的必然を信じた人々
2.偽の近代精神の自滅
3.ポスト近代におけるマルクスの残留思念
4.もっと現実的になるべきではないか
5.演繹より帰納重視の教授法
6.教養は教えられるか
第3章 贖罪大国日本の崩壊
1.戦後日本の「愛国しない心」
2.韓国での排外体験
3.愛国心とナショナリズム
4.贖罪の宣伝戦
5.「倫理の高み」にのぼった中共
6.軍民二分論の破綻
7.韓国人の中国人評
8.朝鮮への贖罪工作
9.良心的知識人たちの「善意」
10.贖罪大国の崩壊
第4章 日本文明圏の再考
1.中世朝鮮の墓暴き乱闘事件
2.宗族という異質な社会
3.靖国の誤解をただす
4.日本文明の写実性
5.現実性と写実性の狭間で
6.古代や中世に固着する東アジア
第5章
1.日本の茶化し文化
2.2ちゃんねらーのティーゼイションと左翼の堕落
3.ティーゼイションが社会的対象を喪った近代
4.自己をテイーゼイトする私小説
5.何を言っているのか分からない人たち
6.大本営的虚構の背景
第6章 別亜論とは何か
1.日本は始めから脱亜していた
2.東アジア音痴のアジア主義者たち
3.漢籍の書物で学んだ東アジア
4.ファシズムとは何か
5.マルクス主義者の東アジア像とその解体
6.朝鮮植民地で「別亜」に気づいた人々
第7章 和人たちの夏
1.繰り返される儒教の独自解釈
2.日本的和の世界
3.嫌われることを恐れる心性
4.東アジア諸国民に日本の和は通じない
5.中華では存在すると思われる物は実在する
6.和は己を持って貴しとなす
7.最後に別々の残酷さを顧みる
第8章 新しい神の国
1.天皇が大好きな韓国人
2.天皇をうらやましがった中国人
3.実在すること自体にある美しさ
4.裏切りつづける怨恨共同体
5.ポスト近代の新しい神々の国
あとがき
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(1739) 新しい神の国
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