DAMAGEPLAN ~ Soul Bleed guest ZAKK WYLDE (2004)
永野護著『敗戦真相記』
2002年7月15日発刊
ポツダム宣言の政治性を読む
さて、以上申し述べたような経緯によって戦争は勃発し、そうして敗けたのですが、その結果、日本の現状はどうなっているかというと、我々がいまさらのごとく痛感するのは、日本には資本というものがほとんど全部喪失、または半身不随麻痺状態になっていることです。ちょうど、(84) ロビンソン・クルーソーが島に打ち上げられたと同じようなもので、戦争するときには無我夢中で戦っていたのですが、いよいよ、ほっと気がついてみると、まったく空手になった自分を発見した。有るものはただ土地と人間だけという感じであります。
元来、日本に近代的な意味における資本が出来始めたのは、明治以後です。徳川幕府の封建経済においては、当時の日本国民が生きるために必要なものをかろうじて生産するに止まり、資本の蓄積はほとんどなかったといっても差し支えない。端的に言えば、徳川家康の江戸城入城のときと、(85) 徳川慶喜の大政奉還のときと較べてみて、日本の試算にはほとんど増減がない。この 300年の長い期間は人口を調節して、かろうじて食糧との辻褄を合せてきたと言い得るでしょう。
それが明治維新以後、多少ずつ資産の蓄積が出来始めたのですが、この蓄積が目立つようになったのは第一次欧州大戦後ですから、極めてわずかの期間にとどまり、これを、世界の富を数百年間イングランドの一角に集中し得た英国の力や、または、あらゆる物資に充ち足りているアメリカやロシアに比べれば、まさに九牛の一毛といえるでしょう。
だが、とにかく第一次欧州大戦以後、多少の蓄積を持ち得たが、昭和 17、18年の両年に使った莫大な戦争消費は、その年の生産の数倍にのぼったために、その不足は当然、過去の蓄積を崩して補わなければならなくなり、さらに、昭和 19年に至ると、ほとんど過去の蓄積を全部喰い潰してしまったのであります。すなわち、昭和 17、18、19 の 3年間に、明治維新以来の資本蓄積をほとんど使い切ってしまったというのが、偽らざる我が経済の実状であります。日本の各種の生産統計を見ますと、だいたい、昭和 18年頃が最高で、19年に入ると落潮となり、20年の初めから夏にかけては本当に重箱の隅を爪楊枝で突つくようなことをして、戦争遂行の辻褄を合せておったわけです。
したがって、この戦争を終戦に導いた直接の動機は原子爆弾と (86) ソ連の参戦ですが、これを資材の面から見ますと、あのときにはもう柱のなかに食いこんだ白蟻の被害で、ただ柱の外形を残すのみの状態になっていたので、これほどの暴風雨を待つまでもなく、倒壊する運命にあったといえるのです。ことに今年(昭和 20年)春から行われた中小都市の爆撃は、わずかに残っていた中小都市の各種生産設備と、いわゆる退蔵物資と称せられる各種原料の大部分を焼き払ってしまったので、いよいよ 8月 15日終戦となったときは、日本は全くさっき申したロビンソン・クルーソーのごとく、丸裸で離れ小島に打ち上げられた難破船の水夫のような姿になっていたのです。
こういう状態のもとにあって、7千数百万人の日本国民は如何にして生きていけるかということが、我々に課せられた問題であります。まず日本本土の農産物が養い得る人口の限度は、すでに徳川時代に飽和状態に達していて、それ以上、如何に働いてみても、その数量は知れたものです。もちろん、明治以後、耕作方法の進歩や耕地の拡張など、種々努力の結果、徳川時代の人口を千万や 2千万増加せしむることは容易な業ですが、それにしても 7千数百万の人口を養っていくことは、到底不可能であります。
しかも耕作方法の進歩は主として肥料の改良によるものですが、そのうち硫安肥料は何とかして自給自足し得るとしても、カリや燐酸は全部輸入に仰がねばならない。比較的内地生産ができると思われる肥料にして、なおかつその通りであり、農機具に至っては、その原料関係において結局、外国に依存せざるを得ない部門があり、全然、外国の援助を待たない日本農業の自立ということは考えられない状態です。
そこで、こんな状態に対する応急対策として最も原始的に考えられる方法は、日本の余剰労力を生のままで輸出する。そうして、海外で働いて送ってくる収益で日本の国に残っている人間を食わしていくという手でしょう。ちょうど子供の多い百姓が、自分の土地で養い得ない子供をあるいは女工に出したり、商店の小僧に送ったりして家計の辻褄を合わせたように、日本の土地で養い得ない人口を海外で働かし得る方法があれば、問題は一番簡単に解決されるのですが、現在の国際事情下で、このことを考えることは天に登るほど難しい。
そこで結局、生糸その他各種の雑貨などの製品を輸出して、この代償として食糧を輸入するという方法以外に生きる道はないということに帰着するのです。すなわち、このあり余る労力をどういう形で商品化して、外国に輸出するかという具体的な方策が、今後の政治経済問題のすべての鍵として考えられなければならない。
そうなると問題の成否は、1 つにかかって連合国の好意の有無ということになる。すなわち、国際貿易を許してくれるか、許すとしても、どの程度に許すかの問題になるので、日本人だけの努力ではどうにもならない性質のものだということがわかります。
したがって、この際、諸外国が日本に対して如何なる態度をとるであろうかということを、この際我々は真剣に考えてみなければならない。しかして、この外国の態度を測定する上で最大かつ唯一の手がかりとなるべきものは、本年(昭和 20年)7月 26日にできました (87) 『ポツダム宣言』 でなければならない。今日、連合国はすべて、この『ポツダム宣言』を目標として行動しているのですから、日本生死の鍵はすべてこの宣言書のなかにしまってあると言っても差し支えないわけであります。その意味で日本国民は、何人も『ポツダム宣言』を深く味読すべきであると信じます。
ところで、この『ポツダム宣言』は本年(昭和 20年)7月 26日、ドイツの首都ベルリンの南郊ポツダムにある有名な (88) フリードリヒ大王の離宮、無憂宮(サンスーシー)に、連合国の最高首脳部が集まって、日本に対し戦争終戦の機会を与えるために連合国側の真意を表明したもので、全文は 13条から成り立っています。そのうち、国民生活に最も影響のある条文は、
・ 戦後処理方針を定めた第 9条と
・ 政治原則を規定した第 10条、
・ 経済原則を示した第 11 条の
3カ条です。
まず第9条から取り上げてみると
「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」
と、こう規定してある。これは終戦後の軍事処理の基準を示した条項ですが、この点はドイツに対する取り扱い方と根本的に違っているところであって、ドイツでは銃砲を取り上げられ、サーベルを取り上げられ、いわゆる、丸腰になった後も、集団労務を課せられ、戦争が済んでも兵士は懐かしい故郷、暖かい家庭に帰ることを許されない。ある者はシベリアの寒地に連れて行かれて農耕を強制され、ある者はウラルの地下数千尺の鉱山に這入って石炭掘りを命ぜられ、ある者はソ連の工場に送られて、終日営々として旋盤にくっついていなければならないのです。しかも、いつまで働いたら帰還を許されるのやら見当がつかないというのが今日の状態であります。
ところが、日本では終戦とともに兵士は全く自由の身となり、愛する妻や、可愛い子供の待っている家庭に、まるで、サンタクロースのおじいさんみたいに、いわゆる、1 万円包みと称される、大きな御土産包を背中にくっつけて帰っていき、和気藹々たる和やかな空気に包まれながら、自分の好きな「平和的かつ生産的の仕事」をすることが許されているのです。ドイツから見ると、雲泥の差です。この点は連合国側が、日本に対する非常な特恵だといっている条項です。
次に第10条は
「我等は日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、我等の俘虜(捕虜)を虐待せる者を含む一切の(89) 戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。
日本国政府は日本国、国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし、言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」
と規定しています。
この条項は、第一に連合国は日本を地球上から抹殺するというがごとき冷酷なる仕打ちをするものではないという人道的基本方針を示し、次に、本来の日本国民性が民主主義的傾向を有することを肯定して、この「民主主義的傾向の復活強化」を約束しています。すなわち、日本民族をもって、済度(さいど)すべからざる好戦国民なりとする俗説を破り、日本国民本来の面目は、伊勢大神宮の神鏡をもって表象せらるる、いわゆる和魂(にぎみたま)であり、熱田神宮の宝剣をもって表象せらるる荒魂(あらみたま)は第二次的なものであることを認めている。ただ、近来この荒魂のみが表面に現われて活躍し、和魂の光りを蔽い隠しておりましたので、これを取り払ってしまわなければならない。この仕事は、日本人の自力ではできないから、連合国が外部から加勢して、これを完成させようという連合国の民主主義的理想を、この第 10 条で約束していると見るべきでしょう。
そうして特に、この荒魂のなかで最も悪質な部分は、いわゆる戦争犯罪人として徹底的に芟除(さんじょ)し、将来、日本をして再びこの過誤を繰り返さないように外科的手術をしなければならないと主張しているわけです。
ところで、この戦争犯罪人の範囲については、英、米、ソ連、支那の間に主張の差がある。ソ連の要求が最も広範囲にわたるものと予測されるのですが、米英側は『戦時国際法規』、とくに俘虜の取り扱い方の規定違反者と開戦手続き違反者に対して法律上の責任を最も厳重に追及するものと思われます。その中でアメリカが最も重点を置いているのがいわゆる、不法開戦です。(90) 真珠湾攻撃が米国人に与えた影響は日本人の想像以上に深刻であって、逆説的にいえば、ルーズベルトがいかに努力してもまとめ得なかった米国の世論を日本人がまとめてやったような結果になったぐらいです。すなわち、それまでアメリカ内部にはいわゆる孤立外交を強硬に主張する有力なる一派があって、戦争には絶対に反対していたのですが、これらの人々の如何なる名論も、「真珠湾を忘れるな」の一言に遭っては、ひとたまりもなくつぶれてしまったのです。真珠湾の一撃は、それほどアメリカ人を興奮せしめた。アメリカ側から申せば、日本人は外交交渉の継続中に全く騙(だま)し討ちをしたものだと確信していますから、これに対する責任は徹底的に糾弾しなければ承知しないのです。
また、終戦後、米国に帰還した俘虜がその見聞した事実を詳細に報告して、日本軍人の残忍な行為をアメリカ大衆に訴えたので、世論の国のアメリカとして最近とくにこの俘虜虐待問題がやかましくなってきたのです。
ところが、ソ連側は、戦争犯罪をかかる国際公法違反という法律的問題に限らないで、日本をして軍国主義化せしめた政治的責任も追及しようと主張するのですから、非常に広い範囲に引っかかってくる。この戦争犯罪人の解釈如何は、将来、ソ連側と米英側との間に残された1 つの問題になると見られます。
次に第11条は
「日本国は、その経済を支持し、かつ公正なる実物賠償の取り立てを可能ならしむるがごとき産業を維持することをゆるさるべし。ただし日本国をして戦争のため再軍備をなすことを得しむるがごとき産業はこの限りにあらず。右(注;上)目的のため原料の入手(その支配とはこれを区別す)を許さるべし。日本国は、将来世界貿易関係への参加を許さるべし」
と規定しております。
すなわち、この一条が終戦後の日本経済運営の基本法です。この条文をどう運営していくかということが、日本国民が生存できるか、できないかということの分かれ道になるので、日本国民にとって現実的に最も大切な条文であると思います。
この規定によりますと、連合国は日本の産業に対して積極的と消極的と 2つの目標を示しております。その積極的目標はさらに 2つに分かれて、1 つは日本の経済を維持するための産業とし、他は賠償を支払うための産業としております。換言すれば、日本人は最小限度の生活をするために必要な生活物資を製造する仕事と、公正なる賠償に充当する品物をつくる仕事のみに従事することを許されているのですが、私はこの条文をその体裁の上から見て、日本の経済を維持する産業を第一次に置き、賠償のための産業を「かつ」として第二次に並べてある、この「かつ」に重要なる意義を持たせたいと思います。
一方、消極的な目標として再軍備に役立つ産業は一切禁止することを規定している。これは一見、当然のことのようですが、具体的に、しからば、如何なる産業がこれに這入るかということを決定するには、いろいろ問題が生じるでしょう。
さらに、この条文において原料入手と世界貿易の問題にふれております。これは連合国側も、日本がその産業を維持するためには、どうしても外国の力を借りなければならない状態にあることを肯定していることを意味するもので、非常に行き届いた条文であるといわなければならないと思います。
右(注;上)のような次第で、『ポツダム宣言』は
・ 第 9条において 我が国に対する戦後処理原則、
・ 第 10条において政治原則、
・ 第 11条において経済原則
を規定しているので、この条文を一つ一つよく読んでみると、必ずしも、この宣言が初めて世界に放送されたときに日本の新聞がいっせいに罵倒したような悪意に満ちた降伏条件でないことがわかります。第一、連合国側は、この宣言において日本を「降伏」せしむるという用語を使っていないのです。『ポツダム宣言』 の冒頭には「我等の数億の国民を代表し協議の上、日本に対し今次の戦争を終結する機会を与うることに意見一致せり」と、こう書いてある。「降伏する機会を与うる」 という表現を使っていない。また、『ポツダム宣言』の第 5条において、「我等の条件は左のごとし」として条件なる言葉を使っていて、これまた「無条件降伏」にあらざることを、反面に現わしています。
この点はドイツに対する場合はかなり相違している。ドイツの場合は、(91) 『クリミヤ宣言』において「ドイツに対し課すべき無条件降伏条項はドイツ国の最後的敗北が達成せらるるまでは発表せられざるべし」と言って、あらかじめ条件が提示されなかったのに較べると、日本の場合は 『ポツダム宣言』という条件付きで和平勧告を受けたものと、こう解釈して差し支えないのです。
もっとも前述の第 5 条は「我等は右条件より離脱することなかるべし。右に代わる条件、存在せず」と述べて、交渉和平の余地を封じ去っているので、この点では無条件降伏方式とも見られるのですが、我々は、連合国側が、とくに無条件降伏という言葉を避けた点に政治的な含みを汲みとるべきです。『ポツダム宣言』中、無条件降伏という言葉を使ったのは、第 13条の「我等は日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言」すべきことを要求しているところだけであって、この点は連合国側が、日本政府および国民と、日本軍部とを、対立的に区別して取り扱っている日本観を示すもので、『ポツダム宣言』の全文を通ずる特徴というべきものです。
例えば、降伏文書の調印にあたっても、国際慣習上の異例の措置をもって、「天皇陛下および日本国政府代表」と「日本帝国大本営代表」とが 2本立てで署名すべきことを通告したのも、この考え方の一つの現われであり、また第 4条においては、「無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御せられるべきか」、 または、「理性の経路を履(ふ)んで」、 日本を存続せしむべきかを、日本国民が、まさに決定しなければならないことを要求しているのも、この考え方の一つです。
さらに、第 6条において「日本国国民を欺瞞(ぎまん)し、これをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」と明確に戦争責任の所在を指摘しています。この一方、前述したように、第 9条、第 10条、第 11条において、国民生活再建の基礎が民主主義の上に置かれるべきことを主張しているのですから、抽象論としては、『ポツダム宣言』というものはだいたい、日本のために、むしろ暖かい雰囲気を含んでいるようにも感じられるわけです。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
(84) ロビンソン・クルーソー
英国のジャーナリストで小説家のダニエル・デフォーの小説の主人公。小説の正しい題名は、『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』で、1719年に出版された。
航海の途中、遭難、着の身着のままで無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、自らの創意工夫と努力で自給自足の生活を送り、従僕フライデーとの出会いなどを経て、最後は救出されて、英国に帰国するまでの物語。
(85) 徳川慶喜 (1837―1913)
徳川幕府第 15代、最後の将軍。徳川斉昭の 7男として水戸徳川家に生まれた。1847年、一橋家を相続。1866年、徳川家茂の死により第 15代の徳川将軍に。
1867年 10月、京都で大政奉還を行い、朝廷に政権を返上、自ら徳川幕府の幕を引くことで、倒幕派の機先を制したが、同年 12月に王政復古で武力倒幕派が巻き返し、大阪城に退いた。
1868年 1 月、鳥羽伏見の戦いに敗れると、江戸に戻り、上野・寛永寺にこもり、恭順の意を示した。
同年 4月に江戸城開城。その後は静岡に移住したが、1897年(明治 30年)には東京に戻った。
(86) ソ連の参戦
1945年(昭和 20年)8月のソ連の対日参戦。日本はソ連との間で、1941年(昭和 16年)4月に『日ソ中立条約』を締結した。相互領土不可侵、相手国が第三国と戦争になっても中立を保つというもので、有効期間は 5年だった。
ソ連は 1945年 2月のヤルタ会談で、米英両国とドイツ敗戦後の対日参戦に関する秘密協定を結び、同年 4月には、条約の延長を行わないことを日本側に通告した。そして、同年 8月 8日に宣戦を布告、翌 9日御前 0時過ぎ、満州への攻撃を開始した。
陸軍は精鋭部隊を南方戦線に回していたため、ソ連の攻撃で瓦解。現地に取り残された日本人開拓団には多くの犠牲が出た。また敗戦によってソ連軍の捕虜となった将校はシベリアなどの強制労働に送られた。
外交面でも、中立国として、ソ連に連合国との和平の仲介を期待する動きもあったが、そうした最後の望みも断たれた。
(87) ポツダム宣言
1945年(昭和 20年)7月 26日、米英中 3カ国によって発表された、日本に降伏を迫る共同宣言。ドイツ敗戦後、ベルリン郊外のポツダムで開かれた、トルーマン(米大統領)、チャーチル(英首相)、スターリン(ソ連首相)の3カ国首脳会議で決定されたあと、蒋介石(中華民国総統)の合意を得て決められた。ソ連は 8月 8日の対日宣戦布告後に署名した。
軍国主義の除去、軍隊の解体、戦争犯罪人の処罰など戦争終結の条件を示したものだが、日本の鈴木貫太郎内閣は、本土決戦を主張する軍部主戦派の圧力によって宣言を「黙殺」。米国による広島、長崎への原爆投下と、ソ連の対日参戦の道を開くことになった。
結局、8月 14日にポツダム宣言の受諾が決まり、戦争は終結した。ポツダム宣言は対日占領政策の基本となった。
(88) フリードリヒ大王 (1712―1786)
プロイセン国王、フリードリヒⅡ世。大国としてのプロイセンの地位を確立した啓蒙君主で、フリードリヒ大王は通称。1740年から 1786年まで在位。
1740年から 1748年にかけて、マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって起きたオーストリア継承戦争に勝ち、シュレジエン地方を併合、1756年から 1763年までの 7年戦争では英国の支援を受けながら、オーストリア、ザクセン、フランス、ロシアなど欧州列強諸国を相手に戦い抜き、プロイセンの地位を固めた。外交・軍事的な才能を発揮し、領土の拡大を進める一方、内政面では、農業・産業の育成や、司法、行政の近代化などに尽力した。
フランス風の文化・芸術を好み、ポツダムに建設されたサンスーシー宮殿はロココ様式が特徴の夏の離宮で、フランスのポルテールら、思想家、芸術家が招待された。「サンスーシー」はフランス語で「憂いなし」という意味で、1745年から 1747年にかけて建築された。
(89) 戦争犯罪人
第 2次大戦後、連合国の軍事裁判によって戦争犯罪を訴追、処罰された者。戦犯ともいう。
戦争犯罪としては、従来からあった戦時国際法に違反した「通例の戦争犯罪」に加え、侵略戦争の計画、準備、実行に関与した「平和に対する罪」、非人道的な殺害・虐待行為などに関する「人道に対する罪」が新たに想定された。
戦犯は A級、B 級、C 級の 3種類に分かれ、A 級戦犯は「平和に対する罪」で訴追された軍首脳・政治家などの戦争指導者で、ドイツではニュルンベルク、日本では東京に設置された国際軍事裁判所で裁かれた。
B 級 は「通例の戦争犯罪」、C 級 は「人道に対する犯罪」で、B C 級 戦犯の裁判は、米国、英国、中国、豪州、フィリピン、フランス、オランダなど連合国各国の軍事法廷で行われたが、裁判の実施にあたっては事実認定や情状面などで問題のあるケースもあった。
1952年 6月 9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年 12月 9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、そして 1953年 8月 3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。
この議決は、前年(1952年)に、戦犯とされた者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4 千万人の日本国民の署名が集まったことに起因する。
名誉の回復
(Wikipedia )
1952年 6月 9日 参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
1952年12月 9日 衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年 8月 3日 衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年 7月19日 衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
(90) 真珠湾攻撃
真珠湾(パールハーバー)はハワイ州オアフ島にある米海軍の拠点。1941年(昭和 16年)12月 8日(米国時間 12月 7日)、赤城ほか空母 6 を中心とした日本海軍機動部隊は真珠湾にある米海軍太平洋艦隊と航空基地を奇襲攻撃、戦艦、航空機に多大な損害を与えた。この攻撃によって太平洋戦争(第 2次世界大戦・太平洋戦線)が始まった。
航空機主力の画期的な作戦でもあり、初戦の大戦果に日本国内は沸いた。ただ、計画では、真珠湾攻撃の 30分前に米国側に対米最後通告をすることになっていたが、駐米大使館の作業の遅れのために通告は攻撃後となった。このため、日米交渉中の宣戦布告なき攻撃に米国民は憤怒、対日・対独戦へ国論が統一された。
(91) クリミヤ宣言
1945年(昭和 20年)2月にクリミヤ半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによる米英ソ首脳会談(ヤルタ会談)が開かれた。この会議直後に発表された共同宣言。
ヤルタ会談では、日独敗戦後の国際秩序について話し合われ、ソ連参戦に関するヤルタ秘密協定も結ばれたが、この内容が米国の国務相から公表されたのは、永野が『敗戦真相記』を出版した後の 1946年(昭和 21年)2月だった。
ちょっとおしゃべり
『ポツダム宣言』から 64年が過ぎました。
その間に、支那事変とか太平洋戦争とか第二次欧州戦争とか、ずいぶんと形を変えて、あるいは歪められて伝えられています。その最たる責任は、やはり、自民党が断固として正しい歴史を叫ばずに、なあなあで流してきたことにあるような気がします。
戦争というものは、そのすべてが理不尽です。 理不尽だから争いになる。それなのに、「あの戦争は理不尽だった。謝れ!賠償しろ!!」と、当の本人なら 「しつこいヤツだ」と笑えますけど、日本人が叫んでいるのは、私には理解不可能。
アメリカの占領軍が、日米安全保障条約の締結によって、在日米軍になりました。その締結から 58年。来年(2010年)はその改定から 50年となります。
その間、私たち日本は、同じ敗戦国のイタリアよりも、同じ敗戦国のドイツよりも、比べものにならないくらい平和で豊かに過ごして来れたのは、どうしてなのか、この 『敗戦真相記』 を読みながら考えて貰えたら嬉しいです。
2002年7月15日発刊
ポツダム宣言の政治性を読む
さて、以上申し述べたような経緯によって戦争は勃発し、そうして敗けたのですが、その結果、日本の現状はどうなっているかというと、我々がいまさらのごとく痛感するのは、日本には資本というものがほとんど全部喪失、または半身不随麻痺状態になっていることです。ちょうど、(84) ロビンソン・クルーソーが島に打ち上げられたと同じようなもので、戦争するときには無我夢中で戦っていたのですが、いよいよ、ほっと気がついてみると、まったく空手になった自分を発見した。有るものはただ土地と人間だけという感じであります。
元来、日本に近代的な意味における資本が出来始めたのは、明治以後です。徳川幕府の封建経済においては、当時の日本国民が生きるために必要なものをかろうじて生産するに止まり、資本の蓄積はほとんどなかったといっても差し支えない。端的に言えば、徳川家康の江戸城入城のときと、(85) 徳川慶喜の大政奉還のときと較べてみて、日本の試算にはほとんど増減がない。この 300年の長い期間は人口を調節して、かろうじて食糧との辻褄を合せてきたと言い得るでしょう。
それが明治維新以後、多少ずつ資産の蓄積が出来始めたのですが、この蓄積が目立つようになったのは第一次欧州大戦後ですから、極めてわずかの期間にとどまり、これを、世界の富を数百年間イングランドの一角に集中し得た英国の力や、または、あらゆる物資に充ち足りているアメリカやロシアに比べれば、まさに九牛の一毛といえるでしょう。
だが、とにかく第一次欧州大戦以後、多少の蓄積を持ち得たが、昭和 17、18年の両年に使った莫大な戦争消費は、その年の生産の数倍にのぼったために、その不足は当然、過去の蓄積を崩して補わなければならなくなり、さらに、昭和 19年に至ると、ほとんど過去の蓄積を全部喰い潰してしまったのであります。すなわち、昭和 17、18、19 の 3年間に、明治維新以来の資本蓄積をほとんど使い切ってしまったというのが、偽らざる我が経済の実状であります。日本の各種の生産統計を見ますと、だいたい、昭和 18年頃が最高で、19年に入ると落潮となり、20年の初めから夏にかけては本当に重箱の隅を爪楊枝で突つくようなことをして、戦争遂行の辻褄を合せておったわけです。
したがって、この戦争を終戦に導いた直接の動機は原子爆弾と (86) ソ連の参戦ですが、これを資材の面から見ますと、あのときにはもう柱のなかに食いこんだ白蟻の被害で、ただ柱の外形を残すのみの状態になっていたので、これほどの暴風雨を待つまでもなく、倒壊する運命にあったといえるのです。ことに今年(昭和 20年)春から行われた中小都市の爆撃は、わずかに残っていた中小都市の各種生産設備と、いわゆる退蔵物資と称せられる各種原料の大部分を焼き払ってしまったので、いよいよ 8月 15日終戦となったときは、日本は全くさっき申したロビンソン・クルーソーのごとく、丸裸で離れ小島に打ち上げられた難破船の水夫のような姿になっていたのです。
こういう状態のもとにあって、7千数百万人の日本国民は如何にして生きていけるかということが、我々に課せられた問題であります。まず日本本土の農産物が養い得る人口の限度は、すでに徳川時代に飽和状態に達していて、それ以上、如何に働いてみても、その数量は知れたものです。もちろん、明治以後、耕作方法の進歩や耕地の拡張など、種々努力の結果、徳川時代の人口を千万や 2千万増加せしむることは容易な業ですが、それにしても 7千数百万の人口を養っていくことは、到底不可能であります。
しかも耕作方法の進歩は主として肥料の改良によるものですが、そのうち硫安肥料は何とかして自給自足し得るとしても、カリや燐酸は全部輸入に仰がねばならない。比較的内地生産ができると思われる肥料にして、なおかつその通りであり、農機具に至っては、その原料関係において結局、外国に依存せざるを得ない部門があり、全然、外国の援助を待たない日本農業の自立ということは考えられない状態です。
そこで、こんな状態に対する応急対策として最も原始的に考えられる方法は、日本の余剰労力を生のままで輸出する。そうして、海外で働いて送ってくる収益で日本の国に残っている人間を食わしていくという手でしょう。ちょうど子供の多い百姓が、自分の土地で養い得ない子供をあるいは女工に出したり、商店の小僧に送ったりして家計の辻褄を合わせたように、日本の土地で養い得ない人口を海外で働かし得る方法があれば、問題は一番簡単に解決されるのですが、現在の国際事情下で、このことを考えることは天に登るほど難しい。
そこで結局、生糸その他各種の雑貨などの製品を輸出して、この代償として食糧を輸入するという方法以外に生きる道はないということに帰着するのです。すなわち、このあり余る労力をどういう形で商品化して、外国に輸出するかという具体的な方策が、今後の政治経済問題のすべての鍵として考えられなければならない。
そうなると問題の成否は、1 つにかかって連合国の好意の有無ということになる。すなわち、国際貿易を許してくれるか、許すとしても、どの程度に許すかの問題になるので、日本人だけの努力ではどうにもならない性質のものだということがわかります。
したがって、この際、諸外国が日本に対して如何なる態度をとるであろうかということを、この際我々は真剣に考えてみなければならない。しかして、この外国の態度を測定する上で最大かつ唯一の手がかりとなるべきものは、本年(昭和 20年)7月 26日にできました (87) 『ポツダム宣言』 でなければならない。今日、連合国はすべて、この『ポツダム宣言』を目標として行動しているのですから、日本生死の鍵はすべてこの宣言書のなかにしまってあると言っても差し支えないわけであります。その意味で日本国民は、何人も『ポツダム宣言』を深く味読すべきであると信じます。
ところで、この『ポツダム宣言』は本年(昭和 20年)7月 26日、ドイツの首都ベルリンの南郊ポツダムにある有名な (88) フリードリヒ大王の離宮、無憂宮(サンスーシー)に、連合国の最高首脳部が集まって、日本に対し戦争終戦の機会を与えるために連合国側の真意を表明したもので、全文は 13条から成り立っています。そのうち、国民生活に最も影響のある条文は、
・ 戦後処理方針を定めた第 9条と
・ 政治原則を規定した第 10条、
・ 経済原則を示した第 11 条の
3カ条です。
まず第9条から取り上げてみると
「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」
と、こう規定してある。これは終戦後の軍事処理の基準を示した条項ですが、この点はドイツに対する取り扱い方と根本的に違っているところであって、ドイツでは銃砲を取り上げられ、サーベルを取り上げられ、いわゆる、丸腰になった後も、集団労務を課せられ、戦争が済んでも兵士は懐かしい故郷、暖かい家庭に帰ることを許されない。ある者はシベリアの寒地に連れて行かれて農耕を強制され、ある者はウラルの地下数千尺の鉱山に這入って石炭掘りを命ぜられ、ある者はソ連の工場に送られて、終日営々として旋盤にくっついていなければならないのです。しかも、いつまで働いたら帰還を許されるのやら見当がつかないというのが今日の状態であります。
ところが、日本では終戦とともに兵士は全く自由の身となり、愛する妻や、可愛い子供の待っている家庭に、まるで、サンタクロースのおじいさんみたいに、いわゆる、1 万円包みと称される、大きな御土産包を背中にくっつけて帰っていき、和気藹々たる和やかな空気に包まれながら、自分の好きな「平和的かつ生産的の仕事」をすることが許されているのです。ドイツから見ると、雲泥の差です。この点は連合国側が、日本に対する非常な特恵だといっている条項です。
次に第10条は
「我等は日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、我等の俘虜(捕虜)を虐待せる者を含む一切の(89) 戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。
日本国政府は日本国、国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし、言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」
と規定しています。
この条項は、第一に連合国は日本を地球上から抹殺するというがごとき冷酷なる仕打ちをするものではないという人道的基本方針を示し、次に、本来の日本国民性が民主主義的傾向を有することを肯定して、この「民主主義的傾向の復活強化」を約束しています。すなわち、日本民族をもって、済度(さいど)すべからざる好戦国民なりとする俗説を破り、日本国民本来の面目は、伊勢大神宮の神鏡をもって表象せらるる、いわゆる和魂(にぎみたま)であり、熱田神宮の宝剣をもって表象せらるる荒魂(あらみたま)は第二次的なものであることを認めている。ただ、近来この荒魂のみが表面に現われて活躍し、和魂の光りを蔽い隠しておりましたので、これを取り払ってしまわなければならない。この仕事は、日本人の自力ではできないから、連合国が外部から加勢して、これを完成させようという連合国の民主主義的理想を、この第 10 条で約束していると見るべきでしょう。
そうして特に、この荒魂のなかで最も悪質な部分は、いわゆる戦争犯罪人として徹底的に芟除(さんじょ)し、将来、日本をして再びこの過誤を繰り返さないように外科的手術をしなければならないと主張しているわけです。
ところで、この戦争犯罪人の範囲については、英、米、ソ連、支那の間に主張の差がある。ソ連の要求が最も広範囲にわたるものと予測されるのですが、米英側は『戦時国際法規』、とくに俘虜の取り扱い方の規定違反者と開戦手続き違反者に対して法律上の責任を最も厳重に追及するものと思われます。その中でアメリカが最も重点を置いているのがいわゆる、不法開戦です。(90) 真珠湾攻撃が米国人に与えた影響は日本人の想像以上に深刻であって、逆説的にいえば、ルーズベルトがいかに努力してもまとめ得なかった米国の世論を日本人がまとめてやったような結果になったぐらいです。すなわち、それまでアメリカ内部にはいわゆる孤立外交を強硬に主張する有力なる一派があって、戦争には絶対に反対していたのですが、これらの人々の如何なる名論も、「真珠湾を忘れるな」の一言に遭っては、ひとたまりもなくつぶれてしまったのです。真珠湾の一撃は、それほどアメリカ人を興奮せしめた。アメリカ側から申せば、日本人は外交交渉の継続中に全く騙(だま)し討ちをしたものだと確信していますから、これに対する責任は徹底的に糾弾しなければ承知しないのです。
また、終戦後、米国に帰還した俘虜がその見聞した事実を詳細に報告して、日本軍人の残忍な行為をアメリカ大衆に訴えたので、世論の国のアメリカとして最近とくにこの俘虜虐待問題がやかましくなってきたのです。
ところが、ソ連側は、戦争犯罪をかかる国際公法違反という法律的問題に限らないで、日本をして軍国主義化せしめた政治的責任も追及しようと主張するのですから、非常に広い範囲に引っかかってくる。この戦争犯罪人の解釈如何は、将来、ソ連側と米英側との間に残された1 つの問題になると見られます。
次に第11条は
「日本国は、その経済を支持し、かつ公正なる実物賠償の取り立てを可能ならしむるがごとき産業を維持することをゆるさるべし。ただし日本国をして戦争のため再軍備をなすことを得しむるがごとき産業はこの限りにあらず。右(注;上)目的のため原料の入手(その支配とはこれを区別す)を許さるべし。日本国は、将来世界貿易関係への参加を許さるべし」
と規定しております。
すなわち、この一条が終戦後の日本経済運営の基本法です。この条文をどう運営していくかということが、日本国民が生存できるか、できないかということの分かれ道になるので、日本国民にとって現実的に最も大切な条文であると思います。
この規定によりますと、連合国は日本の産業に対して積極的と消極的と 2つの目標を示しております。その積極的目標はさらに 2つに分かれて、1 つは日本の経済を維持するための産業とし、他は賠償を支払うための産業としております。換言すれば、日本人は最小限度の生活をするために必要な生活物資を製造する仕事と、公正なる賠償に充当する品物をつくる仕事のみに従事することを許されているのですが、私はこの条文をその体裁の上から見て、日本の経済を維持する産業を第一次に置き、賠償のための産業を「かつ」として第二次に並べてある、この「かつ」に重要なる意義を持たせたいと思います。
一方、消極的な目標として再軍備に役立つ産業は一切禁止することを規定している。これは一見、当然のことのようですが、具体的に、しからば、如何なる産業がこれに這入るかということを決定するには、いろいろ問題が生じるでしょう。
さらに、この条文において原料入手と世界貿易の問題にふれております。これは連合国側も、日本がその産業を維持するためには、どうしても外国の力を借りなければならない状態にあることを肯定していることを意味するもので、非常に行き届いた条文であるといわなければならないと思います。
右(注;上)のような次第で、『ポツダム宣言』は
・ 第 9条において 我が国に対する戦後処理原則、
・ 第 10条において政治原則、
・ 第 11条において経済原則
を規定しているので、この条文を一つ一つよく読んでみると、必ずしも、この宣言が初めて世界に放送されたときに日本の新聞がいっせいに罵倒したような悪意に満ちた降伏条件でないことがわかります。第一、連合国側は、この宣言において日本を「降伏」せしむるという用語を使っていないのです。『ポツダム宣言』 の冒頭には「我等の数億の国民を代表し協議の上、日本に対し今次の戦争を終結する機会を与うることに意見一致せり」と、こう書いてある。「降伏する機会を与うる」 という表現を使っていない。また、『ポツダム宣言』の第 5条において、「我等の条件は左のごとし」として条件なる言葉を使っていて、これまた「無条件降伏」にあらざることを、反面に現わしています。
この点はドイツに対する場合はかなり相違している。ドイツの場合は、(91) 『クリミヤ宣言』において「ドイツに対し課すべき無条件降伏条項はドイツ国の最後的敗北が達成せらるるまでは発表せられざるべし」と言って、あらかじめ条件が提示されなかったのに較べると、日本の場合は 『ポツダム宣言』という条件付きで和平勧告を受けたものと、こう解釈して差し支えないのです。
もっとも前述の第 5 条は「我等は右条件より離脱することなかるべし。右に代わる条件、存在せず」と述べて、交渉和平の余地を封じ去っているので、この点では無条件降伏方式とも見られるのですが、我々は、連合国側が、とくに無条件降伏という言葉を避けた点に政治的な含みを汲みとるべきです。『ポツダム宣言』中、無条件降伏という言葉を使ったのは、第 13条の「我等は日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言」すべきことを要求しているところだけであって、この点は連合国側が、日本政府および国民と、日本軍部とを、対立的に区別して取り扱っている日本観を示すもので、『ポツダム宣言』の全文を通ずる特徴というべきものです。
例えば、降伏文書の調印にあたっても、国際慣習上の異例の措置をもって、「天皇陛下および日本国政府代表」と「日本帝国大本営代表」とが 2本立てで署名すべきことを通告したのも、この考え方の一つの現われであり、また第 4条においては、「無分別なる打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御せられるべきか」、 または、「理性の経路を履(ふ)んで」、 日本を存続せしむべきかを、日本国民が、まさに決定しなければならないことを要求しているのも、この考え方の一つです。
さらに、第 6条において「日本国国民を欺瞞(ぎまん)し、これをして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」と明確に戦争責任の所在を指摘しています。この一方、前述したように、第 9条、第 10条、第 11条において、国民生活再建の基礎が民主主義の上に置かれるべきことを主張しているのですから、抽象論としては、『ポツダム宣言』というものはだいたい、日本のために、むしろ暖かい雰囲気を含んでいるようにも感じられるわけです。
永野護著『敗戦真相記』
―目 次―
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【人物・用語解説】
(84) ロビンソン・クルーソー
英国のジャーナリストで小説家のダニエル・デフォーの小説の主人公。小説の正しい題名は、『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』で、1719年に出版された。
航海の途中、遭難、着の身着のままで無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、自らの創意工夫と努力で自給自足の生活を送り、従僕フライデーとの出会いなどを経て、最後は救出されて、英国に帰国するまでの物語。
(85) 徳川慶喜 (1837―1913)
徳川幕府第 15代、最後の将軍。徳川斉昭の 7男として水戸徳川家に生まれた。1847年、一橋家を相続。1866年、徳川家茂の死により第 15代の徳川将軍に。
1867年 10月、京都で大政奉還を行い、朝廷に政権を返上、自ら徳川幕府の幕を引くことで、倒幕派の機先を制したが、同年 12月に王政復古で武力倒幕派が巻き返し、大阪城に退いた。
1868年 1 月、鳥羽伏見の戦いに敗れると、江戸に戻り、上野・寛永寺にこもり、恭順の意を示した。
同年 4月に江戸城開城。その後は静岡に移住したが、1897年(明治 30年)には東京に戻った。
(86) ソ連の参戦
1945年(昭和 20年)8月のソ連の対日参戦。日本はソ連との間で、1941年(昭和 16年)4月に『日ソ中立条約』を締結した。相互領土不可侵、相手国が第三国と戦争になっても中立を保つというもので、有効期間は 5年だった。
ソ連は 1945年 2月のヤルタ会談で、米英両国とドイツ敗戦後の対日参戦に関する秘密協定を結び、同年 4月には、条約の延長を行わないことを日本側に通告した。そして、同年 8月 8日に宣戦を布告、翌 9日御前 0時過ぎ、満州への攻撃を開始した。
陸軍は精鋭部隊を南方戦線に回していたため、ソ連の攻撃で瓦解。現地に取り残された日本人開拓団には多くの犠牲が出た。また敗戦によってソ連軍の捕虜となった将校はシベリアなどの強制労働に送られた。
外交面でも、中立国として、ソ連に連合国との和平の仲介を期待する動きもあったが、そうした最後の望みも断たれた。
(87) ポツダム宣言
1945年(昭和 20年)7月 26日、米英中 3カ国によって発表された、日本に降伏を迫る共同宣言。ドイツ敗戦後、ベルリン郊外のポツダムで開かれた、トルーマン(米大統領)、チャーチル(英首相)、スターリン(ソ連首相)の3カ国首脳会議で決定されたあと、蒋介石(中華民国総統)の合意を得て決められた。ソ連は 8月 8日の対日宣戦布告後に署名した。
軍国主義の除去、軍隊の解体、戦争犯罪人の処罰など戦争終結の条件を示したものだが、日本の鈴木貫太郎内閣は、本土決戦を主張する軍部主戦派の圧力によって宣言を「黙殺」。米国による広島、長崎への原爆投下と、ソ連の対日参戦の道を開くことになった。
結局、8月 14日にポツダム宣言の受諾が決まり、戦争は終結した。ポツダム宣言は対日占領政策の基本となった。
(88) フリードリヒ大王 (1712―1786)
プロイセン国王、フリードリヒⅡ世。大国としてのプロイセンの地位を確立した啓蒙君主で、フリードリヒ大王は通称。1740年から 1786年まで在位。
1740年から 1748年にかけて、マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって起きたオーストリア継承戦争に勝ち、シュレジエン地方を併合、1756年から 1763年までの 7年戦争では英国の支援を受けながら、オーストリア、ザクセン、フランス、ロシアなど欧州列強諸国を相手に戦い抜き、プロイセンの地位を固めた。外交・軍事的な才能を発揮し、領土の拡大を進める一方、内政面では、農業・産業の育成や、司法、行政の近代化などに尽力した。
フランス風の文化・芸術を好み、ポツダムに建設されたサンスーシー宮殿はロココ様式が特徴の夏の離宮で、フランスのポルテールら、思想家、芸術家が招待された。「サンスーシー」はフランス語で「憂いなし」という意味で、1745年から 1747年にかけて建築された。
(89) 戦争犯罪人
第 2次大戦後、連合国の軍事裁判によって戦争犯罪を訴追、処罰された者。戦犯ともいう。
戦争犯罪としては、従来からあった戦時国際法に違反した「通例の戦争犯罪」に加え、侵略戦争の計画、準備、実行に関与した「平和に対する罪」、非人道的な殺害・虐待行為などに関する「人道に対する罪」が新たに想定された。
戦犯は A級、B 級、C 級の 3種類に分かれ、A 級戦犯は「平和に対する罪」で訴追された軍首脳・政治家などの戦争指導者で、ドイツではニュルンベルク、日本では東京に設置された国際軍事裁判所で裁かれた。
B 級 は「通例の戦争犯罪」、C 級 は「人道に対する犯罪」で、B C 級 戦犯の裁判は、米国、英国、中国、豪州、フィリピン、フランス、オランダなど連合国各国の軍事法廷で行われたが、裁判の実施にあたっては事実認定や情状面などで問題のあるケースもあった。
1952年 6月 9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年 12月 9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、そして 1953年 8月 3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。
この議決は、前年(1952年)に、戦犯とされた者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4 千万人の日本国民の署名が集まったことに起因する。
名誉の回復
(Wikipedia )
1952年 6月 9日 参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
1952年12月 9日 衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年 8月 3日 衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年 7月19日 衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
(90) 真珠湾攻撃
真珠湾(パールハーバー)はハワイ州オアフ島にある米海軍の拠点。1941年(昭和 16年)12月 8日(米国時間 12月 7日)、赤城ほか空母 6 を中心とした日本海軍機動部隊は真珠湾にある米海軍太平洋艦隊と航空基地を奇襲攻撃、戦艦、航空機に多大な損害を与えた。この攻撃によって太平洋戦争(第 2次世界大戦・太平洋戦線)が始まった。
航空機主力の画期的な作戦でもあり、初戦の大戦果に日本国内は沸いた。ただ、計画では、真珠湾攻撃の 30分前に米国側に対米最後通告をすることになっていたが、駐米大使館の作業の遅れのために通告は攻撃後となった。このため、日米交渉中の宣戦布告なき攻撃に米国民は憤怒、対日・対独戦へ国論が統一された。
(91) クリミヤ宣言
1945年(昭和 20年)2月にクリミヤ半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによる米英ソ首脳会談(ヤルタ会談)が開かれた。この会議直後に発表された共同宣言。
ヤルタ会談では、日独敗戦後の国際秩序について話し合われ、ソ連参戦に関するヤルタ秘密協定も結ばれたが、この内容が米国の国務相から公表されたのは、永野が『敗戦真相記』を出版した後の 1946年(昭和 21年)2月だった。
ちょっとおしゃべり
『ポツダム宣言』から 64年が過ぎました。
その間に、支那事変とか太平洋戦争とか第二次欧州戦争とか、ずいぶんと形を変えて、あるいは歪められて伝えられています。その最たる責任は、やはり、自民党が断固として正しい歴史を叫ばずに、なあなあで流してきたことにあるような気がします。
戦争というものは、そのすべてが理不尽です。 理不尽だから争いになる。それなのに、「あの戦争は理不尽だった。謝れ!賠償しろ!!」と、当の本人なら 「しつこいヤツだ」と笑えますけど、日本人が叫んでいるのは、私には理解不可能。
アメリカの占領軍が、日米安全保障条約の締結によって、在日米軍になりました。その締結から 58年。来年(2010年)はその改定から 50年となります。
その間、私たち日本は、同じ敗戦国のイタリアよりも、同じ敗戦国のドイツよりも、比べものにならないくらい平和で豊かに過ごして来れたのは、どうしてなのか、この 『敗戦真相記』 を読みながら考えて貰えたら嬉しいです。
DAMAGEPLAN ~ Soul Bleed guest ZAKK WYLDE (2004)
タロット占いでは実は〔13〕という数字は最高のものだそうです。
でもそれを知ったら愚かな人間は努力を忘れたり悪用したりしかねないので、真逆の悪魔の数字ということにしたというのを、昔、占いの本か何かで読んだことがあります。
数字にも意味があるのでしょうか。
もしあるとすれば、私は〔0、1、6、9〕といった、宇宙雲の渦巻きが描ける数字の年などが、チェックかな?という気がしますが・・・
1941年 12月 8日。日本が真珠湾攻撃をした日です。
1980年 12月 8日。ジョン・レノンが暗殺された日です。
2004年 12月 8日・・・
パンテラ (PANTERA) という偉大なヘヴィ・メタル・バンドを、お兄さんのヴィニー・ポール (ds) と共に結成した、ダイムバック・ダレル (g) が射殺された日です。
暗殺ではありません。乱射事件の犠牲者です。
2003年にメンバー間の確執から PANTERA を解散したダイムバック・ダレルは、すぐさま DAMAGEPLAN というバンドを結成し、親友のザック・ワイルドをゲストに迎えたデビュー・アルバムを2004年 2月に発表。
この "Soul Bleed" は、そのアルバムのラスト曲です。
そしてその年の 12月 8日。
オハイオ州でのアルバムのツアーコンサートの最中に、突然、1 人の男がステージで演奏中のダイムバック・ダレル目がけて発砲。
オーディエンスの中にはコンサートのパフォーマンスだと思った人も多かったということが、事件の唐突さを物語っています。
犯人は 25歳の精神を病んでいた男で、ダイムバック・ダレルの他にも 3人が亡くなり、2 人が負傷しました。
テキサスというイメージを絵に描いたような風貌のダイムバック・ダレルという、偉大なギタリストも、至近距離から放たれた 4発の銃弾を跳ね返すことができませんでした。
この記事は2009年12月8日保存の再投稿です。