日本は敗戦によって、1945年8月14日~1952年4月28日の5年9カ月近く、連合軍の占領下に置かれました。
その間、最高司令官だったダグラス・マッカーサーは、毎年、元旦の新聞にメッセージを掲載していたそうです。
その中の、昭和二十五年(1950年)一月元旦の言葉は、GHQが見張る中で作成された現在の『日本国憲法』、そして正式な『国際軍事裁判』では無く、言ってみればダグラス・マッカーサー個人の裁判ともされる、『極東軍事裁判』をさえ、自らが否定したようなメッセージでした。
「戦争放棄」の理想も、「自衛」には道を譲れ
-ダグラス・マッカーサー-
その言葉を裏づけるように、6か月後には『朝鮮戦争』が勃発します。
それに対応すべく、日本には、GHQの指令に基づく『ポツダム政令』によって、現在の『自衛隊』の前身となる、『警察予備隊』が創られました。
1951年(昭和26年)5月3日
アメリカ上院『軍事外交合同委員会・公聴会』
「日本自衛戦争論」該当部
朝鮮戦争に介入した中国への対処についてのやり取りの中での質疑より
(質問)五つ目
赤化中国を、海と空から封鎖するという、(マッカーサー)元帥の提案は、米国人が太平洋戦争において日本に対する勝利を収めた際の、それと同じ戦略ではないのか。
マッカーサー
その通りだ。
太平洋戦争において、われわれは彼ら(日本軍)を迂回して、包囲した。
日本は、四つの狭い島々に、八千万人に近い膨大な人口を抱えていたことを、理解しなければならない。
その半分近くは農業人口だった。
残りの半分は工業生産に従事していた。
潜在的に、日本の労働力は、量と質の両面において、私が知る限り、最良のものである。
労働の尊厳とでも呼ぶべきもの、人は怠けているときよりも、働いて築き上げるときの方が、より幸福であるということを、彼ら(日本人)はどこかで完全に気づいたのである。
これほど巨大な労働能力をもっているということは、何か、働くための材料が必要だということを意味した。
工場を建設し、労働力を得たが、彼らは、手を加えるべき原料を持っていなかった。
日本原産の動植物は、蚕をのぞいては、ほとんどないも同然である。
綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、ほかにも、ないものばかりだった。
その全てが、アジアの海域に存在していたのである。
もし、これらの原料の供給を絶ち切られたら(連合国による経済制裁)、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するであろうことを、彼らは恐れた。
したがって、彼らが戦争に駆り立てられた動機は、大部分が、安全保障の必要に迫られてのことだった。
◇
「過去、百年間に、太平洋地域で、われわれ(アメリカ外交)が犯した最大の政治的過ちは、共産勢力を、中国で増大させたことである」
(1530) 『マッカーサー証言』 ―何がマッカーサーを変えたのか―
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2012-08-11 )
戦争放棄の理想も自衛には道を譲れ
by ダグラス・マッカーサー
昭和二十五年(1950年)一月元旦
(1684) (1) 東條英機の遺言
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15 )
(1685) (2) 吉田茂からマッカーサーに宛てた文書
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15-1 )
(1686) (3) マッカーサー証言
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15-2 )
(1687) (4) 戦争犯罪人の名誉の回復 その1
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15-3 )
(1688) (5) 戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15-4 )
(1689) (6) 吉田 茂の名訓示
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15-5 )
(1690) (7) 昨日でも明日でもなく、今日の日本
(http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/2013-01-15-6 )
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(1686) 戦争放棄の理想も自衛には道を譲れ(3)マッカーサー証言
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