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(1723) 毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った (2) 南京大虐殺という発想が思い浮かぶ中国

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ベートーヴェン
交響曲第6番
田園
第Ⅱ楽章―小川のほとりの情景―
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮







池上 彰著
そうだったのか中国

2007年発行より




第5章
毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った




北京大学に「壁新聞」
が張り出された



1966年(昭和41年)、北京大学のキャンパスに、大学の共産党委員会を批判する壁新聞が張り出されました。

中国は、全国の職場に共産党の下部組織でる委員会があり、この委員会が、さまざまな指示を出しています。

北京大学にも共産党の委員会があって、大学教授や職員、学生に対して指示(要するに命令)を出す仕組みになっています。(←これ、今現在でも同じですからね。このあたりを知らずに、中国という国を、民主主義の日本と同じだと思っている人たちが、けっこういるみたいなので。つまり全てが統制と命令で動かされているロボットの国のようなものです。)

この委員気は彭真派のメンバーからなっており、このメンバーを批判する内容でした。



この壁新聞の内容は、毛沢東の指示により、6月1日、ラジオで全国放送されました。

さらに翌2日、中国最大の新聞「人民日報」に、壁新聞の全文が掲載されたのです。



毛沢東の攻撃目標が、次第に広がっていきます。



新聞では、彭真派の委員会を批判する「革命派」は、

「毛主席に反対し、毛沢東思想に反対し、毛主席と、共産党中央の指示に反対する者たちが、いかなる旗印を掲げていようとも、いかに高い地位にあろうとも、いかに古参のものであろうとも」、

「徹底的に壊滅」させなくてはならない、と主張したのです(厳家祺、高皋著 辻康吾監訳 『文化大革命十年史』)。

攻撃の最終的な標的が劉少奇であることが、はっきりした瞬間でした。



「紅衛兵」が
誕生した



6月24日には、精華大学付属中学校(日本の中学校と高校に当たる)の生徒たちが、「プロレタリア革命の造反精神万歳!」と題する壁新聞を張り出しました。



「革命者は孫悟空である」から、「棒を振り回して神通力を発揮し、法力を放ち、旧世界の天地をひっくり返し、上を下への大騒ぎをやり、さんざんに打ちのめし、めちゃめちゃに殴りつけなければならず、混乱すればするほどよいのだ」と主張しました。(『文化大革命十年史』)。

生徒たちは、自分たちのことを、「紅」(共産主義のシンボル)を「衛」(まも)る「兵」という意味の「紅衛兵」と署名しました。



文化大革命に参加する全国の若者たちは、自らを「紅衛兵」と名乗るようになります。



精華大学付属中学校は、共産党の高級幹部の子弟が多く通うエリート学校です。

この生徒たちの行動が、毛沢東の意思を知った党の幹部から助言を受けたものか、自主的な発想だったのかは、当時の生徒たちの証言でもはっきりしませんが、毛沢東は、これを利用しました。



毛沢東は、8月1日、紅衛兵と名乗った生徒たちに手紙を送り、「反動派に対する造反は道理がある(造反有理)」と述べ、生徒たちを「熱烈に支持する」と宣言しました。



喜んだ生徒たちは、毛沢東の手紙を公開。

紅衛兵という名称の組織が次々と成立し、「造反有理」という主張、そして、「めちゃめちゃに殴りつけ」る方法を、全国の大学・中学の学生たちが実践することになるのです。



「司令部を
砲撃せよ」



日本では「壁新聞」と報道されましたが、中国では「大字報」と表現されます。

8月5日には、なんと毛沢東本人が大字報を張り出します。

共産党や政府の幹部が住む中南海に張り出した大字報で、「司令部を砲撃せよ」と書いたのです。



毛沢東こそ「司令部」の一員のはずなのであり、これではまるで「自分を攻撃せよ」と言っているようなものですが、毛沢東にしてみれば、尉文の権力は奪われ、劉少奇や鄧小平(とう・しょうへい)らが「司令部」を形成していると考えていました。

そうした「司令部」の人間たちは、「革命の司令部にいながら、革命に反対する勢力」だとして、この勢力を攻撃するように呼びかけたのです。



毛沢東、
紅衛兵と謁見



毛沢東は、奪権闘争のために、紅衛兵運動を全国に展開させることにしました。

この年(1966年)の8月18日、全国から100万人もの紅衛兵を天安門広場に集め、謁見したのです。



紅衛兵の代表として北京師範大学付属女子中学の生徒が壇上に上がり、紅衛兵と染め抜いた赤い腕章を毛沢東の左腕につけました。



紅衛兵たちは、手製の毛沢東バッジを胸につけていました。

これをきっかけに、全国民が、毛沢東バッジを胸につけるようになるのです。

まるで、いま(2006年)の北朝鮮の国民が、全員、金日成バッジをつけているように。



9月になると、共産党と政府は、地方の教師や生徒が北京に来て、「文化大革命」を参観することを奨励する方針を打ち出します。

全国の学校で、「授業をやめて革命をする」という動きが広がります。

全国の学校が機能を停止しました。

授業をしようとする教師は「革命に反対する者」として、吊るしあげられるようになるのです。



熱狂が全土を覆いました。

まるで数年前の「大躍進政策」の再現のような熱狂が。





2-1.JPG
紅衛兵を謁見する毛沢東(1966年8月)





「造反有理」で
国土は大混乱に



「革命的熱狂」に駆り立てられた若者たちは、紅衛兵の腕章をつけて、街に繰り出しました。

すべてを「革命」一色に塗り替えようと。

「造反有理」がスローガンでした。



街に繰り出した紅衛兵たちは、店の看板を革命のスローガンに付け替えさせました。(←46年後の中国の姿は、まったく変わっていませんねぇ・・・)

文字通りの塗り替えです。

北京の銀座と呼ばれる「王府井大街」は「革命路」と名づけられます。

その後さらに、「人民路」と改称されました。



「長安街」は、「東方紅大路」(東方紅とは、「東方に現れた共産主義」の意で、毛沢東のこと。毛沢東を讃える同名の歌もできた)、「東交民巷」は「反帝路」に、「揚威路」は「反修路」(反・修正主義の道路の意)に、名前を変えられました。



北京ダックで有名なレストラン「全聚徳」にも紅衛兵たちは乱入します。

入口の看板は、紅衛兵に叱咤された従業員によって打ち壊され、「北京烤鴨店」という平凡な名前の看板をつけることになりました。

高価なメニューはブルジョワ的だとして、値段の安い大衆メニューが付け加えられました。



麻婆豆腐で有名な成都市の「陳麻婆豆腐店」も襲撃を受けました。

名物の看板は破壊され、店の名前は、「文化大革命」の勝利という意味の「文勝飯店」に改めさせられました。



紅衛兵の攻撃目標は人々の格好にも向けられます。

長髪の女性、パーマをかけている女性は「ブルジョア的だ」と批判され、街頭で髪を切られました。

スカート姿も批判され、ズボンをはくように命令されました。



人々は、自己を防衛するため、全員が「人民服」と呼ばれる服装をするようになりました。

女性たちは化粧もやめたのです。

街から色彩が消えました。



さらに人々は、「継紅」や「永革」など、“革命的な”名前に改名します。

生まれてきた子供たちにも、こうした名前をつけました。



さらに紅衛兵たちは、「四旧打破」運動を繰り広げます。

四旧とは、「旧思想」「旧文化」「旧風俗」「旧習慣」のこと。

これらを打破するとは、付帯的には文化財を破壊することでした。



キリスト教会や、仏教寺は襲撃され、貴重な文化財が次々に破壊されました。

「文化大革命」の発端になった「海瑞」の広東省の墓も暴かれ、墓守りの老人までが吊るし上げられて死亡しました。



嘘のような本当の話もありました。

紅衛兵たちは、交通信号にも文句をつけたのです。

紅(赤)は革命のシンボルであり、「進め」を表すはずなのに、交通信号で赤が「止まれ」なのは、おかしいと主張しました。

都市の交通整理の警察官の横に立って、「赤信号は進めの合図だ」と主張したものですから、交通は大混乱。

多数の交通事故を引き起こす結果になりました。

最後には周恩来総理が出て、「信号表示は世界共通だ」と説得して、ようやく収まりました。



本人たちは大まじめだったのですから、始末に困ります。

大躍進運動のときもそうでしたが、どうして、このように極端に走るのでしょうか。

客観的に批判するメディアが存在せず、個人崇拝が横溢(おういつ)する社会だと、極端に走るということなのでしょう。



国民が敵味方に
分類された



毛沢東の理論によれば、たとえ社会主義社会になっても階級闘争が続くということになります。

ということは、社会主義・中国にも「労働者階級の敵」がいるはずです。

「敵」を探して摘発し、壊滅させる「戦い」が始まります。

「文化大革命」は、劉少奇、鄧小平を批判して権力の座から引きずり下ろす戦いにとどまらず、全国で全国民を対象にした「闘争」へと発展してしまったのです。



中国の全国民が、「黒五類」や「紅五類」に分類されました。

「黒五類」とは、「地主階級」、「富農」、「反革命分子」、「不良分子」、「右派分子」の五種類のことです。

彼らが、「労働者階級の敵」に選ばれました。



「紅五類」とは、「革命幹部」、「革命烈士」(革命の家庭で死亡した活動家の遺族)、「革命軍人」、「労働者」、「貧農および下層中農」の五種類です。



「紅」でなければ文化大革命の運動に参加できず、「黒」は打倒の対象になりました。



各職場では、それまでの幹部の地位にいた人たちが、次々に「黒五類」に分類され、糾弾されます。

「黒五類」に加え、「特務」(スパイ)、「裏切り者」、「労働貴族」、それに「知識人」を合わせた9種類の「臭老九」(鼻つまみ者の九種類)と呼ばれるようになっていくのです。



職場では「批判大会」が開かれました。

それまでの幹部たちが、「地主」や「右派」などと書かれた厚紙を首から下げさせられ、講堂や演台の檀上に並ばされるのです。

職場の同僚たちが集められ、その場で紅衛兵たちが頭を押さえつけ、両腕を後ろにねじ上げます。

これは「ジェット式」と呼ばれました。

まるで子どもたちの「ジェット機ごっこ」のような形になるからです。

この形で、2時間でも3時間でも「罪状」を並び立て、職場の同僚たちは、幹部に向かって、「打倒せよ!」、「ぶち殺せ!」などと全員で罵声を浴びせることを要求されます。



その後、幹部たちは屋外に連れ出され、一列に並べられ、いわば「市中引き回し」をさせられます。



さらに石を投げつけたり、棒で叩いたりして痛めつけるのです。

この過程で死亡したり自殺したりする人たちが続出しました。



もし、共産党員が自殺すると、それは共産党に対する最大の裏切りとなり、遺族が迫害を受けました。

こうした闘争の中心になった紅衛兵は、革命幹部の子息たちでした。

自分たちは革命幹部の子どもであり、「生まれながらの革命家」である、というわけです。

「門地」で優劣が決まるという、本来の社会主義の理念からは、かけ離れた(←離れたというよりは、真逆の)運動が展開されたのです。



毛沢東の標的にされた彭真・北京市長も街頭に引きずり出され、紅衛兵の罵声を浴びました。



当時、中国人の夫と結婚して北京に渡っていた日本人女性も、紅衛兵の被害を受けました。

日本人だというだけで洲ぴと疑われ、家捜しをされたのです。

日本と中国では電圧が違うため、日本の電化製品を中国でも使えるように変圧器を持っていたところ、これが問題にされました。

家に押しかけた紅衛兵たちは変圧器の意味が分からず、「日本に情報を送る無線機だろう」と言って追求したというのです。

日本にいる母親が送ってくれた手紙は、「スパイの連絡用の通信だ」と言われて持ち去られました。(斉藤淑『紅い桜』)。



やがて、この行動は、「黒五類」なら殺しても構わない、というところまでエスカレートします。





2-2.JPG
紅衛兵によって、「市中引き回し」される幹部





警察が殺人に
お墨付き



1966年(昭和41年)8月、北京市公安局(首都・北京の警察本部)の拡大会議で、以下のような方針が伝達されました。



1 公安機関(警察)は紅衛兵の暴力や殺戮を表立って静止してはならない。

2 大衆が悪人に対する恨みを晴らすのを無理に止める必要はない。

3 紅衛兵が家宅捜査をする手助けを「するように。



警察が紅衛兵の振う暴力に協力したのです。

この方針が、早速、悲劇を生みました。

北京市の南に位置する大興兼で、大虐殺事件が発生したのです。

警察が公安局の方針に従って、「黒五類」に分類される人々の家を紅衛兵に教え、紅衛兵たちは集団で家に押しかけては暴力を繰り返し、325人が虐殺されました。

生後まもない乳児から80歳の老人までが犠牲になったのです。

警察は、もちろん放置しました。






「武闘」による死者が続出した
に続く。




(1722) (1) 紅衛兵とは何だったのか
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-07 )



 


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