『安保闘争』
(Wikipedia)より
1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)
1970年(昭和45年)の、2度にわたり、日本で展開された
『日米安全保障条約』(安保条約)に反対する「労働者」や「学生」「市民」が参加した
日本史上で空前の規模の「反政府・反米・運動」と
それに伴う「政治闘争」であると同時に、
「火炎瓶」や「鉄パイプ」で暴力を振るう「暴動紛争」という側面も持っていた。
国会を取り囲んだデモ隊(1960年6月18日)
60年安保闘争
経緯
1959年(昭和34年)
3月 - 日本社会党、日本労働組合総評議会(総評)、原水爆禁止国民会議(原水禁)などが
『安保条約』改定阻止国民会議を結成。
10月 - 社会党の西尾末広が改定阻止国民会議に反対を表明し離党。
11月 - デモ隊が国会構内に乱入。
1960年(昭和35年)
1月19日 - 日米政府間で条約調印。
1月24日 - 西尾末広らが民主社会党結成。
4月 - 全学連が警官隊と衝突。
5月20日 - 衆議院で強行採決。
以降、連日、デモ隊が国会を囲む。
6月11日 - ハガチー事件(大統領秘書が来日するが、羽田でデモ隊に包囲されヘリコプターで脱出)。
6月15日 - 全学連と警察隊の衝突で、東大生の樺美智子さん死亡。
6月17日 - 在京新聞7社が共同でデモ隊の暴力を批判、社会党の国会復帰を呼びかける。
6月19日 - 『安保条約』が自然成立(23日に発効)。
6月23日 - 『新安保条約』の批准書の交換、全手続きを終了。
岸内閣総辞職を表明。
7月14日 - 自由民主党総裁選挙。池田勇人を自民党第4代総裁に選出。
総理大臣・岸信介が暴漢に襲われ重傷を負う。
7月15日 - 岸信介内閣が総辞職。
7月19日 - 池田勇人、内閣総理大臣に就任。第1次池田内閣が発足。
10月12日 - 日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、山口二矢(当時17歳)に暗殺される。
11月20日 - 11月20日第29回衆議院議員総選挙。自民党が議席を増やす。
安保条約
1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカのサンフランシスコにおいて、
アメリカ、イギリス、中華民国をはじめとする
第二次世界大戦の連合国49ヶ国と、日本の間で、
『日本国との平和条約』(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、
主席全権委員であった吉田茂は、同時に
『日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約』(旧日米安全保障条約)に署名した。
この条約によって
日本を占領していた連合国軍の中のひとつであるアメリカ軍は
「在日米軍」となり、継続して日本に駐留する事が可能となった。
なお、当時は冷戦下で、
アメリカ、イギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、
西側諸国主導の『サンフランシスコ平和条約』に対立の意思を示し、
49カ国の条約締結国には入らなかった上に、
ソビエト連邦を事実上の仮想敵国とした『日米安全保障条約』に対しても激しく非難を行った。
事件推移
1951年(昭和26年)に締結された『安保条約』は、
1958年(昭和33年)頃から自由民主党の岸信介内閣によって「改定」の交渉が行われ、
1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し、
『新安保条約』の調印と同大統領の訪日で合意。
1960年(昭和35年)6月19日に「新条約」が調印された。
『新安保条約』は、
1. 内乱に関する条項の削除
1. 日米共同防衛の明文化
1. 在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置
など、『安保条約』を、単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、
日米共同防衛を義務づけた、より平等な条約に改正するものであった。
岸が帰国し、『新条約』の承認をめぐる国会審議が行われると、
「安保廃棄」を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾する。
また締結前から、
改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すなどの懸念により、
反対運動が高まっていた。
〈スターリン批判〉を受けて
共産党を脱党した〈急進派学生〉が結成した
『共産主義者同盟』(ブント)が主導する、
『全日本学生自治会総連合』(全学連)は、
「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げて、
総力を挙げて、反安保闘争に取り組んだ。
まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、
人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや、
東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことも影響し、
「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの」
として反対する人たちもいた。
これに乗じて
既成革新勢力である社会党や日本共産党は
組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、
総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり貫徹したが、
全学連の国会突入戦術には、皮相的な立場をとり続けた。
とりわけ共産党は、「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団)」を批判した。
一方で、〈全学連〉などは既成政党の穏健なデモを「お焼香デモ」と非難した。
なお、
日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していた
「ソ連共産党中央委員会」国際部副部長の、イワン・コワレンコは、
自著『対日工作の回想』のなかで、
ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、
「ソ連共産党中央委員会」国際部が
社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に「かなり大きな援助を与えて」おり、
安保闘争においても、これらの勢力が
「ソ連共産党中央委員会」国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていた
と記述している。
衆議院における強行採決
1960年5月19日に
『衆議院・日米安全保障条約等特別委員会』で
『新条約案』が強行採決され、
続いて5月20日に『衆議院本会議』を通過した。
委員会採決では、座り込みをする社会党議員を排除するため、
自民党は右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、
警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。
これは、
6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに
自然成立させようと採決を急いだものであった。
本会議では社会党・民社党議員は欠席し、
自民党からも強行採決への抗議として
石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫らが
欠席、あるいは棄権した。
その結果、
「民主主義の破壊である」
として一般市民の間にも反対の運動が高まり、
国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、
闘争も次第に激化の一途をたどる。
反安保闘争は
次第に
反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。
これに対して岸信介は、
警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、
児玉誉士夫を頼り、
自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、
暗黒街の親分衆の会合に派遣。
松葉会会長・藤田卯一郎、
錦政会会長稲川角二、
住吉会会長磧上義光、
「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら
全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。
さらに、
三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。
一つは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、
右翼とヤクザで構成された全日本愛国者団体会議、
戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。
当時の「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」には
「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、
アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。
最終計画によると
1万8000人の博徒、
1万人のテキヤ、
1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の
動員が必要であった。
岸は創価学会にも協力を依頼したが、これは断られたという。
彼らは
政府提供のヘリコプター、小型機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、
さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」
と書かれている。
岸は、
「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。
私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」
と語った。
しかし、東久邇、片山、石橋の3人の元首相が退陣勧告をするに及び、事態は更に深刻化する。
と、ここまで順調にコピペしていたのですが
あれ?という名前が登場してきたので、しばし爆笑\(^o^)/
Wikiは要注意ってホントですからねwww
これ、どうしようかなあ・・・コピペすると信じちゃう素直な性質の人たちもいるからなあ・・・
時々書いてますけど、私は小学生の頃から、『日本にもピラミッドがあった』だとか、『キリストの墓は日本にある』だとか、『私はUFOに連れ去られた』だとか、いかがわしい本(笑)が大好きで読み漁りましたから、「ははあ、あれね」なんて直ぐに分かりますけど、普通の人たちは、そういったいかがわしい世界には不慣れだと思いますから・・・
ちなみに、あれから60年近く経ちますけど、そういったいかがわしい本の内容って、まるっきり、何も、変化もしなければ進化もしていないのです。これだけ文明が進歩しているにも関わらずwww
そういえば、まるっきり今の文明社会とソックリなものを想像して、UFOなんかの飛来も想定して書かれたSF小説って、大正時代にはすでにあったって知ってますか?100年くらい昔に、です。それを考えると、SF作家なんて人たちこそ宇宙人じゃないのか?!なんて思っちゃいますけど、あの人たちの頭の中ってどうなってるんでしょうね。
つまりは妄想たくましい人たちというのも沢山いて、ゲームの中の世界みたいなのが現実に起きていると思い込んで、なんでもかんでもそれに当てはめてっちゃう性質の人たちもいる、ということです。
ですから、「えー、ウッソー\(◎o◎)/!」というものに出くわしたら、それを信じちゃうんじゃなくて、ホントにウソかも知れないのですから(笑)、あらゆる角度から見て触って引っ張って伸ばして切ってみたりしないと、騙されますよw
ということで、この名前が出て来たので、上の文章の中にもちょっと引っ掛かったのがあったのも頷けました。
日本の3大右翼として有名だった人物に、小佐野賢治、児玉誉士夫、笹川良一という人たちがいました。私が子供の頃は、日本の埋蔵金をパクって財を成したなんて言われてましたけど、いわゆる軍需産業で儲けたのでしょうね。
それと、日本が負けた時、満州(中国東北部)や朝鮮半島などに住んでいた日本人は、財産などの持ち出しが一切出来ず、着のみ着のままの状態で日本に引き揚げて来ていますよね。中には移民して成功していた人たちもいたのですが、あの相当な財産は、誰がフトコロに入れちゃったんでしょうね?
当時は、今現在の中華人民共和国(中国)なんてありません。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)もなければ、大韓民国(韓国)なんてものもありません。中華民国(当時の中国)は中国共産党(現在の中国)と戦っていて忙しかっただろうし・・・
時々、あの相当な財産が気になるのですが(笑)中国大陸や朝鮮半島の、それなりのヤカラと親しくて、“埋蔵金”をヨロシクやったヤツが日本に居たとしても不思議じゃない、ゴチャゴチャの時代だったと、思いませんか?(笑)
それから、上に書かれている岸首相(安倍晋三元首相のお祖父さんですね)の時代あたりの、ヤクザ、というものは、“任侠”が残っていた時代であって、昨今の暴力団なんかとは違いますから、そのへんを区別して下さい。
実は私の先祖の分家の三男坊だったかな、江戸時代の話ですが、侍を嫌ってヤクザになったという者がいて、村で揉め事が起きても、その先祖が手拭いを配るとゴタゴタが納まったというくらい、日頃から任侠に溢れていた人物だったといったことが、デッカイ墓石に彫ってありますwww
また、千葉県には歌舞伎にもなっている笹川の繁蔵と飯岡の助五郎という任侠がいて、一般的には助五郎が悪者になっているのですが、飯岡のお墓に行ってみると、助五郎は日頃から任侠に厚くて近隣の者たちから慕われていた。そのくらいでなければ、お上がヤクザに十手(今で言う警察官)を授けなかった、なんてことが彫られてありますwww
近年の暴力団とのニュアンスの違いが、分かって貰えるでしょうか?
ということで、余計な話をしている間に決めました。いかがわしい話はカットしますwww
なお、以下の文章の中にも、「ん?!」と思える部分がありましたが、注釈を入れていると長~くなるので、ハショリますから、細かいことは気にしないで読み流して下さい。
まあ、ゴチャゴチャの時代の出来事ですから、ゴチャゴチャだと思えば間違いないですw
◆
1960年6月10日には、東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)ジェイムズ・ハガティ(報道は「ハガチー」表記)が、空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)。
ハガティ報道官を乗せた海兵隊ヘリ(1960年6月10日)
6月15日には、
ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、
機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、
デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死。
中継をしていたラジオ関東の島碩弥も警官に警棒で殴られ負傷する。
国会前でのデモ活動に参加した人数は
主催者発表で計33万人、
警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。
日比谷公園から国会に向かうデモ隊(1960年6月15日)
このように激しい抗議運動が続く中、
岸は6月15日と18日に、
防衛庁長官赤城宗徳(あの赤城徳彦氏のお祖父さんです)に対して
陸上自衛隊の治安出動を要請した。
東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、
国家公安委員長・石原幹市郎は
「国民に銃を向けることは許されない」
などとして国家公安委員長権限でこれを拒否、
赤城も
「自衛隊が国民の敵になりかねない」
として出動要請を拒否したため、
「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。
追い詰められた岸は、実弟佐藤栄作と共に自決を覚悟した。
6月15日の惨事を
議会政治の危機
言い換えれば、社会主義革命、共産主義革命への導火線とみた
広告代理店の電通の吉田秀雄、
朝日新聞社の笠信太郎
らが主導となり、
在京新聞社7社は、6月17日に共通で
「議会政治を守れ」としたスローガンを掲げた社告を掲載。
国会デモ隊の暴力、
社会党の国会ボイコット、
民社党との過度の対立
を批判した(七社共同宣言)。
この七社共同宣言は、
「流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、
議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。
(中略)
いかなる政治的難局に立とうと、
暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」
とあり、岸政権が批判を受けた「所以」を不問に付した。
従って、安保闘争に冷や水を浴びせ、政府にとって有利な内容であった。
そのため、
警察側の暴力を不問にした、
議論の本質を「暴力反対」にすり替えた、
といった批判が当時なされ、
「新聞が死んだ日」とも評された。
『新・安保条約』は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。
またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。
岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、
『新安保条約』の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。
岸は、辞任直前に、暴漢に襲撃され重傷を負った。
当初、「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、
やがて、
戦前の東條内閣の閣僚であり、A級戦犯容疑者にもなった岸への反感と、
その政治手法に対する反感により支えられた、倒閣運動という性格が強くなり、
安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、
岸内閣が退陣し、池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、
運動は急激に退潮した。
池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、
社会党も経済政策で対抗したため、
安保闘争の影は薄くなっていった。
さらに、7~8月に行われた、青森県・埼玉県・群馬県の各知事選で
社会党推薦(埼玉では公認)候補は惨敗(山崎岩男、栗原浩、神田坤六が当選)。
総選挙でも自民党圧勝の雰囲気さえ出てきた。
10月12日、
社会党の淺沼委員長暗殺事件で
再び政権は揺らぎかけたが、池田首相は動揺を鎮めることに成功。
11月20日の総選挙では、
社会党と民社党が互いに候補を乱立させた影響もあり、
自民党は追加公認込みで300議席を獲得する大勝を収めた。
『安保条約の改定』が国民の承認を得た形になり、
現在(2012年)まで半世紀以上にわたり、
『安保条約』の再改定や破棄が、現実の政治日程に上ることはなくなっている。
余波
デモ隊側から見れば、安保阻止は実現できなかったものの、自らの運動によって内閣を退陣させることに成功した意義は非常に大きく、活動の主体となった大学生による反体制運動は、続くベトナム戦争反戦運動により拍車がかかり、1968年(昭和43年)に起こる一連の大学紛争へ至る。
一方では、安保闘争を「敗北」と総括した共産主義者同盟(ブント)をはじめ、急進派学生には、強い挫折感が残ることになった。
全学連指導者の一人だった唐牛健太郎は、安保闘争の終結直後に運動から身を引き、香山健一、森田実などは、「体制側」(保守側)に身を転じていく。
新左翼党派は、ブントが四分五裂の分裂を開始し、北小路敏ら全学連指導部の一部は、ブントから革命的共産主義者同盟全国委員会に移行するなど、再編成の季節を迎えることになる。
安保闘争は、議会政治自体への反発や否定の側面があった。
しかし、マスメディアが「七社共同宣言」で議会政治擁護をその根拠としたことで、主立ったマスメディアで、議会政治自体を否定する論調はほぼ無くなった。
また、安保闘争は、総選挙で与党の自由民主党に対する政権交代を実現させる方向には働かず、選挙結果への影響がほとんど無かったことも注目される。
1963年(昭和38年)2月26日、東京放送(TBSラジオ)が実録インタビューで構成した番組『歪んだ青春-全学連闘士のその後』を放送する。
この番組は60年安保闘争時の全学連が、戦前の日本共産党の指導者で60年当時は土建会社を経営しながら「反共右翼」としての活動を行っていた田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露する。
日本共産党は「ブント全学連の挑発者としての正体が露呈した」と指摘し、「新左翼=ニセ「左翼」暴力集団」という事実を明確にしている。
田中清玄自身は、「アジア主義右翼としての『反岸』と『反共産党』という立場から全学連に共感を持った」と語っているが、日本共産党と国民の分断を狙った工作活動であることは明らかである。
また、安保闘争における過程で岸が右翼をデモ隊に対抗する行動部隊として動員させる過程で、児玉誉士夫などを使いヤクザを動員した結果、一部の右翼とヤクザなどの反社会勢力との関係が深まり、一部のヤクザが右翼団体や政治結社を名乗り活動するなど右翼活動にヤクザがおおっぴらに食い込み、両者の区別があいまいになるきっかけとなったという評価もある。
ソビエト連邦は安保改定をソ連への挑戦と受け止め、
上記のように
社会党や共産党、総評などの安保反対活動に対して
多大な援助を行うとともに、
1956年(昭和31年)の『日ソ共同宣言』で確約された
「平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を返還する」という約束を撤回し、
米軍が駐留可能となる地域が増えることは好ましくないとして、
日本政府に対して一方的に不返還を通告した。
日本政府は、共同宣言発効の際には既に安保条約が存在しており、双方は矛盾しないとして抗議、結局ソ連が不返還通告を撤回することで収束した。
評価
『新安保条約』や『60年安保闘争』への評価は
政治的な立場により異なるが、
『新安保条約』は現在(2010年)まで約半世紀にわたり存続しており、
ソ連崩壊で冷戦が終結し、
対ソ連、対東側諸国への抑止力としての安保体制の意義は消滅したものの、
新たに北東アジアにおける軍事的脅威として浮上してきた
中華人民共和国や北朝鮮に対峙するための
日米の軍事同盟として、
そして
アメリカのトルコ以東地域への軍事的存在感維持などの
新たな意義づけのもとに維持されているなど、
日本の政治体制・軍事体制の基礎として完全に定着しており、
当時、安保改定反対の理由として主張された
『新安保条約』により日本が戦争に巻き込まれる危険が増す
との意見は現在では余り聞かれない。
さらに、1994年7月成立の村山内閣で、
日本社会党委員長である村山富市首相が国会の所信表明演説において
「日米安保堅持」と発言した上、
2009年に発足した民主党、社会民主党、国民新党の連立政権(民社国連立政権)においても、
日本社会党を継承した社会民主党の福島瑞穂党首が、
入閣後は、安保について明確に反対の意思を示していないなど、
一部の左翼陣営の中での国会内での『安保条約』を容認する動きも出ている。
マスメディアの状況も、
『日米安保』からさらに進んで、
『日米(軍事)同盟』堅持が主流になっている。
民主党、社民党、国民新党は、
沖縄県の在日米軍アメリカ海兵隊が配属されている普天間基地の
県外移転を公約に掲げた。
これは一つの基地の問題で、『日米安保』自体の改変ではなかったが、
全国紙の『朝日』『読売』『日経』『産経』4紙は、
いずれも『日米同盟』を危うくする物として、これを批判。
自公連立政権で米国と合意した『沖縄県内の辺野古移設案』を変えることの無いように主張し、
あくまで県外移転を求める沖縄県の地元2紙(琉球新報、沖縄タイムス)との
論調の差は際立った。
地方紙は沖縄以外も、
石川県地方紙の北國新聞、三重県地方紙の伊勢新聞を除くと
辺野古移設には慎重な論調が主流であった。
また、米国側は辺野古移設が「唯一実行可能な選択肢」という態度を取った。
その結果、鳩山政権は内外の批判に屈する形で辺野古案を受け入れ、
閣議での署名を拒否した福島瑞穂特命担当大臣を罷免。
社民党は連立を離脱した。
このことは、全国規模のマスメディアに『日米同盟』を自明とする認識が定着し、
安保破棄は無論のこと、
僅かな縮小に対しても、それを阻止する論調が主流になったことを示した。
なお、小室直樹や西部邁などは
「安保反対と言って騒いでいた中に
『安保条約』の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」
と公言している。
西部は当時全学連中央執行委員をしていた。
70年安保
10年間の期限を迎えた『日米安保条約』が自動延長するに当たり、
これを阻止して、条約破棄を通告させようとする運動。
学生の間では1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて
全共闘や新左翼諸派の学生運動が全国的に盛んになっており、
東大闘争、日大闘争を始め、
全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、
「70年安保粉砕」をスローガンとして
大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。
街頭闘争も盛んに行われ、
新左翼の各派は、
1967年(昭和42年)10月、11月の羽田闘争、
1968年(昭和43年) 1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争、
4月の沖縄デー闘争、
10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)、
1969年(昭和44年) 4月の沖縄デー闘争、
10月の国際反戦デー闘争、
11月の佐藤首相訪米阻止闘争
などの一連の闘争を「70年安保闘争の前哨戦」と位置づけて取り組み、
「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、
投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。
国会前へのデモンストレーションは1970年(昭和45年)6月14日に行われたが、
ニセ「左翼」暴力集団の各組織は
その2年前からの街頭実力闘争ですでに疲弊しており、
当日のデモンストレーションを、「威力闘争」あるいは「政治戦」と位置づけて、
大勢として、実力闘争よりも大衆動員に力を入れた。
『安保条約』は自動継続となった事もあり、
個別の『安保条約』そのものに対する一般的な運動としてはあまり盛り上がらず、
少数のニセ「左翼」暴力集団各派の運動として終始した。
社会党や共産党などの革新勢力は、
「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの「国民運動」として位置づけ、
70年の「自動延長」そのものには60年安保闘争ほどの力量を割かなかった。
「安保延長反対」の世論と運動への国民の支持も少なくなかったが、
ニセ「左翼」暴力集団の暴力的行為に嫌悪感を示した国民が多数いたため、
幅広い市民の参加が見られなかった。
これはニセ「左翼」暴力集団の大衆運動の分断の一つである。
70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、
当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、
「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、
佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。
それでも、学生運動、新左翼運動を続ける者はいたが、
連合赤軍によるあさま山荘事件、
そして発覚した山岳ベース事件での暴挙が国民に知られると、
その凄惨さから、
学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされ世間から見放されるようになった。
それまで左翼を擁護していた知識人たちも、
一斉に手の平を返して左翼運動を批判するようになり、
新左翼の勢力は一気に退潮した。
※参照
【スターリン批判】
スターリンの死去から3年後の1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの「個人崇拝」「独裁政治」「粛正」の事実を公表した。
特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となった「キーロフ暗殺」に至る陰謀についての詳細が明らかにされた。
フルシチョフは、全ソ労評議長としてスターリンに直接使える立場にあった。
すでに西側のシンパから、「ソ連とスターリン体制への失望」が表明されてはいたが、これにより、スターリンの名は、国際共産主義運動の王座から、決定的に引きずり降ろされた形となった。
↧
(1440) 安保闘争/だから言わんこっちゃない(1)
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