RHAPSODY OF FIRE
The Ancient Fires of Har Kuun (2010)
池上 彰著
『そうだったのか!中国』
2007年発行より
第4章
「大躍進政策」で国民が餓死した
毛沢東の腹心は
諌めたが
地方で農民たちが飢え、次々に餓死しているのに、共産党にはその声が届かない。
この構造的欠陥が、被害を拡大させました。
それでも、共産党幹部の中には、飢饉の実態を知り、方針転換を図らなければならないという危機感を持った人もいました。
その一人が彭徳壊(ほうとくかい)でした。
彭徳壊は、毛沢東と同じ湖南出身で、古くから毛沢東と行動を共にしていました。
朝鮮戦争で、中国が、北朝鮮支援のために参戦した時は、中国軍の総司令官を務めています。
当時は国防部長(国務大臣に相当)の要職にありました。
彭徳壊は、故郷の湖南を視察して、餓死者まで出ている惨状を知り、大躍進政策の見直しを考えました。
1959年の7月から8月にかけて、江西省廬山(ろざん)のリゾート地で、中国共産党の政治局拡大会議と中央委員会が開かれた際、彭徳壊は毛沢東に対し、密かに私信の形で政策転換を提案したのです。
この提言事態は非常におとなしいもので、基本的には大躍進政策が正しく、毛沢東の指導も正しいと支持したうえで、政策の見直しを求めていました。
しかし、絶対的独裁者になっていた毛沢東は、自分の方針に異議が唱えられることに我慢ができませんでした。
私信を直ちに会議で公開し、彭徳壊と、彭徳壊に同調した幹部たちに「右翼日和見主義」というレッテルを貼り、会議の席上、激しく批判したのです。
彭徳壊も同調者たちも、失脚しました。
会議に出席していた他の幹部たちは飢饉の実態を知っていて、方針転換を求める彭徳壊の主張が正しいと感じていましたが、彭徳壊を支持することは、即ち自らの失脚を意味します。
沈黙したり、毛沢東を指示したりすることで、自らの生き残りを図りました。
彭徳会は孤立し、毛沢東の方針の正しさを再確認することになってしまいました。
これ以来、毛沢東は、大躍進政策を見直すどころか、一層の推進を求めます。
毛沢東と常に行動を共にし、数々の軍功を立てていた彭徳壊ですら政策転換を求めると失脚したのですから、大躍進政策の中止を言い出せる人物はいなくなりました。
こうなると、地方幹部たちは、食糧生産が減少していることを認めるわけにはいかなくなります。
うっかり認めると、「右翼日和見主義」と批判され、失脚する危険に直面するからです。
こうして、飢餓が深刻化しているのに、食糧は大増産が続いているという報告ばかりが行われました。
生産された食糧の40%は国に納めることになっていたため、嘘の報告量の40%という数字は、実際に収穫された食糧の全量を上回る場合がほとんどでした。
こうなると、少しでも食糧を確保する努力が続けられることになります。
「共産党幹部は、保管された食糧を探し求めて、村々をまわった。
それは残酷で野蛮な運動だった。
多くの農民が拷問にあい、死ぬまで殴打された」(『餓鬼』)
農民たちは、餓死するか、餓死しなくても共産党幹部の拷問にあって死んでいったのです。
全土で餓死者が
続出した
1960年、河南省光山県の小さな村の様子について、当時の飢饉から生き抜いた劉暁華(りゅうぎょうか)という女性は次のように証言しています。
「村のぬかるんだ道には、何十人もの餓死者が埋められぬままに横たわっていた。
荒れたままの畑にも死体があった。
その死体のあいだをぬうように、まだ生きのびている者たちが、食べられる野草の種を求めて這いまわっていた」
「埋葬してやれるほどの元気は誰にもなかった」
「牛は死に、犬は食べられ、ニワトリやアヒルは、穀物税のかわりとして、はるか昔に共産党に没収されていた。
樹木の小鳥たちも消えた。
その樹木でさえ、葉はむしりとられ、皮ははぎとられていた」
「1958年から1961年にかけての飢饉は、中国史上では特異なものだった。
北は小麦を生産する黒竜江沿いの寒冷奥地から、南は緑豊かな亜熱帯の海南島まで、広大な中国全土の隅々までを飢饉が襲ったのは、初めてのことである」
「すべての地方で人々は飢えていたのである」(同書)
にもかからず、その情報は毛沢東のもとに届きませんでした。
幹部たちは知っていても、黙っているしかありませんでした。
それどころか、毛沢東とその取り巻きには、常に最高級のもてなしが行われていました。
毛沢東が地方に視察に出かけると、歓心を買うために、地元の共産党幹部が最高の歓迎をしたのです。
その様子を、毛沢東の主治医だった李志綏は、こう皮肉っています。
「私どもは共産主義的な楽園で日常を送っていただけに、少なくともわれわれにとっては共産主義社会がすでに到来したも同然であった」(『毛沢東の私生活』)
毛沢東、
一歩後退
全土で飢餓が広がる状態に、遂に共産党幹部たちも耐えきれなくなりました。
1961年になると、周恩来らは、毛沢東に実態を告げるようになりました。
共産党幹部こぞっての「反乱」に、さすがに弱気になった毛沢東は、政治の第一線から退き、改革派が実権を握りました。
劉少奇や陳雲(ちんうん)、鄧小平らが改革を進めました。
農業集団化を緩め、個人が自分の農地で作物を育て、それを売ることができるようにしたのです。
集団で農業をするのではなく、自分たちだけで農業することが認められ、自分たちが育てた農作物を自分たちで売りさばくことができるようになると、農民の労働意欲は向上し、農業生産は回復。
飢餓状態から脱する農村が増え始めました。
自分が生産したものは、自分のものになる。
こんな簡単な原理だけで、飢餓が解消されたのです。
毛沢東は、まるで拗(す)ねたように一線を退き、こうした改革を黙認しました。
自らの「革命」路線が否定されるのを傍観するしかなかったのです。
こうして毛沢東は、実質的な権力を失っていきました。
しかし、毛沢東はあきらめていませんでした。
その後、思いもかけぬ形で、自分の権力を奪った改革派に復讐するのです。
それが、「文化大革命」でした。
文化大革命がどんなものだったのかは、次章で取り上げます。
「毛沢東の大躍進
政策」は輸出された
大躍進政策の失敗は秘密にされました。
大成功という宣伝だけが行われたのです。
このため、当時の中国は、世界の開発途上国にとって「希望の星」に見えました。
アフリカのアンゴラ、モザンビーク、エチオピア(いまだに世界最貧国の一つですね)、ソマリア(同じく世界最貧国の一つ)などは、中国の農業集団化をお手本にしました。
伝統的な農業を放棄して、集団農場を建設したのです。
その結果は、飢饉や、飢饉に伴う内戦でした。
カンボジアでは、ポル・ポト政権が毛沢東の路線を信じ、全国民を農村に送り込みました。
知識人を憎み、専門技術を軽蔑し、素人の人海戦術だけで大規模な灌漑施設を建設したのです。
結果は、大規模な自然破壊であり、実り豊かな農業地帯での飢餓の発生でした。
中国共産党が惨めな失敗を隠し、成功と宣伝したために、世界規模で大失敗を繰り返すことになったのです。
毛沢東は、中国人民に対してだけでなく、世界の開発途上国の人々の死にも、責任を負っているのです。
「空想的社会主義」
で多くの犠牲者が
毛沢東の誇大妄想から始まった大躍進政策は、惨めな失敗に終わりました。
この失敗により、中国全土ですくなくとも4000万人が死亡したと推定されています。
毛沢東の死後、1979年に共産党が組織した「制度改革委員会」は、実際に何が起こったのかを調査し、飢饉で4300万人から4600万人が死亡したという結論を出しました。(←日本なら、3人に1人が餓死した数字です。中国の人口は日本の10倍ですから、30人に1人・・・それでも地獄の光景ですね。)
しかし、大躍進の惨事は、それで終わりませんでした。
その後、毛沢東が発動する「文化大革命」によって、さらに大勢の人々が犠牲になるのです。
マルクスと共に共産主義理論を構築したエンゲルスに、『空想から科学へ』という作品があります。
過去に「ユートピア」など理想社会を空想した空想的社会主義者たちがいたが(←過去、じゃなくて、今現在もいるという恐怖!!特に日本には時代遅れの妄想主義を標榜する、一流の、学者や有名人や政治家が・・・)、マルクス主義こそが科学的社会主義であると主張しています。
空想か科学化といえば、毛t苦闘がめざした社会主義は、空想的社会主義でしかなかったのです。(←私は「妄想的社会主義」だと思うけどな。)
個人が空想する分には構いませんが、中国では、空想的社会主義を実現させる実験のために、4000万人もの犠牲者が出たのです。
日本に対して「過去を教訓にすべきだ」と「歴史問題」で追及する中国は、この“過去”について一切口をつぐんでいます。
その事実は中国の学校の教科書に載っていません。
日本に対して「歴史を直視」するように求めている中国政府は、自国の負の歴史を直視していないのです。
過去を認められないのは、大躍進という大惨事が、毛沢東という個人の過ちにとどまらず、明らかに中国共産党の犯した過ち、いや犯罪だからです。
この過去を過ちと認めることは、即ち共産党の過ちを認めることであり、共産党の政治的正統性が問われることでもあります。
それができない共産党は、過去を教訓にすることなくフタをして、なかったことにしているのです。
第5章
毛沢東、「文化大革命」で奪権を図った
へと続く。
とかく「革命」なんていう言葉に惹かれる人というのは、事を成し終えた後は独裁者になり下がる。
ナポレオン、しかり。レーニン、しかり。毛沢東、しかり。カダフィー、しかり。
彼らも“若き正義心に満ちた革命の獅子”だったにもかかわらず、いざ、王様を倒して自分が権力を握ったトタンに、ただの独裁者になりさがって、倒したはずの王様とソックリ同じことをやりはじめる。
取り巻きや庶民をムチや拷問や刀や銃などで脅かして死ぬほど働かせて、自分は金銀財宝、グルメに美女(!)などなどに囲まれてウハウハと過ごす。
強いていえばフランス革命あたりがマトモかな?とも思うけれど、あれもナポレオンを引きずり降ろした後に「王政復古」とかやってるから、やっぱり完全なる庶民の闘争ではない。
洋の東西を問わず、庶民は王様がいようがいまいが、心地よい疲れが残るくらいに働き、ほどほどに贅沢が出来ればそれでいいのだと思うのに、やれ王様がいるからだとか、権力者がいるからだとか言って庶民を煽って巻き添えにする、単なる権力闘争に過ぎないのが、「革命」だと思う。
真に市民の中から立ち上がって庶民の権利を握ろうとする革命家もいるにはいるが、その人と心を同じくする庶民は、余りにも少ない(^^;
そういった意味では、最近の「ジャスミン革命」あたりから始まった中東やアフリカ周辺の民主化闘争なんてのは、庶民から始まった革命と言えそうだけれど、そこにも裏で糸引く権力者たちが蠢いている。
「革命」という歴史のない日本が言うのは何だが、中国も、一般大衆が現状を打破したい気持ちで立ち上がらない限り、独裁政権は続き、5千年の歴史が誇る強烈な貧富の差というものは存続するだろう。
チベット民族を虐殺してまでも紛争を抑え込んで、チベットの国土を奪った時代の若き獅子が、年老いた(!)今もって中華人民共和国の国家主席に座ったままなのを、隣りの日本は、片時も忘れてはならないと思う。
えっ、習さん?! 国家副主席ですよ。
胡錦濤・中国国家主席
(1698) 「チベットを侵略した」 (2) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 )
(抜粋)
この年(1987年)以降、ラサでは、毎年のように「チベット独立」を求める暴動が起きるようになるのです。
とりわけ1989年1月に、「パンチェン・ラマ十世」が亡くなると、大規模な暴動が発生します。
当時のチベット自治区の共産党書記は、中国の国家主席、胡錦濤(コ・キントウ)。
胡錦濤は、この年の3月にはチベットに「戒厳令」を敷いて、住民の独立運動を弾圧したのです。
天安門広場での学生に対する弾圧に先立つこと、3カ月前のことでした。
このときの断固たる弾圧ぶりが、中央から評価され、その後、出世街道を進むことになります。
習近平・中国国家副主席
(Wikipedia )
中国当局 チベット締め付け強化
2013.02.02
(http://sankei.jp.msn.com/world/news/130202/chn13020219500003-n1.htm )
チベット暦の元日にあたる2月11日を前に、中国当局はチベット族による暴動や騒乱を警戒して、チベット仏教の僧侶らを“学習”との名目で拘束し、海外からの“情報”を遮断するために衛星放送アンテナを大量没収するなど、厳しい締め付けをはじめた。
一連の強硬策の背景には、昨年11月に最高指導者に就任した習近平総書記が「強いリーダー」を演出することで、弱い政権基盤を補強したいとの思惑があると指摘される。
北京のチベット人支援者によれば、今年1月中旬、ラサ市内にある主な3つの寺院の高僧や仏典講師15人が、中国当局に呼び出された。
「政治問題の学習クラスを実施する」との名目で連行され、2週間以上たった現在も音信不通状態が続いているという。
また、青海省黄南チベット族自治州からの情報によれば、今年に入ってから、同地域への外部の人間の出入りが厳しく制限され、携帯電話やインターネットも通じにくくなった。
同じ頃、州政府の関係者が軽トラックに乗って各民家や寺院を回り、衛星アンテナを没収しているという。
関係者は「上からの命令だから仕方ない」と説明しているが、インドのチベット語番組をみる楽しみを奪われた現地の住民の当局への不満はさらに高まっているという。
チベット族の人たちは、チベット暦の元日前後に仕事を休んで寺院に集まり、宗教行事に参加する。
そこで当局への不満が一斉に噴出して暴動に発展しやすい。
中国政府は毎年この時期に警戒を強めるが、今年は動員した警察官が最も多いといい、例年と比べて監視が一段と厳しくなったと関係者は実感している。
また、共産党政権の宗教政策に抗議するため、2009年頃から続いているチベット人による焼身自殺についても、習政権は厳しい姿勢で臨んでいる。
1月末には焼身自殺するようそそのかしたなどとして、チベット仏教の僧侶(40)に対し執行猶予付きの死刑判決が言い渡された。
習氏は、国際社会の関心が高いチベット問題で柔軟姿勢を見せれば、政権のイメージアップにつながるといわれていた。
にもかかわらず、強硬策に出た背景について、北京の共産党の古参幹部は、
「チベット問題に限らず、習政権は、言論の自由の問題も、日本との釣魚島(沖縄県・尖閣諸島の中国名)問題も、すべて高圧的な政策をとっている。
周りを他の派閥に囲まれた彼の政権基盤は弱く、強い言動に出ざるを得ないからだ」
と指摘している。(北京=矢板明夫)
(1692) 日本は東アジアの一員じゃない (1) 世界の文明は8つ
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-16-1 )
(1693) 日本は東アジアの一員じゃない(2) Y染色体ハプログループD
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-16-2 )
(1694) 日本の代表的な3つのリズム
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-17 )
(1698) 「チベットを侵略した」 (1) 池上 彰著『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25 )
★ テレビに登場しない不思議
★ 秘境チベット
★ 輪廻・転生のチベット仏教徒は
★ ダライ・ラマと、パンチェン・ラマ
★ 中国共産党、「チベット解放」へ
★ 中国軍の圧力下で「十七条協定」が結ばれた
★ ダライ・ラマ、毛沢東と会見
(1699) 「チベットを侵略した」 (2) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 )
★ チベットは「独立国」だったが
★ チベットで反中国暴動発生
★ ダライ・ラマ、インドへ亡命
★ 中国、チベットの支配権確立へ
★ 大革新政策の被害はここでも
★ 中国軍、インドを攻撃
★ 文化大革命でも大きな被害
★ 胡耀邦と胡錦濤の時代
(1700) 「チベットを侵略した」 (3) 池上 彰著 『そうだったのか!中国』より
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26-1 )
★ パンチェン・ラマが「二人」になった
★ 漢人の大量移住と自然破壊進む
★ ダリ・ラマ、現実路線へ転換
★ 帰国交渉への希望を語る
★ 「慈悲」は通じるのか
(1701) 「チベットを侵略した」 (4) 最近のチベット
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26-2 )
(1705) 「大躍進政策」で国民が餓死した (1) 毛沢東の誇大妄想を追いかける北朝鮮
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-30 )
(1706) 「大躍進政策」で国民が餓死した (2) ほんの50年前の中国
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-31 )
(1707) 「大躍進政策」で国民が餓死した (3) 裏庭で鉄の塊を生産
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-02-01 )
(1708) 「大躍進政策」で国民が餓死した
(4) 毛沢東の無知のさらけだし科学を輸出\(◎o◎)/!
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(1708) 「大躍進政策」で国民が餓死した (4) 無知のさらけだし科学を輸出\(◎o◎)/!
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