ベートーヴェン
交響曲第6番『田園』第Ⅰ楽章-田舎へ着いたときの愉しい感情のめざめ―
コロンビア交響楽団
ブルーノ・ワルター指揮(1958年)
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
道端で売られている文化大革命党のポスター
第5章
毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
「毛沢東語録」は
土産物に
北京や上海の露店、骨董品店、土産物店では、「文化大革命」当時のポスターが売られています。
また、赤い表紙の「小冊子」が多数並べられています。『毛沢東語録』(正式には『毛主席語録』)です。
かつて中国全土を揺るがした「文化大革命」。
このとき運動の中心になった紅衛兵(こうえいへい)たちが、常に手に持ち、ときに天にかざしていたのが、この「小冊子」でした。
常に肌身離さず持ち歩くべきものだった冊子が、露店で売られているという現状は、「文化大革命」の混乱が、遠い過去になったことを示しています。
土産物として売られている「毛沢東語録」
しかし、遠い過去になったのは時間の流れだけ。
現代の中国にとって、「文化大革命」はいまだにい評価が定まっていないのです。
2006年8月、「文化大革命」開始から40周年を迎えましたが、「中国共産党」は、国内の報道機関に対して、「文化大革命」については一切触れないように支持を出しました。
中国の報道機関も、中国のほかの組織と同じく、「中国共産党」の指導を受けることになっていますから、40周年を振り返る記事は登場しませんでした。
40年経っても、「中国共産党」にとっては、「大躍進政策」の失敗と並んで、「文化大革命」も、触れてほしくないテーマなのです。
「共産党」の歴史的責任が問われる出来事だからです。
「歴史的な大事件」でりながら、歴史にフタをして、なかったことにしたい出来事。
中国にいまも大きな傷跡をの故sる「文化大革命」について、振り返ってみましょう。
毛沢東、国家主席
を譲る
「文化大革命」を一言でいえば、「共産党」内部での権力基盤が弱まった毛沢東が、党外の勢力を巻き込んで展開した、「奪権闘争」でした。
前の章で見たように、「大躍進政策」の失敗で、毛沢東の権威と権力は弱まりました。
1959年4月には、毛沢東は国家主席のポストを、副主席だった劉少奇(りゅう・しょうき)に譲ります。
当時の中国では、国家組織としてのトップは「国家主席」(大統領)。
「中国共産党」のトップは「中央委員会主席」で、2つの「主席」のポストがありました。
建国以来、毛沢東が2つのポストを独占していたのですが、この時点で、「国家の主席」と、「党の主席」が、分離されたのです。
国家主席の交代は、「大躍進政策」の失敗に対する批判の高まりを受けてのものでしたが、毛沢東個人の意向もあったようです。
国家主席はさまざまな公式行事に出席しなければならず、毛沢東はそれを嫌っていました。
公式行事にとらわれず、自由な立場で行動したかったのです。
また、毛沢東流の「蛇を穴からおびき出す」という戦法だったことも指摘されています。
わざと一線から退いてみせ、誰が権力を掌握しようとするかを見極めることで、自分の権力を奪う恐れがある人物を発見し、sの人物が力を持つ前に叩きのめす、という戦法です。
毛沢東は、しばしばこの方法をとっていました。
また、国家主席を他人に譲ることで、自分に対する人々の尊敬の度合いに変化が起きるかを確認したかったともいわれています。
しかし、共産党の主席の地位は守りまいた。
中国を支配するのは共産党であり、共産党の主席であることが権力の最大の源泉だったからです。
この結果、国内に二人の「主席」が存在することになりました。
毛沢東にしてみれば、「中国の主席」は自分一人だったのですが、劉少奇は、次第に「国家主席」として振る舞うようになります。
毛沢東はこれに強い不満を持つようになっていきます。
毛沢東、遂に
自己批判
やがて、毛沢東が劉少奇を憎むことになる事態が起きました。
1962年1月に開かれた共産党中央委員会の拡大工作会議です。
この会議は、「大悪新政策」によって発生した飢饉の対策を話し合うためのものでした。
全国から7000人の幹部が招集されました。
席上、劉少奇が演説し、飢饉が天災によってもたらされたものではなく、人災によるものだと認めたのです。
これは、事実上の毛沢東批判でした。
この演説を受けて、各地から集まった幹部たちも、口々に「大躍進政策」を批難しました。
毛沢東は、遂に一歩後退することになります。
この会議で演説し、初めて「自己批判」をしたのです。
「私はほかの者たちが、みずからの責任を逃れようとしてもいいと言っているのではない。実際に、ほかの者も多くが責任の一端をになっているのだ。しかし、私がまず第一に誤りに責任を負うべき人間だろう」(李志綏著 新庄哲夫訳 『毛沢東の私生活』)と。
「自己批判」とはいっても、ほかの者にも責任があると述べるなど、最高実力者としては決して潔いものではなかったのですが、毛沢東が自己批判したのは初めてのことでした。
これ以降、毛沢東の共産党内での権力はさらに減退に向かうのです。
毛沢東、
奪権に動く
中国共産党も政党である以上、たとえ毛沢東といえども、共産党の中央委員会の多数の支持がなければ権力を維持できません。
中国共産党の党規約によると、中央委員会主席、つまり毛沢東のポストは、中央委員会の全体会議で選挙して選ばれることになっています。
「大躍進政策」の失敗で毛沢東の力が失われる一方で、劉少奇は、農村で餓死者が出るような状態を改善し、権威と権限が強まりました。
毛沢東は、劉少奇が共産党の「司令部」を形成してしまったと受け止めたのです。
このままでは、中央委員会での投票で劉少奇に勝てなくなる。
毛沢東は、こう判断しました。
毛沢東の共産党主席の地位を守るためには、劉少奇を中心とする「司令部」を失脚させなければならないと考えたのです。
しかし、共産党内の上層部は劉少奇が掌握している。
そこで毛沢東は、自分に対する国民の「個人崇拝」を利用することにしました。
『毛沢東語録』が
出版された
いまや中国の土産物でしかない『毛沢東語録』の初版は、1964年5月に出版されました。
国防部長(国防大臣に相当)の林彪(りん・ぴょう)が出版させた本です。
「大躍進政策」時代、国防部長だった彭徳壊(ほう・とくかい)は、毛沢東の方針を批判したために失脚させられ、後任に就任したのが林彪でした。
林彪は、彭徳壊の二の舞は避けようと、毛沢東に取り入ることばかりを考えます。
その中心が、毛沢東に対する個人崇拝の強化でした。
そのテコとして、『毛沢東語録』を出版させたのです。
この小さな本には、過去に毛沢東が発言した内容や、著作の内容を、33項目に分類して集めてあります。
たとえば一章は「共産党」で、こういう書き出しです。
「われわれの事業を指導する核心的な力は中国共産党である。
われわれの思想を指導する理論的基礎はマルクス・レーニン主義である。」
(外文出版社発行の日本語版による)
こうした片言隻語を集めただけで、その内容は、どうにでも解釈できるものばかりでした。
たとえば二十六章の「規律」には、次のような文章があります。
「われわれは、ある一つの側面だけを一面的に強調して、他の側面を否定してはならない。
人民の内部には自由がなければならないし、規律もなければならない。
また、民主がなければならないし、集中もなければならない」(同書)
こんな内容ですから、自分に都合のいい部分を引用することで、何とでも主張できるものでした。
その後の権力闘争では、各陣営が、自己の主張の正当性の根拠として引用するようになります。
この本の印税は、毛沢東個人の口座に入りました。
莫大な個人資産を自由に使えるようになるのです。
林彪は、『毛沢東語録』を出版して毛沢東の機嫌をとる一方で、毛沢東を形容する語句も生み出します。
毛沢東を、「偉大な指導者」、「偉大な教師」、「偉大な統率者」、「偉大な舵取り」と呼ぶようにしたのです。
公の場で毛沢東に言及するときは、必ずこの「四つの偉大」の肩書をつけるようになりました。(←ぬふふふ。北朝鮮が今でもやってますねぇwww)
自分が、このような大げさな形容詞をつけて呼ばれるちうのは、どんな気分なのでしょうか。
本当に偉大な指導者であれば、自分を決してこうは呼ばせないのではないかと思うのですが、毛沢東は、自分に対する個人崇拝を楽しみつつ、それを奪権闘争の武器として使いました。
奪権闘争の手駒として使ったのが紅衛兵と呼ばれた若者たちでしたが、毛沢東の仕掛けた闘争は、先ずは「文化」の分野で始まったのです。
上海の新聞に載った
奇妙な批判
1965年11月10日、上海の新聞『文匯報』(ぶんわいほう)に、「新編歴史劇『海瑞罷官』(かいずいひかん)を評す」という姚文元(よう・ぶんげん)の論文が掲載されました。
これが、「文化大革命」の発端でした。
この論文は、劇作家で精華大学教授でもあり、北京市の副市長だった呉晗(ごがん)が書いた歴史劇『海瑞罷官』を批判するものでした。
海瑞は、中国の明の時代に、皇帝の誤りを直言して罷免された役人です。
毛沢東は、海瑞を高く評価していました。
かつて自らが展開した「反右派闘争」の結果、誰もが上の顔色をうかがい、自分からは何も発言しなくなっている風潮に対して、「海瑞の勇気に学び、上が間違っていると思ったら直言せよ」と語り、「海瑞に学ぶ」運動を呼びかけたほどです。
毛沢東に心酔する呉晗にしてみれば、毛沢東の支持に忠実に従い、海瑞を高く評価するために書いたのが『海瑞罷官』でした。
しかし、毛沢東の「大躍進政策」が失敗すると、「大躍進政策」の見直しを毛沢東に進言したために失脚させられた彭徳壊を、皇帝に進言して罷免された海瑞になぞらえて考える人たちが出始めていました。
この時点で海瑞を評価すると、毛沢東を批判した彭徳壊を評価しているようにも読めたのです。
毛沢東は、『海瑞罷官』をそうした「あてこすり」だと考えました。
姚文元が書いた呉晗批判の論文を、毛沢東は、ほかの新聞も掲載するように要求しました。
毛沢東の最終目標は、劉少奇の追い落としでした。
劉少奇の系列には、北京市長の彭真(ほうしん)がいました。
「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」。
劉少奇に狙いを定め、まずは劉少奇を支える彭真を失脚させるため、副市長の呉晗に対する攻撃を始めたのです。
毛沢東は翌年3月、政治局常務委員会の拡大会議で、「知識人」批判を始めます。
「知識分子」は社会主義革命が進むと共に抵抗し、反共産党反社会主義の本性を暴露している。
呉晗は共産党員だが、反共でもあり、実際は国民党だ。
このように言い切り、文化の面でも革命を推進しなければならないと主張しました。
ここから、「文化大革命」という言葉が生まれたのです。
毛沢東、「継続
革命論」を提起
毛沢東は、社会主義が実現しても革命が必要だという、独自の理論を編み出します。
それまでの正統派マルクス主義では、階級闘争は社会y過ぎ革命によって消滅すると考えられてきmした。
次のような理論です。
資本主義社会では、ブルジョワジー(資本家階級)が、生産手段(土地や工場など)を独占し、プロレタリアート(労働者)を搾取して働かせている。
この境遇にガマンできない労働者階級は、労働者が主人公の社会を作ろうとし、資本家階級は、何とかそれを阻止しようとする。
そこに階級闘争が起こる。
やがて労働者階級が革命を起こして権力を握り、生産手段を国有化すれば、資本家階級は打倒されるので、資本家階級と労働者階級の階級闘争は消滅する。
しkし毛沢東は、社会主義になっても、資本家階級と労働者階級の階級たち率は続くと考えました。
社会主義は、共産主義へと進む過程に過ぎず、共産主義の理想社会が実現するまでには長い時間がかかる。
その間、資本家階級と労働者階級による階級闘争は残る。
その対立は共産党内部にも反映され、共産党内には、共産主義をめざす勢力ばかりではなく、資本主義に戻ろうとする勢力が生まれる。
これを解決するためには、やがて共産主義社会が実現するまでの長い間、共産党内でも、共産党外でも、資本主義に戻ろうとする勢力との戦いが必要となる。
つまり、社会主義になっても「資本主義へ進もうとする派」(走資派)が生まれてくるので、常に革命を継続していかなければならない、というわけです。
これが毛沢東の「継続革命論」です。
北京大学に「壁新聞」が張り出された
に続く。
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(1722) 毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った (1)
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