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(1530) 何がマッカーサーを変えたのか

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(*^_^*)その前に

昭和02年(1927年)
蒋介石の南京国民政府(後の中華民国)が樹立


同年
南京事件

  ※ソ連のコミンテルンの指揮下にあった中国共産党(現在の中華人民共和国)
    イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカの領事館を襲撃し、民間人を虐殺。
    この事件によって蒋介石は“共産勢力”を敵視するようになり、
    中国の覇権を狙う反政府・中国共産党との間に度重なる内戦が勃発。


昭和07年(1932年)
第一次上海事変

  ※当時の上海市には
    イギリス、アメリカ、日本、イタリアなどの「国際共同租界」
    フランスの「租界」
    が置かれていた。これは「満州民族清国」の時代からのものである。
  ※これを“中国共産党”が度々襲撃するため、共同で警備に当たっていた。
    その“中国共産党”の襲撃と日本軍との戦闘。


昭和12年(1937年)
第二次上海事変

   =いつの間にか左翼思想家が「日中戦争」とした(怒)
  ※北上を目指していた「蒋介石の南京国民政府=中華民国」日本軍との戦闘。
    中華民国政府軍は、反政府・共産党と合流していたとされるところが、
    私には非常に怪しく感じられる(^^;
    ちなみにこの戦闘は、中国側の“停戦協定違反”である。


昭和14年(1939年)
第二次世界大戦

  ※その後の冷戦へと続く、西欧資本主義と、ソ連共産主義の戦闘。
    ドイツのヒットラーなんてのは、その中のごく一部の事件に過ぎません。


昭和16年(1941年)
大東亜戦争(太平洋戦争)

  ※中国大陸およびアジア圏を植民地とするヨーロッパ諸国と、
    それを助けるアメリカと、日本との戦闘。
  ※同時に、第二次世界大戦が混ざって、ゴチャゴチャとなる


昭和20年(1945年)
すべての終戦



昭和21年(1946年)
中国大陸における「国共内戦」

  ※蒋介石の中華民国と、反政府・中国共産党との戦闘


昭和21年(1946年)~昭和23年(1948年)
東京裁判(極東軍事裁判)

  ※「国際軍事裁判」ではなく、
    マッカーサーの個人的な裁判と言える「極東軍事裁判」だったことに注意。 


昭和23年(1948年)
中国共産党による「中華人民共和国=中国」が樹立

  ※蒋介石の「中華民国」「台湾」に亡命


昭和25年(1950年)
朝鮮半島における「朝鮮戦争」が勃発

  ※ソ連共産主義の支配下にある「北部朝鮮」
    アメリカ資本主義の応援がある「南部朝鮮」との戦闘


昭和28年(1953年)
朝鮮戦争休戦

  ※北部には「朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮」が樹立
    南部には「大韓民国=韓国」が樹立


戦後50年
平成07年(1995年)



平成24年(2012年)
戦後67年
東京裁判の判決からは64年
朝鮮戦争の休戦からだって59年
  ※終戦時20歳だった人は、87歳\(^o^)/
    朝鮮戦争の休戦時に20歳だった人でも、79歳\(^o^)/

ということは、それより若い(!)人の言うことなんて「また聞き」ですね。
20歳以下だと、まだ自分の思想が固まっていないことが多く、社会風潮などに左右されがちですから、“先の戦争”なんていう昔話は、87歳以上の人から「直接」聞いた話以外、一応、用心してかかった方が身の為ですw


中国大陸や朝鮮半島のタワゴトを見聞する時は
以上の経過を、必ず、頭に置いておかないと
騙されますよ~w









(1432) マッカーサーはどんなことを言ったのか
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2012-05-17-1)


『正論』2003年11月号~2006年11月号連載
第3回・2004年1月号より
「マッカーサー米議会証言録」



(質問)五つ目。

赤化中国を海と空から封鎖するという
元帥(マッカーサー)の提案は、
米国人が太平洋戦争において日本に対する勝利を収めた際の
それと同じ戦略ではないのか。




マッカーサー

その通りだ。
太平洋戦争において
われわれは彼らを迂回して、包囲した。


日本四つの狭い島々に、
八千万人に近い膨大な人口を抱えていたことを
理解しなければならない。



その半分近く農業人口だった。


残りの半分工業生産に従事していた。


潜在的に、日本の労働力は
量と質の両面において、
私が知る限り最良のものである。


労働の尊厳とでも呼ぶべきもの、
人は
怠けているときよりも
働いて築き上げるときの方が
より幸福である
ということを、
彼らはどこかで完全に気づいたのである。


これほど巨大な労働能力をもっているということは、
何か働くための材料が必要だということを意味した



工場を建設し、労働力を得たが、
彼らは
手を加えるべき原料を持っていなかった


日本原産の動植物は、
蚕をのぞいては
ほとんどないも同然である。


綿がない、
羊毛がない、
石油の産出がない、
錫がない、
ゴムがない、
ほかにもないものばかりだった。



その全てが、アジアの海域に存在していたのである


もしこれらの原料の供給を断ち切られたら
一千万人から一千二百万人の失業者が
日本で発生するであろう
ことを彼らは恐れた



したがって、
彼らが戦争に駆り立てられた動機は、
大部分
安全保障の必要に迫られてのことだった









『正論』2012年7月号より
国想う者へ
「マッカーサー証言」と
戦後アカデミズムの退廃




上智大学名誉教授 渡辺 昇一
東京大学名誉教授 伊藤 隆
東京大学名誉教授 小堀桂一郎



連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサーが、
日本が対米戦争に踏み切った理由について、
昭和26年にアメリカ議会で、
「主に安全保障(自衛)のためだった」
証言したことが、
東京都立高校の地理歴史教材『江戸から東京へ』(平成24年度版)に
新たに掲載された。


「日本は侵略国家であった」という東京裁判史観
明確に否定するこの証言
なぜなされたのか


「これは戦後日本を歪めてきた自虐史観を一掃する好機だ!」。


マッカーサー証言の重要性を指摘し続けてきた渡辺、小堀両氏と、
近現代史研究の第一人者である伊藤氏が語り合った(編集部)。





昭和25年元旦のメッセージが物語る変心


渡辺  まず、マッカーサー証言が世に知られるようになったのは、小堀さんの功績であることを強調しておきたいと思います。


私がマッカーサー証言の存在を知ったのは、田中正明先生(歴史家、元松井石根陸軍大将の私設秘書)を通してでした。しかし、その資料はないというので、小堀さんに電話をしたのです。


小堀さんは
「私もあれは重要だと思っていたところでした」
と応じ、すぐに探し出して私にコピーをくださった。


私はすぐに『Voice』に重要な部分を原文で紹介しました。


しばらくすると、小堀さんは講談社学術文庫から『東京裁判 日本の弁明』という本を刊行され、その中で1ページにわたって証言の原文と訳文を紹介してくださった。


小堀  私ども(東京裁判資料刊行会)は平成4年から終戦50年(平成7年)に向けて『東京裁判却下未提出弁護資料』を編纂していました。


それが最終段階にさしかかった平成6年のことだったと思います。


真珠湾が奇襲攻撃を受けたことで太平洋艦隊司令長官キンメル海軍大将とハワイ軍管区司令官ショート陸軍中将がその責任を問われた、あの査問委員会の内容は、東京裁判の直接の記録資料ではありませんが、参考資料として入れるべきだということになり、それならば、マッカーサー証言も入れようという話になったのです。


マッカーサー証言にもっとも早く着目されたのは『東京裁判の正体』(昭和35年刊、執筆は28年ごろ)を書かれた菅原裕さんでした。


伊藤  東京裁判で荒木貞夫大将の弁護人を務めた菅原さんですね。


小堀  ええ。あの本で早くも触れておられる。しかし、そこには原文は掲載されていなかったので渡辺さんとも連絡して、やはり原文を探そうと思い立ちました。


マッカーサー証言は、昭和26年5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の公聴会で行われたことははっきりしていました。


私は鈴木貫太郎内閣の終戦工作でのアメリカ側の反応を調べたとき、東京大学の新聞研究所で「ニューヨーク・タイムズ」のマイクロフィルム版をかなり活用した経験がありましたので、その公聴会の翌日5月4日の紙面にはきっと詳しい記事があるだろうと見当をつけました。


それで学生に頼んで、その部分のマイクロフィルムからのプリントを作ってもらいました。


渡辺  私がいただいたのは、そのコピーなんですね。


小堀  そうです。そして『東京裁判却下未提出弁護側資料』(国書刊行会、全8巻)の8巻に付録として掲載しました。


さらに、その抜粋版として『東京裁判 日本の弁明』を講談社学術文庫から出すことになりました。そのさい、マッカーサー証言もう一つのポイントである、
「過去百年間に太平洋地域でわれわれ(アメリカ外交)が犯した最大の政治的過ちは、共産勢力を中国で増大させたことである」
という部分も入れようと思ったのですが、その時、その部分の原文コピーがふと手元に見当たらず、収録できなかったのです。


刊行後、渡辺さんがあちこちで「あの学術文庫を読め」とおっしゃってくださったものですから、かなり売れました。昨年8月には新たに筑摩学芸文庫から『東京裁判 幻の弁護側資料』と題名だけ改めて刊行され、講談社学術文庫版に入れそこなった「アメリカ外交における最大の過ち」という部分の原文をきちんと入れることができました。



東京裁判 幻の弁護側資料: 却下された日本の弁明 (ちくま学芸文庫)
(Amazon)



伊藤  どういう経緯でマッカーサーがこういう証言をしたのか、皆さん、そこが気になるところだと思います。
「日本は世界を侵略しようとした」
というマッカーサー自身が敷いた東京裁判の路線とまったく異なりますから。


東京新聞は5月4日付朝刊一面トップで、東京都の教材がマッカーサー証言を取り上げたことを報じましたが、どうしても批判したかったのでしょう。
「専門家からは(証言の)背景の説明がなく引用することに疑問の声が上がっている」
などと書いています。


小堀  マッカーサーの見解が180度転向してしまったについては、まず、東條英機・元首相が東京裁判の法廷で読み上げた宣誓供述書、いわゆる「東條口述書」の影響があると思います。


日本は、自存自衛のために、やむを得ず誘発されて戦争を行ったのであり、あらかじめ計画し、準備したものではないという内容です。


マッカーサーはこれを読まないわけにはいかない。そこでフッと思うところがあったのではないかと思います。


同じような主張が弁護側からも出ています。特にローガン弁護人の述べている内容は「東條口述書」と殆ど同じなのです。つまり、日本はアメリカの経済封鎖に耐えかねて、やむを得ず立ち上がった、という内容です。




(1335) 東條英機の遺書
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2012-02-26-1)

おそらく、「東條口述書」とほとんど同じ内容だと思えます。是非、広げて読んでみて下さい。
日本人なら涙なくして読めないほどの内容であり、そして、
「A級戦犯」というものは、いかに創り上げられたものであったのか・・・
という思いがしてくるのではないでしょうか。




もう一つ重要なのが、昭和23年(終戦の3年後)に刊行されたヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』です。


この本は、昭和24年原百代さんという方が翻訳をつくられました。しかし、マッカーサー
「ミアーズの著書の日本語訳は少なくとも講和条約が終わるまでは出すことはまかりならぬ」
命じたそうです。


つまり、マッカーサーはミアーズの著書を読んでいた。そして彼女の説く道理に打たれたのでしょう。


そのようにして、マッカーサーの考え方は徐々に変わっていったと考えられます



アメリカの鏡・日本 新版
(Amazon)



マッカーサーは当時、毎年元旦の日本の新聞にメッセージを掲載していましたが、昭和25年元旦には、
「戦争放棄の理想も自衛には道を譲れ」
というメッセージを発表しました。つまり、日本の再軍備を考え始めていたわけです。背景には、朝鮮半島情勢があったことは間違いありません。


その年の6月25日に北朝鮮の韓国(南朝鮮)侵攻によって朝鮮戦争が勃発します。


アメリカ軍の派遣にもかかわらず中共(中国共産党)が介入したことで戦況は一進一退となります。


膠着状態に業を煮やしたマッカーサー冒険主義で中国を叩こうとしてトルーマン大統領によって昭和26年4月11日に更迭されます。


共産主義の膨張防いでいた日本戦争に追い込んだ「アメリカ外交最大の過ち」が、ここではっきりと結果をもって示された


マッカーサー証言この3週間後のことです。


余談になりますが、昭和25年12月23日に、第8軍司令官だったウォルトン・ウォーカー中将がソウル北方で事故死するでしょう。その日はA級戦犯として処刑された昭和殉難者7人の方の三回忌に当たる日だったのです。


朝鮮半島にも日本人と同じような考え方をする方々がまだたくさんいて、第8軍司令部に「中将の事故死は巣鴨で殺された7人の霊の祟りだ」と言ったそうです。第8軍司令部の幕僚たちは震え上がり、熱海の興亜観音へお詫びに行ったというエピソードがあるんですよ。


ウォーカー中将の非業の死がマッカーサーの考えに影響を与えたかどうかは忖度のかぎりではありませんが。






〖教科書調査官に「重し」をかけるのは誰だ〗
につづく






  
   
  


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