ソネブロが昨夜は大掛かり(?)なメンテナンスに入りましたね。見て読むだけは出来ましたが、更新などが出来ませんでした。
それとは無関係に、私も昨日の夕方近くからメンテナンスに入りました。前の「夜空」だったかな、青地のテンプレートを、気分屋にしては、凄まじく珍しく、3年も使ってましたからね。
「青」なので、字の色が問題でした。白地のテンプレートが圧倒的に多いために、変えると、薄い水色で書いてある記事が見えにくくなっちゃうし、黒地なんかだと、反対に文字がやけに輝いちゃう。それで仕方なく「夜空」を使い続けていたのですが、もうーやだ!もうー飽きたあああ!!(笑)
昨日、ガマンの限界が来て、ということは、私のガマンは最高で3年くらい持つらしいですが、思い切って、この「未来」に変えました。“未来”にしては、サイドが“お先が真っ暗”なんですけど(笑)
そんなワケで前の記事が、当分の間は読みにくいですけど、お許し願います(*^_^*)
模様替えの第一弾は、「ボランティア」の話をします。
「ボランティア」の本来の意味は「志願兵」「義勇兵」ですが、昨今では、「勤労奉仕」のようなものに使われていました。
ところが最近、若者が、「自分探し」「自己存在の証明」の為にボランティア活動に参加することが、急激に増えています。東日本大震災の救援活動でも、それが顕著でした。
その現象を、私の独断と偏見で考えてみたいと思います。
千葉県では年に一度、「ゴミゼロの日」があって、県下一斉に、主として自治会単位でゴミ拾いをやるのですが、当地は、市であるにも関わらず、信じられないことに、警察署が無い、という、昔から文化の低い無法地帯ですから(笑)農家の庭先や、畑の中にまで、空きカンや空き瓶などを、車の窓から投げ捨てていくヤツらが珍しくありません。
近年は畑を耕すのはトラクターですから、非常に危険なので、道端だけでなく畑の中も見わたして危険物を拾っていましたけれど、ここ数年は、シルバー世代などが週に1度とか拾って下さっているので、ゴミゼロの日は、配られた袋がカラッポということが多いです。
この「ゴミゼロ」の場合は「勤労奉仕」であり、「毎週やっている」のは「ボランティア」になります。
私もシルバー世代なので、時々回覧板で募集しているゴミ拾いボランティアに参加すべきですけれども、朝の8時30分からというのがネックになっていて出来ません(>_<)年寄りは朝が早いなんてのは真っ赤なウソで、私の父も朝は遅かったですが、優性遺伝子によって、私も“朝”なんて、ほとんど無いのです(^^;
冗談はさておき、私の感覚としての「ボランティア」というものは、
①世話好き、おせっかいやきの性質の人
②ガレキを片付けたりするのが大好きな人
③子供が大好き、お年寄りが大好き、なんて人
④定年後のように、自分の人生の礎を築き終えた後で、ヒマしてる人
⑤休日に、ただ寝てるとかじゃなく、何かやりたいと思っている人
そういった人たちが、それぞれに適した活動をやることだと思っています。
ところが前記の「自己存在の証明の為に」となると、私の基本理念からは、大きく外れます。自分の部屋でさえ片付けられないような性質の人が、東北にガレキの片付けに行って、どれほどの意味があるのか。
別に子供なんて好きじゃない。あるいは自分の祖父母でさえロクに接したことがない、なんていう人たちが、養護施設や老人施設に行って、何をやろうというのか。
そもそも自分の基礎を築けていない人が、な~にが社会貢献だ!!
あ、自分へのボランティアね(^^;
当人にとっては意義のあることかも知れないけれども、来られた方は、有難迷惑でしかない。
◇
「自分探し」という言葉は20年くらい前から世界的に登場したもので、昔は、「大きくなったら何になるの?」「兵隊さん!!」なんていう具体的な目標・希望・憧れといったものが、バブルによる豊かさや、冷戦終結によるグローバル化などで、余りにも多角的に世界的に溢れ返って、どれが自分に適しているのか撰びかねる時代に突入したことからでした。
ところがその華やかに飛び回ったシャボン玉が一瞬にして弾けて消えて、目標や希望や憧れは、遥か遠い存在になってしまいます。現実的なものとしては、一流大学を出て、一流企業に就職して、という、その一流企業が、潰れたりしました(^^;
そうなると、目標を持てない人たちが大量に溢れ返りました。それが今現在ですね。
しかし、ちょっと目線をズラしてみましょう。
◇
あの豊かさの時代に、大学(短大・専門学校などを含む)進学率はウナギ上りに上がり、今や、70~80%です。10人のうちの、7人か8人は大学あるいはそれに相当する学校を出ているワケです。
それを意識している人たちは、はたしてどのくらいいるでしょうか。
私の時代、高校進学は50%くらいでした。その50%の中で大学等に進学する人は25%くらいでした。全体で見ると、大学等に進学するのは、10人に1人、いたか、いないか、だったのですが、その時代では、大学卒というのは「エリート」でした。企業などへの就職率も良かったと思います。
しかし、10人のうちの7人か8人が大学等に進学している時代ともなると、私の時代の高校卒(10人のうち5人)よりも率が高く、ほぼ、私の時代の中学校卒に近い数字になるのです。
ということは、世界でも指折りの豊かな日本においてさえ、全ての職場が一流企業になったワケでもあるまいし、私の時代なら中学校を卒業して就職して、自分で運命を切り開いて行った人たちと、同じ職場に、大学卒の人たちが働かなくては、数が合わないのです。
ところが、親も、本人も、自分は大学(大学院への進学率も相当高い)を出ているのだから、一流企業や、有名会社、あるいは雇用条件の良い会社に就職出来るのが、当然、といった、40年も昔の意識のままでいるのではないか、という気がするのです。
契約社員、派遣、パート、重労働、汚い仕事、低賃金。そんな職場しか無いのは、世の中が悪い!政府が悪い!!自分は大学(or 大学院)まで出ているのに、その俺様を雇わないなんて、会社が能無しなんだ!!
でも、昔も今も、ご希望の会社に就職出来る人なんてのは、やはり、10人に1人、いるか、いないか、だと思うのです。あとの9人は、自分が生きているために仕方なく仕事に就いて、カネを貰って、食い物を買うのです。
そして、余った時間に、あるいは定年後などに余裕が出来たら、自分の好きなこと、やりたいことをやる。その中の1つが、ボランティアだと思うのですが、どうでしょうか?
ゆとり教育の弊害でもなく、グローバルの所為でもなく、アホな政府が能無しだからでもなく、社会が悪いのでもなく、40年も50年も前の意識のままでいる人たちが、余りにも多い結果が、昨今のニートだとか、自己存在の証明の為の有難迷惑ボランティアなのではないかと、そんな気がするのです。
↧
私も“メンテナンス”に入りました\(^o^)/
↧