BON JOVI ~ Tokyo Road (1985- Live in Tokyo 1990.12.31)
永野護著『敗戦真相記』
2002年7月15日発刊
日本人の将来はどうなるか (2)
以上述べた政治、経済の当面の推移とにらみ合わせて、ポツダム宣言に結びつく我が国民の関心事は、恐らく賠償問題だと思います。この賠償問題はポツダム宣言中には、「日本国はその経済を支持し、かつ、公正なる実物賠償の取り立てを可能ならしむるがごとき産業を維持することを許さるべし」(第 11 条)とあるだけですが、すでに「公正なる賠償」といい、かつ、国民の生活を維持した残りをもって、この賠償を支払うだけの産業の維持を約束しているのですから、第 1 次世界大戦後、ドイツに課せられた天文学的数字を連想することによって、あたかも賽の河原の石積みのごとく、いかに働いても働いても追いつかないのではないかというような心配をする必要はないだろうと、私は予測しています。
その上、賠償を実物賠償と限定しているところに、アメリカの千万無量の含みがあります。実物賠償というと、ご承知の通り、我が国の生産設備や各種の原料資材はほとんど、戦争中に使い尽しており、これ以上、日本から持ち出すものは極めて少量にとどまり、わずかに台湾、満州、朝鮮のごとき喪失領土における各種資産をもって、これに充当する程度のものでしょう。
その次には、毎年の商品をもって賠償に充当することが考えられるが、しからば、具体的に如何なる商品を取り立てるかということになると、これもなかなか難しい。まず、生糸と誰でも思いつくが、これをあまり大量に持っていくと、せっかく勃興したアメリカの (99) ナイロン産業を脅かします。あとは、茶、瀬戸物、玩具というようなものだが、そういう雑品は自ずから量が限定される。そこで、日本の紡績品は、アメリカ本国には要らないけれども、アメリカの支配下の東亜諸国に送ることが考えられるが、これもあまり大量に出すと、肝腎のアメリカ紡績品の販路をふさぐ自殺行為ともなりかねない。こう考えると、抽象的には、実物賠償というが、具体的に、ではいったい、何を取り立てるかとなると、非常に難しい。何となれば、アメリカ自身は、日本の商品なんか、それほど必要ないのみならず、かえってアメリカ自身の産業に実害を及ぼす恐れさえある。とすると、残るのは、懲罰的な意味で賠償を課し、取り上げた品物は太平洋の真ん中に捨ててしまうというような手もあるのですが、これは理論的にいうべくして、なかなか難しいことと思います。
しかし仮に、実物賠償を取りたてるために連合国側が進んで日本に対し設備・原料を供給し、その製品を持ち帰ることを要求するのであれば、1,000万人に近い失業者が出ることが予想されている日本の現状においては、むしろ救いの神というべきです。しかも、賠償を完了した暁には、それだけ日本国民の生産力に余力が生じ、生活水準の向上をはかることができるのですから、ある意味で一種の強制貯金の働きともなり、また、前途に対する光明ともなり性質のものです。この故に私は、賠償問題に対しては、決して行きすぎた心配をしていない。この賠償問題を前途に控えるために、全く立ち上がる気力を失い、いたずらに懊悩煩悶している日本の産業指導者は、よく、私の申す点を深思され、国家再建の先頭に立って奮励せられんことを切望する次第であります。
戦後日本の重大課題は、このほかに、インフレーション問題、失業問題など、次から次へ挙げられます。そのうち、今後の青少年の教育問題は日本再建の根本問題ですから、これに対して寸言を費やしたい。明治維新前における日本の教育目標は、武士としての人間の完成にあったが、明治以後は、いたずらに欧米の物資文明を模倣することに急なるあまり、人間としての鍛錬を忘れて技術の修得をもって唯一の目標とし、その人生観は立身出世主義に堕するに至ったのです。幸い、明治維新から大正の初期にかけては、日本の中心指導者に明治維新前の武士道的教育を受けた人たちが残存しておりましたので、かかる立身出世主義の技術的人物でも充分に補助的な働きをなし得た。いわば大黒柱がたくさんあったのですから、畳建具の役をする者が重宝がられたとも見られましょう。しかるに昭和年代に入り、維新前の教育を受けた人たちがすべて死に絶えたあとは、大黒柱のない、建具ばかりつぎ合わせたような建物となり、そこに、この大暴風雨が襲ってきたのですから、ひとたまりもなく吹き倒されてしまった次第です。
その意味で私は、新しい人格教育の必要性を痛感せざるを得ません。この人格教育は、大東亜戦争最中、さかんに鼓吹された、いわゆる、みそぎとか、練成とかいうものとは本質的に異なるものです。あの、みそぎなどと称する極めて短期間の実用的なる人物練成行事は、結果的に見ますと、我が国民に民族的自惚れを植えつける魔術だったともいい得ましょう。これらの練成参加者に限らず、日本国民全体が、軍部がその侵略的野望を遂行する方針として採用した、八紘一字とか、日本民族の優秀性とかいう、心理的宣伝を、漫然と鵜呑みにして、いい気になっていたのですが、終戦後の今日、冷静に自己批判してみますと、日本の立ち遅れは、単に科学物資の方面だけでなく、人間的に見ても非常に遺憾な点が多かったことを、次から次に自覚せざるを得ません。
この意味で、今後の教育問題の成否は、日本再建の運命を根本的に決するものであり、その方向は、智能の士よりも、真理の人であり、従来の小手先の器用なる人間をつくる技能万能主義を改めて、人間として信用し得る人格本位の教育制度を確立すべきであると信じます。その意味で私は、数百万にのぼる帰還将兵の今後の働きに対して大いなる期待をかけています。明治政府の中堅人物が維新の風雲のなかから輩出したごとく、大東亜宣戦の哨煙弾雨の中から、日本再建の大偉人が現われることを期待するのは、恐らく私一人ではありますまい。
さて私は、ポツダム宣言下における今後の日本の動向を、政治経済の角度から観測し、その結果、断じて一部国民が考えているような暗い運命のみが、我らを待っているのでないという結論を得たのであります。なるほど、目前の食糧問題、失業問題は深刻ですが、これは、決して解決し得ない問題ではない。これらの問題が社会不安から社会擾乱 (じょうらん) に発展するまでには、いくらでも阻止する手が成り立つ。ことに、この点でプラスと考えるべきは、この大東亜戦争が・ 予期せざる一種の無血社会革命を起こし、 戦前の富裕階級が実質的に貧乏になり、 農民、労務者のごとき戦前の窮乏階級が一般的に余裕を持つに至ったことでしょう。たとえば、富豪の持っていた一升の酒に水を入れ一斗とした上、富豪には、そのなかの二升を与え、残りの八升を戦前窮乏していた農工階級に分配したという結果になっており、日本全体を通じてみると貧富の差が著しく減少しているのであって、この事実は、目前の危機を切り抜け、政治経済の民主化をはかる上に非常に役立つと思います。
こうして一度、目前の危機を切り抜け得たならば、我々の将来は相当、楽しい設計図を描くことができるのであって、仮に今後、日本人が 1 日 10時間勤労するとして、恐らく日本人だけが単に衣食するという程度なら 1 日 3時間で足りるでしょう。あとの 2時間は戦災復興のために働き、残りの 4、5時間を賠償支払いのために働く。仮に日本国民全体が、そういう意味の勤労生活を今後営んでいったとしたら、復興が終わり、賠償を払い切った後には、日本人は午前中だけ働いたならば、衣食住の資料は充分に賄えて、あとはまったく人間としての内容を豊かにするための時間として使い得るわけになり、午前中だけ会社に出る、工場で働く、農園を耕す、午後は魚を釣りに行きたい人は魚釣りに、ダンスをやりたい人はダンスをやるということになる。これは膨大な軍備費から解放された平和国家の特権ともいうべきであります。
この点では、四面、海を環 (めぐ) らした我が地形は、海運に、貿易にすぐれた条件を与えており、スウェーデンやノルウェーの漁業国とも拮抗できるし、豊富な水力電気のエネルギーと手先の器用な我が国民性と相俟って、スイスを凌ぐような精密機械工業の勃興も期待できるし、また、農耕技術の科学的進歩により、デンマークの文化的農村を思わせるような豊饒な田園風景も現出するでしょう。しかも、我が国の従来得意とした各種繊維工業が、世界市場を相手とする日も必ずカムバックすると思われますし、また、幾度も繰り返したように、我が方がポツダム宣言に忠実なる限り、連合国も、必ずそういう新生の日が来ることに力を貸してくれることと信じられます。だから、目先は非常に苦しいが、これを何とかして突破したならば、その先は非常に楽しい。そこは武装解除の国家ほど幸福な国家はないので、今まで毎年毎年、数百億円、武力のために消費していた財政を、全部、教育と民生と発明発見とに費やしたならば、恐らく世界有数の文化国が生まれるものと考えます。
なるほど、我々は武力を失った。武力を持たぬ限り、従来の意味の「大国」として立ち上がることは不可能でしょう。しかし私は、この第 2 次世界大戦が終わった後も、なお死に物狂いで原子爆弾の研究か何かを続けなければならない、いわゆる大国というものが、それほど幸福であるかどうか、疑うものです。これは決して負け惜しみでもなんでもない。我々は、戦に敗れたけれども、そして戦の不幸なる贈り物ではあったけれども、国民としては、人間の威厳をとり戻した民主主義的な生活を創造することができるし、国家としては、日本本来の平和国に邁進する道が開かれたといえるでしょう。この点では、ペリー提督と明治維新と結びつくように、(100) マッカーサー元帥と昭和維新と結びつくような、運命の示唆を感ぜざるを得ないのです。こう考えてくると、私は戦争の廃墟の上に再建されるべき新しい日本の前途に、洋々たる希望を持ち得るのであります。
思えば、皇紀二千六百年、この長い過去の 2,600年と、さらに、それより長い将来の日本の国の生命を思うときに、明治維新に始まった、ここ 80年の変化は大相場のアヤに過ぎないともいえましょう。私は、この悠久なる国史の発展の跡をふり返るときに、日本国民が如何なる苦難をも突破し得る適応性を有することを認めざるを得ないのです。
私はこの書で、いろいろな角度から敗戦の真相を究明しましたが、これは、科学と道義の裏づけなき独善的民族観が今日の悲運を招いた戒めとしたのであって、我々が、「万世のために泰平を開く」の御聖旨を奉戴して、新しき平和国家の方向に立ち上がるならば、必ずや、「御民、我れ生けるしるしあり」の日を迎えることを確信することは、いま、この書を読み終わった読者諸君と同様であります。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
( )
【人物・用語解説】
(99) ナイロン産業
ナイロンは世界で初めて工業的に生産された合成繊維。
※ 戦争中にパラシュートがより軽く飛ぶようにとして開発された繊維。
同様にコンピューターも爆弾が正確な位置に落とせるようにと開発された機械。
それらが戦後、日用品に転化された。
(100) ダグラス・マッカーサー (1880―1964)
米国の軍人。アーカンソー州生まれ。
1903年、ウェストポイント陸軍士官学校卒業。
1930年、陸軍参謀総長。
1935年、フィリピン軍事顧問。
1937年に退役したが、日米関係の緊迫に伴い、1941年 7月、米極東軍司令官として現役に復帰。
1942年、フィリピン・レイテ島に上陸。
同年、元帥。
戦争終結とともに連合国最高司令官として憲法改正など対日占領政策を指揮。
当初は民主化、改革に重点が置かれていたが、米ソ冷戦の深刻化とともに反共色を強めた。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、国連軍最高司令官となり、作戦を指導するが、中国本土攻撃を主張して、トルーマン大統領と対立、1951年に解任される。
著書に『マッカーサー回想記』がある。
2002年7月15日発刊
日本人の将来はどうなるか (2)
以上述べた政治、経済の当面の推移とにらみ合わせて、ポツダム宣言に結びつく我が国民の関心事は、恐らく賠償問題だと思います。この賠償問題はポツダム宣言中には、「日本国はその経済を支持し、かつ、公正なる実物賠償の取り立てを可能ならしむるがごとき産業を維持することを許さるべし」(第 11 条)とあるだけですが、すでに「公正なる賠償」といい、かつ、国民の生活を維持した残りをもって、この賠償を支払うだけの産業の維持を約束しているのですから、第 1 次世界大戦後、ドイツに課せられた天文学的数字を連想することによって、あたかも賽の河原の石積みのごとく、いかに働いても働いても追いつかないのではないかというような心配をする必要はないだろうと、私は予測しています。
その上、賠償を実物賠償と限定しているところに、アメリカの千万無量の含みがあります。実物賠償というと、ご承知の通り、我が国の生産設備や各種の原料資材はほとんど、戦争中に使い尽しており、これ以上、日本から持ち出すものは極めて少量にとどまり、わずかに台湾、満州、朝鮮のごとき喪失領土における各種資産をもって、これに充当する程度のものでしょう。
その次には、毎年の商品をもって賠償に充当することが考えられるが、しからば、具体的に如何なる商品を取り立てるかということになると、これもなかなか難しい。まず、生糸と誰でも思いつくが、これをあまり大量に持っていくと、せっかく勃興したアメリカの (99) ナイロン産業を脅かします。あとは、茶、瀬戸物、玩具というようなものだが、そういう雑品は自ずから量が限定される。そこで、日本の紡績品は、アメリカ本国には要らないけれども、アメリカの支配下の東亜諸国に送ることが考えられるが、これもあまり大量に出すと、肝腎のアメリカ紡績品の販路をふさぐ自殺行為ともなりかねない。こう考えると、抽象的には、実物賠償というが、具体的に、ではいったい、何を取り立てるかとなると、非常に難しい。何となれば、アメリカ自身は、日本の商品なんか、それほど必要ないのみならず、かえってアメリカ自身の産業に実害を及ぼす恐れさえある。とすると、残るのは、懲罰的な意味で賠償を課し、取り上げた品物は太平洋の真ん中に捨ててしまうというような手もあるのですが、これは理論的にいうべくして、なかなか難しいことと思います。
しかし仮に、実物賠償を取りたてるために連合国側が進んで日本に対し設備・原料を供給し、その製品を持ち帰ることを要求するのであれば、1,000万人に近い失業者が出ることが予想されている日本の現状においては、むしろ救いの神というべきです。しかも、賠償を完了した暁には、それだけ日本国民の生産力に余力が生じ、生活水準の向上をはかることができるのですから、ある意味で一種の強制貯金の働きともなり、また、前途に対する光明ともなり性質のものです。この故に私は、賠償問題に対しては、決して行きすぎた心配をしていない。この賠償問題を前途に控えるために、全く立ち上がる気力を失い、いたずらに懊悩煩悶している日本の産業指導者は、よく、私の申す点を深思され、国家再建の先頭に立って奮励せられんことを切望する次第であります。
戦後日本の重大課題は、このほかに、インフレーション問題、失業問題など、次から次へ挙げられます。そのうち、今後の青少年の教育問題は日本再建の根本問題ですから、これに対して寸言を費やしたい。明治維新前における日本の教育目標は、武士としての人間の完成にあったが、明治以後は、いたずらに欧米の物資文明を模倣することに急なるあまり、人間としての鍛錬を忘れて技術の修得をもって唯一の目標とし、その人生観は立身出世主義に堕するに至ったのです。幸い、明治維新から大正の初期にかけては、日本の中心指導者に明治維新前の武士道的教育を受けた人たちが残存しておりましたので、かかる立身出世主義の技術的人物でも充分に補助的な働きをなし得た。いわば大黒柱がたくさんあったのですから、畳建具の役をする者が重宝がられたとも見られましょう。しかるに昭和年代に入り、維新前の教育を受けた人たちがすべて死に絶えたあとは、大黒柱のない、建具ばかりつぎ合わせたような建物となり、そこに、この大暴風雨が襲ってきたのですから、ひとたまりもなく吹き倒されてしまった次第です。
その意味で私は、新しい人格教育の必要性を痛感せざるを得ません。この人格教育は、大東亜戦争最中、さかんに鼓吹された、いわゆる、みそぎとか、練成とかいうものとは本質的に異なるものです。あの、みそぎなどと称する極めて短期間の実用的なる人物練成行事は、結果的に見ますと、我が国民に民族的自惚れを植えつける魔術だったともいい得ましょう。これらの練成参加者に限らず、日本国民全体が、軍部がその侵略的野望を遂行する方針として採用した、八紘一字とか、日本民族の優秀性とかいう、心理的宣伝を、漫然と鵜呑みにして、いい気になっていたのですが、終戦後の今日、冷静に自己批判してみますと、日本の立ち遅れは、単に科学物資の方面だけでなく、人間的に見ても非常に遺憾な点が多かったことを、次から次に自覚せざるを得ません。
この意味で、今後の教育問題の成否は、日本再建の運命を根本的に決するものであり、その方向は、智能の士よりも、真理の人であり、従来の小手先の器用なる人間をつくる技能万能主義を改めて、人間として信用し得る人格本位の教育制度を確立すべきであると信じます。その意味で私は、数百万にのぼる帰還将兵の今後の働きに対して大いなる期待をかけています。明治政府の中堅人物が維新の風雲のなかから輩出したごとく、大東亜宣戦の哨煙弾雨の中から、日本再建の大偉人が現われることを期待するのは、恐らく私一人ではありますまい。
さて私は、ポツダム宣言下における今後の日本の動向を、政治経済の角度から観測し、その結果、断じて一部国民が考えているような暗い運命のみが、我らを待っているのでないという結論を得たのであります。なるほど、目前の食糧問題、失業問題は深刻ですが、これは、決して解決し得ない問題ではない。これらの問題が社会不安から社会擾乱 (じょうらん) に発展するまでには、いくらでも阻止する手が成り立つ。ことに、この点でプラスと考えるべきは、この大東亜戦争が・ 予期せざる一種の無血社会革命を起こし、 戦前の富裕階級が実質的に貧乏になり、 農民、労務者のごとき戦前の窮乏階級が一般的に余裕を持つに至ったことでしょう。たとえば、富豪の持っていた一升の酒に水を入れ一斗とした上、富豪には、そのなかの二升を与え、残りの八升を戦前窮乏していた農工階級に分配したという結果になっており、日本全体を通じてみると貧富の差が著しく減少しているのであって、この事実は、目前の危機を切り抜け、政治経済の民主化をはかる上に非常に役立つと思います。
こうして一度、目前の危機を切り抜け得たならば、我々の将来は相当、楽しい設計図を描くことができるのであって、仮に今後、日本人が 1 日 10時間勤労するとして、恐らく日本人だけが単に衣食するという程度なら 1 日 3時間で足りるでしょう。あとの 2時間は戦災復興のために働き、残りの 4、5時間を賠償支払いのために働く。仮に日本国民全体が、そういう意味の勤労生活を今後営んでいったとしたら、復興が終わり、賠償を払い切った後には、日本人は午前中だけ働いたならば、衣食住の資料は充分に賄えて、あとはまったく人間としての内容を豊かにするための時間として使い得るわけになり、午前中だけ会社に出る、工場で働く、農園を耕す、午後は魚を釣りに行きたい人は魚釣りに、ダンスをやりたい人はダンスをやるということになる。これは膨大な軍備費から解放された平和国家の特権ともいうべきであります。
この点では、四面、海を環 (めぐ) らした我が地形は、海運に、貿易にすぐれた条件を与えており、スウェーデンやノルウェーの漁業国とも拮抗できるし、豊富な水力電気のエネルギーと手先の器用な我が国民性と相俟って、スイスを凌ぐような精密機械工業の勃興も期待できるし、また、農耕技術の科学的進歩により、デンマークの文化的農村を思わせるような豊饒な田園風景も現出するでしょう。しかも、我が国の従来得意とした各種繊維工業が、世界市場を相手とする日も必ずカムバックすると思われますし、また、幾度も繰り返したように、我が方がポツダム宣言に忠実なる限り、連合国も、必ずそういう新生の日が来ることに力を貸してくれることと信じられます。だから、目先は非常に苦しいが、これを何とかして突破したならば、その先は非常に楽しい。そこは武装解除の国家ほど幸福な国家はないので、今まで毎年毎年、数百億円、武力のために消費していた財政を、全部、教育と民生と発明発見とに費やしたならば、恐らく世界有数の文化国が生まれるものと考えます。
なるほど、我々は武力を失った。武力を持たぬ限り、従来の意味の「大国」として立ち上がることは不可能でしょう。しかし私は、この第 2 次世界大戦が終わった後も、なお死に物狂いで原子爆弾の研究か何かを続けなければならない、いわゆる大国というものが、それほど幸福であるかどうか、疑うものです。これは決して負け惜しみでもなんでもない。我々は、戦に敗れたけれども、そして戦の不幸なる贈り物ではあったけれども、国民としては、人間の威厳をとり戻した民主主義的な生活を創造することができるし、国家としては、日本本来の平和国に邁進する道が開かれたといえるでしょう。この点では、ペリー提督と明治維新と結びつくように、(100) マッカーサー元帥と昭和維新と結びつくような、運命の示唆を感ぜざるを得ないのです。こう考えてくると、私は戦争の廃墟の上に再建されるべき新しい日本の前途に、洋々たる希望を持ち得るのであります。
思えば、皇紀二千六百年、この長い過去の 2,600年と、さらに、それより長い将来の日本の国の生命を思うときに、明治維新に始まった、ここ 80年の変化は大相場のアヤに過ぎないともいえましょう。私は、この悠久なる国史の発展の跡をふり返るときに、日本国民が如何なる苦難をも突破し得る適応性を有することを認めざるを得ないのです。
私はこの書で、いろいろな角度から敗戦の真相を究明しましたが、これは、科学と道義の裏づけなき独善的民族観が今日の悲運を招いた戒めとしたのであって、我々が、「万世のために泰平を開く」の御聖旨を奉戴して、新しき平和国家の方向に立ち上がるならば、必ずや、「御民、我れ生けるしるしあり」の日を迎えることを確信することは、いま、この書を読み終わった読者諸君と同様であります。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
( )
【人物・用語解説】
(99) ナイロン産業
ナイロンは世界で初めて工業的に生産された合成繊維。
※ 戦争中にパラシュートがより軽く飛ぶようにとして開発された繊維。
同様にコンピューターも爆弾が正確な位置に落とせるようにと開発された機械。
それらが戦後、日用品に転化された。
(100) ダグラス・マッカーサー (1880―1964)
米国の軍人。アーカンソー州生まれ。
1903年、ウェストポイント陸軍士官学校卒業。
1930年、陸軍参謀総長。
1935年、フィリピン軍事顧問。
1937年に退役したが、日米関係の緊迫に伴い、1941年 7月、米極東軍司令官として現役に復帰。
1942年、フィリピン・レイテ島に上陸。
同年、元帥。
戦争終結とともに連合国最高司令官として憲法改正など対日占領政策を指揮。
当初は民主化、改革に重点が置かれていたが、米ソ冷戦の深刻化とともに反共色を強めた。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、国連軍最高司令官となり、作戦を指導するが、中国本土攻撃を主張して、トルーマン大統領と対立、1951年に解任される。
著書に『マッカーサー回想記』がある。
ちょっとおしゃべり
うわー、永野氏の最後の言葉はきつかったですねえ・・・いろんな思いが交差してますけど、それは後日、具体的な言葉になるかもしれません。
ひとつだけ印象的だったのは、永野護氏が終始一貫して、「我が国は」 という言葉を使っていたことです。
というのは、前に、林秀彦氏の『だから私は日本人を信じない』をアップしましたが、それが載っている別冊『正論』 Extrra. 03 の冒頭に、評論家、日下公人(くさか・きみんど)氏の『「この国」から「わが国」へ』という文章が掲載されていたからです。
例えば他人と話をする場合、自分の家を指して、「わが家(や)は、」とか「私んちは、」と言いますね。 それを、「この家は、」と言ったら、そこに第三者的なものや批判的なもの、あるいは高ビーなもの(笑)など、自分からはちょっと離れて見ている、といったものを感じませんか?
前政権の麻生首相は、よく「わが国はァ~」と言ってましたけど(笑)現政権の鳩山首相は、ほとんど「この国は、」です。
そういう私も、よく「この国は」と書くことがありますが、その時はやっぱり、自分の意識は日本から離れた場所にいますね、考えてみると。
真に「わが身」として感じているか、あるいは「自分とは離れたもの」として感じているか。それを永野氏から改めて感じさせて頂きました。
それと、全部をチェックしていないのですが、「人物・用語解説」の中では、現在、普通に使われている言葉が書かれています。その中に、しばしば、日本国の使用する正式な名称ではなく、私の知らない間に(笑)誰ぞが勝手に流布した言葉が書かれています。
元来は歴史や政治にはまるで関心がなかったので、最近まで気がつきませんでしたが、「えっ、いつからこんな風に呼ぶようになったの?! 私が高校生の頃(昭和 37、8年頃)は、こんな呼び方じゃなかったよ!!怒」というものを、いくつか書き出してみますw
『中国大陸の道程』
中国大陸には、太古の昔からいくつもの小国家や大国家が出現しては消えています。
それらは日本の戦国時代のような、織田が豊臣になり、それが徳川になったようなものとは、まるで、違います。
トルコ系民族だったり、モンゴル民族だったり、満洲民族だったりと、民族そのものが違っているのです。
① 古代中国 =多民族 (日本:縄文時代)
② 漢(422年間)=北方漢民族 (日本:弥生時代)
③ 隋( 29年間)=北方漢民族 (日本:飛鳥時代)
④ 唐(274年間)=北方遊牧騎馬民族(日本:飛鳥時代~平安時代)
⑤ 宋(374年間)=南方漢民族 (日本:平安時代~鎌倉時代)
⑥ 金(107年間)=満州民族 (日本:平安時代~鎌倉時代)
⑦ 元(241年間)=モンゴル民族 (日本:鎌倉時代~室町時代)
⑧ 明(276年間)=南北漢民族 + たぶん満州民族
(日本:室町時代~江戸時代)
⑨ 清 (276年間)=満州民族 (日本:江戸時代~明治時代)
⑩ 中華民国 (28年間)=南方漢民族 (日本:大正時代~昭和時代)
⑪ 中華人民共和国 (1949年成立~現在)=北方漢民族
(日本:昭和時代~)
日本が
・ 1895年(明治28年)3月、『日清戦争』に勝利して〔清国〕から〔台湾〕を貰い、
・ 1905年(明治38年)9月、『日露戦争』に勝利して〔ロシア〕から〔中国東北部の権利〕を貰って〔満洲国〕を建設し、同時に「李朝朝鮮」の権利も貰ったのですが、財布がカラッポで泣きついて来たので仕方なく(苦笑)1910年(明治43年)9月に『日韓併合』で朝鮮半島(現在の北朝鮮 & 韓国)を日本国に組み入れました。
従ってそれ以降、台湾も、南北朝鮮半島も、第二次世界大戦で日本を含む枢軸国側が連合国側に負けた 1945年(昭和20年)9月まで、台湾も朝鮮半島(南北)も、「日本国」でした。
その時代、日本では〔清国〕を〔支那=しな〕と呼んでいました。
その〔清国〕が蒋介石の国民党のクーデターで敗れて〔中華民国〕となりましたが、日本では、やっぱり〔支那=しな〕と呼んでいました。
この『敗戦真相記』の中でも永野氏は「支那」と書かれていますね。
その、
・ 〔清国〕と
・ 〔蒋介石の国民党=後の中華民国〕と
・ 〔中国共産党=後の中華人民共和国=現在の中国〕の
内戦やら革命やらのイザコザに、日本も巻き込まれての
・ 〔満洲事件〕(後に事変)や
・ 〔支那事件〕(後に事変)が
引き起こされましたが、双方「宣戦布告」はしていないので、〔日本〕と〔中国〕は “戦争” をしていません。
知っての通り、当時のインドや東南アジアはヨーロッパ諸国の植民地でした。
中国大陸にも 「租界」といった諸外国の商館などが立ち並ぶ、清国やそれに替わった中華民国の手が及ばない地区がいくつもありました。
香港はイギリスに 100年契約でタダ貸しだったし、上海などは外国も同然でした。
日本もその欧米・ソの仲間入りをしたのですが、新人だったし(!)黄色人種ですからね、なにかと不利な役回りをさせられているうちに、『大東亜戦争』が勃発します。
凄いですよねぇ、欧米・ソを敵に回して、ちっこいジパングが、一人で戦ったのです。
同盟を結んだドイツは、ヨーロッパの方でソ連と戦ったりするので手いっぱいで、アジアの方にやって来て日本軍と共に戦うなんてやってられなかったし、イタリア・・・何をやってたんでしょ?
えっ、途中でムッソリーニを追っ払って、連合国側に寝返った\(◎o◎)/!
そしてついに、ヨーロッパの方で始まっていた戦争が、日本が真珠湾攻撃によって参戦したことで「第 2次世界大戦」となりました。
従って、日本では「太平洋戦争」とされるものの、連合国側の正式な名称は、「第2次世界大戦・太平洋戦線」です。
そして、「支那事件」から「大東亜戦争」までの「イザコザ」を、「太平洋戦争」に入れるかどうか軍部で会議があったらしいですが、ええい!メンドーだ!!となったのかどうか(笑) 一緒くたになっちゃいましたが、本来は、別物です。
「支那事件~支那事変」は支那とのイザコザですが、「大東亜戦争」 は、東南アジアなどを植民地としていたイギリスやオランダなどとの戦争です。
そして「第 2 次世界大戦」(日本は太平洋戦争)となったら、「連合国」 VS 「枢軸国」の世界中の国々が入り乱れての戦いです。
そんなこんなが全て終わった 3年後とか 4年後に、
・ 大韓民国(韓国=1948年8月15日、アメリカ軍政より独立)だの
・ 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮=1948年9月9日、ソ連軍政より独立)だの
・ 中華人民共和国(中国共産党国家=1949年10月1日、国民党の中華民国に勝利して成立)
なんてのが産まれたんですけど、それから 60余年、日本と中国は、どこかで戦争をやりましたっけ?(爆笑)
こういった、普通は見過ごされがちな、ちっこい呼び名ですけれども、繰り返されて目や耳に入っているうちに、日本は中国と戦争をやったんだ、といった洗脳とも言える潜在意識が出来てしまったりすると思うのです。
私は、父や周囲の年配者たちから、ただの一度だって「日中戦争」なんてものを聞いたことがないし、この『敗戦真相記』の中にも無いと思います。 (精査していませんが)
かろうじて、イギリスが後ろで糸を引いていた蒋介石の国民党=中華民国と戦いました(事件~事変)が、国共合作だったはずの中国共産党(後に、現在の中国)は遠くの方でグルグルと逃げ回っていましたwww
それにしてもこの『敗戦真相記』は、敗戦(正確には “休戦” )の 8月 15日の半月後くらいに、原爆が落とされた 1 カ月後くらいの 「広島」で行われた講演の速記録をもとにして、その 2カ月半後くらいに刊行されたものだそうですから、何よりも、それが凄いことだと思います。
あたかも今現在に書かれたものであるかのように、敗戦から 3カ月後に、これだけ冷静に過去を分析し、そして 21世紀になっても示唆されるような未来を語れた、日本の明治の人間の凄さを、改めて思います。
BON JOVI ~ Tokyo Road (1985-1990)
敗戦真相という暗い本とは反対に、音楽は前回からすでに “お正月” です (笑)
世界のボン・ジョヴィは、実は日本からというか、HM/HR の第一人者のひとり・・・なんか変な言い方です(笑)その伊藤政則という人が目をつけて、日本から火がついて、そして世界的なバンドになっていきました。
そういった、日本から火がついて、という世界的なバンドは他にもいくつもあります。それを考えると、日本人の音楽鑑賞力というのは世界的にも優れているのだと思います。
だから、あとは〔リズム感を身につけた演奏〕が出来るようになれば・・・と願いつつ、早、坂本九から 47年(笑)
この記事は2009年12月11日保存の再投稿です。