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(1376) Billboard 200 とは全く無関係に「下村湖人」w

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『次郎物語』のレヴューの中に、引っ掛かる言葉がありました。〔友愛〕とか〔友愛塾〕というものです。うおっ(>_<)と思いましたね、真っ先に、鳩山“ルーピー”由紀夫、及び、その祖父である鳩山一郎が浮かんだからです。



しかし、調べてみると、日本に最初に〔友愛=fraternity〕という言葉をもたらしたのは、あの、ジョン・万次郎だそうで、鳩山一郎がオーストリアの・・・誰とかの影響を受けて解釈した友愛とは、ちょっと違うようです。



その辺を書き始めると再来年あたりまでかかりそうなので(笑)大いに端折って、現代語では〔友愛〕というと、〔You & I〕的な兄弟愛とか、そういった意味合いでしかないものですけれど、明治期においては、むしろ〔博愛〕といった意味合いが強かったようです。



Wikiに非常に分かりやすい言葉で書かれていましたが、〔友愛〕というと対象は人間だけれども、〔博愛〕というと、その対象は動物や植物にも及ぶといったものです。人工的な愛ではなく、より自然の愛に近いものでしょうか。



で、日本では民族意識の問題なのか、キリスト教が広まりませんから、〔友愛〕というのは、そんな神だヘチマだなんてものから離れた、兄弟の契りとか、兄弟仁義とか、そういった感じの意味だったらしいので、『次郎物語』に登場する〔友愛塾〕は、ルーピー家が提唱する友愛とは、まるで無関係だということが分かって、私は安堵したのですwww







下村湖人(しもむら・こじん)
1884年(明治17年) - 1955年(昭和30年)
Wikipedia



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佐賀県神埼郡千歳村(現:神埼市)出身。東京帝国大学英文科卒。

大学卒業後に母校
佐賀中学校教師や鹿島中学校
校長等を歴任。

教職辞任後は、
同郷で高校・大学同窓の
田澤義鋪
に従い、講演や文筆活動で社会教育に尽力。

青少年に影響を与えた『
次郎物語
』の執筆で知られる。



学生時代


生まれて間もなく里子に出されるが、4歳の時に実家に戻る。


佐賀中学校時代から、雑誌に詩歌を内田夕闇(うちだゆうあん)の筆名で投稿。


このころから、
高田保馬中島哀浪山口亮一
らと親交があった。


熊本の
第五高等学校
では、
高田とともに五高校交友誌「龍南」の編集委員を務め、
その文才は五高随一と謳われた。


東京帝国大学在学中には、
「帝国文学」に小説や詩歌を発表し編集委員を務める。


教職員時代


大学卒業後は、
学資支援等を受けていた下村辰右衛門の長女菊千代と結婚して
養子に入り、
佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長を務め、
さらに同郷の
田澤義鋪
の勧めで
台中第一中学校校長・
台北高等学校
校長を歴任。


1931年(昭和6年)
に教職を辞任し、
1933
年(昭和8年)

田澤義鋪が主宰していた
日本青年館
別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となる(~1937)。


文筆・講演活動時代


1932
年(昭和7年)
より、筆名を〔虎人〕から、〔湖人〕に変更。


1936年
年(昭和11年)
から、
代表作と言える小説『
次郎物語』の連載を、雑誌『新風土』
で開始。


1954年(昭和29年)
までに全五部を刊行する。


予定では第七部まで続く予定であったが、病を患ったため果たせなかった。


1938年(昭和13年)
に、壮年団中央理事。


翌年には〔煙仲間運動〕を提唱。


1947年(昭和22年)
NHK
で『郷土建設と小豆島の煙仲間』を放送。


1948年(昭和23年)
には、
復刊された雑誌『新風土』で、『次郎物語』第四部を執筆。


1953年(昭和28年)
に、全日本青年産業振興会顧問兼監事。


翌年に
『次郎物語』第五部を刊行し、
田澤義鋪の伝記『この人を見よ』を脱稿するが、
病床に伏す。


1955年(昭和30年)脳軟化症老衰
の為、70歳で死去。






ここで私は、ハタッ!と膝を、叩きませんでしたけれど(笑)ん?ひょっとして・・・と思ったのです。


私が子供の頃(昭和30年代)は、各地で〔婦人会〕や〔青年団〕といった活動が活発でした。婦人会では、当地でいえば房総名物の巻き寿司を作ったり、ありぎれなどで、お人形を作ったりしていました。


中に稲ワラを詰めた50cmくらいのデッカイお人形さんで、私も、近所の女の子たちも、それで遊びましたが、でも田舎だし、オテンバでしたから、人形遊びよりは、カエルを捕まえて・・・(爆笑)


どうしても子供時代の話をすると、あのカエルは、あの後、どうなったのだろうと自責の念にかられるのですが、カエルを捕まえて自転車の空気入れで空気を入れると、パンパンに丸くなるんです。その後は、そこいらへんにスッポって終わり。


トンボやセミやカブトムシを捕まえると、羽を半分くらいに切って遠くに飛べなくしたり、糸をつけてブンブン回して自分の回りを飛ばしたり、考えてみると残酷な遊びをしましたけれど、昔の子供はそれが普通で、そしてその日常から、生や死を身近に捉えて成長して行ったように思います。


いつしかそれが人工物の中だけで成長し、人間といえども自然界に棲息する生物である故に持つ残虐性を、消化することなく抑えつけられて持ち続けてしまうことの恐怖。昔の乾いたイジメと、現代の湿ったイジメの違いなどを見聞きしたりする度に、ふと、そんな考えも頭をよぎります。


私が一番好きな遊びは、なぜか木登りで(笑)、ご近所にはその旨、断ってあるので大丈夫ですが、今でも、木の枝の剪定とか、なにかと理由をつけては木に登ったり、パーゴラの上を這ってたりwww


話を戻すと、今でも田舎では青年団が消防の手助けをしたりしていますが、そういった活動は年々、寂れてきていますね。自治会にも入らない人たちが多くなっている時代。そして、農家がほとんどだった時代と違って、お勤めの時間も休日もバラバラでは、地域の集まりに出席するのも、ままなりません。


だからこそ、子供会というのは、とても重要だと思うのですが、それさえも参加させない人たちが増えたとか。役員をやるのも大変だという事情もあるだろうし、子供会の活動そのものも、地域の集まりからは逸脱して、単なる物見遊山的になっているような気もします。


私の子供の頃の青年団というのは、たぶん、中学校を卒業すると仲間入りしたんじゃないかな。公民館かどこかに畑仕事が終わると集まって、酒を飲んだり歌を歌ったりしながら、人生勉強だの性教育だの恋愛問題だの、先輩から後輩に、いろんなことが教えれていたのではないかと思います。


そしてお祭りなどだけではなく、災害の時などにも力を合わせて働いたりと。


そういった地域に密着した婦人会や青年団の詳細が分からないのですよね。なにやら気取った感じのものだったり、政治思想的なものが垣間見えたりする活動は見えるのですが。


早い話が、最近の女子会みたいな婦人会や、飲み会みたいな青年団といった、素朴な集まりが、ひょっとしたらこの、下村湖人や、田澤義鋪、あるいは〔煙仲間〕という、なんじゃあ?そりゃあ!といったものから見えるのではないかと、そんな風に思ったのです。


つづく。






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