2011年11月12日
西岡武夫氏が育てた「日教組右派」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111112/stt11111221010005-n1.htm.
西岡武夫参院議長死去の報を聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、
「新自由クラブ」でも「菅直人首相への退陣要求」でもなく、
日教組分裂のきっかけとなった、「西岡問題」だった。
自民党文教族だった西岡氏が、
落選中の昭和61(1986)年4月30日、
中曽根康弘首相や海部俊樹文相らが呼びかけ人となって、
「西岡武夫を叱る会」と題した励ます会が開かれた。
そこに日教組の田中一郎委員長が駆けつけてスピーチした。
「この3年間、西岡さんが(国会に)いてくれたらと思わない日はなかった。
早く復帰して、これまでの倍働いてほしい」。
田中氏は長く国会対策を担当し、
日教組との話し合いを模索する西岡氏と、
飲食店などで接触を重ねてきたのだ。
西岡問題が発覚すると、
日教組では
田中氏ら主流派右派(社会党右派系)が、
主流派左派(社会主義協会=社会党左派系)や、
反主流派(共産党系)の
猛反発を受け、「四百日抗争」に発展。
平成元年には反主流派が分かれ、
今の全日本教職員組合(全教)を結成した。
6年後、
日教組は文部省との協調路線を盛り込んだ運動方針を決定し、
「歴史的な和解」と呼ばれた。
「西岡-田中ライン」の延長線上の動きだ。
地方ではそれ以前から、
日教組右派の県教組
(右派といっても日の丸を掲げているわけではなく、相対的に左でないだけ)と、
教育委員会との
「対話」「協調」、そして「癒着」が続いてきた。
県教組の役員経験者が、
教育委員会の幹部や校長になるなど、
組合運動への参加が出世の道だ。
左派と違い、過激な闘争は封印している。
保守系の首長や議員の選挙を、
県教組が陰で応援することも珍しくない。
関東でいえば、
神奈川、千葉、茨城が日教組右派の代表格。
関西では、
兵庫県教組委員長だった石井亮一氏が、
県政界に強い影響力を持ってきた。
民主党政権になって、
山梨県教組委員長だった輿石東氏が幹事長になり、
元日教組教育文化局長の神本美恵子氏が文部科学政務官に就任するなど、
日教組はついに権力の表舞台に登場した。
露払いを務めたのが自民党時代の西岡氏ということになる。
西岡氏は晩年は日教組批判も口にしていたが、
55年体制の国対政治のような手法を、
教育の世界に持ち込んだことをどう考えていただろうか。
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(1358)教科書採択:日教組が表舞台に立った
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