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(860) 中世日本の節分

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豆まき 
  (※画像の歌詞は違います。)












菅原正子著
『日本人の生活文化』
2008年2月20日発行



第二部 行事と儀式
第一章 年中行事




(10) 節分





節分は、季節の変わり目を意味し、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいった。


特に立春の前日は、旧暦では12月末になることが多く、1年の変わり目として行事が行われ、立春の前日のみを節分と呼ぶようになった。


朝廷では12月晦日に、中国の大儀(たいな)の行事を取り入れた追儀(ついな=おにやらい)の行事を行った。


追儀は、悪鬼を追い払って新年を迎えるために、大舎人(おおとねり)寮の人々が方相氏(ほうそうし)・振子(しんし)に扮して悪鬼を追い払う行事であったが(『内裏式』)、やがて方相氏が鬼とされて殿上人たちに追われる身になった(『江家次第』『公事根源』)。


この追儀の行事が節分の豆まきに発展したと考えれる。





節分の豆まきは、室町時代から文献にみえる。


『壒嚢鈔』巻一には、「節分ノ夜大豆ヲ打事ハ何ノ因縁ソ」として「慥(たしか)ナル本説ヲ不レ見」とある。


さらに、相国寺の住持瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記『臥雲(がうん)日件録』文安四年(1447年)一二月二二日条に、


   明日立春、故に昏に及び、景富室毎に熬豆(いりまめ)を散らし、
   因って鬼外福内の四字を唱う、蓋しこの方駆儺(くだ)の様也。


とあり(原漢文)、景富という男性が各部屋に煎り豆をまいて「鬼は外、福は内」と言っており、今の節分の形がすでにあった。





さらに、『宗長日記』大永六年(1526年)一二月には、節分の豆まきの風習として「京には役おとしとて、年の数銭をつつみて、乞食の夜行におとしてとらする事をおもひやりて」とあり、戦国期の京都では年齢の数だけの銭を乞食に与える風習があった。


80歳になる蓮歌師宗長は、80銭もの銭をどうして落とせようかと嘆いている。


この乞食に銭を与える風習は貞享五年(1688年)刊の『日本歳時記』にもみえるので、江戸時代前期にも存在した。


しかし、安永九年(1780年)の『閭里歳時記』には、豆を歳の数だけ取って食べるとあり、江戸時代中頃に歳の数の豆を食べることに変化したのであった。












すごいですねえ、「鬼は外、福は内」って、560年以上も前からの行事だって!!



1447年にはもう定番になっていたようですから、600年くらい前からでしょうか。ただ、乞食にお金をあげる代わりに、自分で豆を食うようには変化したようですね。80銭というと、今ならいくらぐらいでしょうか。1歳の子が100円とすると8千円かな。そんなに乞食にやるくらいなら、邪鬼を自分で食っちゃおうってことになったのでしょうか、強くなりました(笑)



私は、きな粉ですら余り好きじゃないですから、大豆を食うなんてのも苦手なので、豆ならなんでもいいか!と、今年は甘納豆を用意したのですけれど、買う時にふと、メタボ鬼を呼び寄せちゃうかな?という思いが・・・(笑)



ちなみに、今年の節分(2月3日)は、なんと、旧暦では〔1月1日〕なんですよねえ。昔は節分を「年越し」と言って、年越しソバを神棚にお供えしたりしたので、暮れに年賀状を書きそびれた私は、旧暦でやろう!!と思ったのですけれど、なにやら今年は、年が明けたその日の、夜には、早くも年越しらしく、どうすりゃいいんだ \(◎o◎)/ 来年になっちゃうのかな?



と、バカなことを言いながら、中世の日本の生活文化をお仕舞いにします。













(847)  
中世日本の男と女とジェンダー


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(855)  中世日本では男色も普通だった\(^o^)/


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(860)  中世日本の節分












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