イタリアは
元祖・維新の地、九州から“出陣”
橋下氏、対朝日勝利で反転攻勢?
2012.10.20
(http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121020/stt12102022450014-n1.htm )
街頭演説に集まった人たちと握手する日本維新の会代表の橋下徹大阪市長
=20日午前、鹿児島市
(抜粋)
20日午前、初遊説の舞台となった鹿児島市内の繁華街。
橋下氏が街宣車上に現れると、約2千人(主催者発表)の聴衆は大きな拍手で迎えた。
鹿児島を出発点にしたのは、
当地が明治維新の「発信地」だったことにある。
「敵が何千万人いようとも、やると言ったことはやりきる」
「140年前は弓や鉄砲で戦(いくさ)をしたが平成の世において戦は選挙しかない。戦は近い!」
演説は終始絶叫調で、自らが「平成維新」の主人公になることを意識する発言を連発させた。
郷土の英雄、西郷隆盛、大久保利通らが主導した明治維新の意義も絶賛し、
「江戸幕府を倒すときも大変だった。今度の『体制変更』の当事者は鹿児島のみなさんだ」
と訴え、県民のハートをくすぐった。
なんだかもう、10年くらい昔の出来事だったような気がしますが・・・
衆議院議員・自由民主党
高市早苗・早苗コラム
(http://rep.sanae.gr.jp/column_details505.html )
自国の国旗を保護する為の諸外国の法制度より抜粋
ドイツは、
「自国の国旗」を損壊する行為については「3年以下の自由刑又は罰金」ですが、
「外国の国旗」を損壊する行為については「2年以下の自由刑又は罰金」です。
「自国の国旗」を損壊する行為については
「禁錮2年以下の刑又は1000ユーロ~5000ユーロの罰金」ですが、
「外国の国旗」を損壊する行為については「100ユーロ~1000ユーロ以下の罰金」です。
韓国は、
「自国の国旗」を損壊する行為については
「5年以下の懲役又は禁錮、10年以下の資格停止又は700万ウォン以下の罰金」
ですが、
「外国の国旗」を損壊する行為については
「2年以下の懲役若しくは禁錮又は300万ウォン以下の罰金」です。
中国は、
「自国の国旗」を損壊する行為については
「3年以下の有期懲役、拘役、管制又は政治的権利の剥奪」という厳罰を設けていますが、
「外国の国旗」を損壊する行為については「刑法典に罰則は無い」…ということでした。
これらの国については、自国の国旗の方を大切にしている姿勢が窺えました。
2009年の夏、
鹿児島県の
民主党候補者(衆議院選挙)が開催した総会において
ステージ後方に掲げられた“民主党の党旗”。
日本の国旗である日章旗の、
1枚は下を、もう1枚は上を、切って、つなぎ合わせてある。
(http://www.jimin.jp/election/results/sen_syu45/hikaku/contents/010.html )
2009年8月20日、鹿児島県内で街頭演説を行う麻生太郎総裁
(http://www.jimin.jp/election/results/sen_syu45/news/09_08/20/210820a.html )
日本の国旗
(Wikipedia )
(抜粋)
江戸期には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。
江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、
特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、
江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。
徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に
日の丸を立てて運ぶなどした。そこから
「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」
という唄が生まれたりした。
(中略)
1854年(嘉永7年)3月の『日米和親条約』調印後、
〈外国船と区別するための標識〉が必要となり、
〈日本国共通の船舶旗〉(日本惣船印)を制定する必要が生じた。
幕臣たちは当初、
「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を
〈日本惣船印〉に考えていたが、
薩摩藩主・島津斉彬、幕府海防参与・徳川斉昭らの
進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、
同年7月9日、老中・阿部正弘により布告された。
島津斉彬が進言した理由は、
鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、
「これを国旗にしよう」と家臣に言ったといわれている。
また徳川斉昭は、
「〈大中黒は一氏族の印〉だが、
〈日の丸〉は〈歴史的に日本が使用してきた印〉であるから」
と進言したといわれている。
翌1855年(安政2年)、島津斉彬は洋式軍艦「昇平丸」を幕府に献上するが、
このとき初めて〈日章旗〉が船尾部に掲揚された。
これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である。
1859年(安政6年)、幕府は幟から旗に代えて、
〈日章旗〉を「御国総標」にするという触れ書きを出した。
〈日章旗〉が事実上「国旗」としての地位を確立したのは、
これが最初である。
咸臨丸難航図<鈴藤勇次郎画>
【木村家所蔵/横浜開港資料館保管】
(http://kanrin-maru.org/ )
1860年(万延元年)、『日米修好通商条約』の「批准書」交換のため、
外国奉行・新見豊前守正興を正使とする幕府使節団が、アメリカ合衆国に派遣され、
アメリカ軍艦ポーハタン号と、
日章旗を掲げた咸臨丸に
分乗して、太平洋を横断した。
使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由して、ワシントンD.C.に到着し、
アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して「批准書」の交換を終えた。
その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、
〈日章旗〉と〈星条旗〉が掲げられたブロードウェイをパレードする模様が伝えられている。
これが〈国旗〉として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。
(0084) 日本の国旗を切って縫い合わせて
下半分をシワシワにして民主党の党旗にする神経って、何?!
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2009-08-18 )
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(1659) 維新の党、〈維新の地〉から出陣。あの凍てつく夏を思い出す〈鹿児島〉・・・
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