日本人はなぜ「祖霊」を祀るのか?
『歴史街道』 平成22年2月号より
日本には約11万社もの神社があるという。
ところが私たちは、祀られている神様がどなたなのか知らずに参拝することが多い。
その起源は縄文時代に遡るという神社は、日本人にとってどんな場所なのか。
神社や神道の起源とは
パソコンを仕事の道具とし、テレビを娯楽の糧として、携帯は絶対に手離さない・・・。
このようなハイテク文明にどっぷりつかっている人も、正月になれば神社に初詣をし、七五三にはお宮参りをします。
普段は神社と神様のことを忘れている現代人も、生活の節目では何となくそれらを意識しているものです。
神社本庁の調査によれば、日本には約7万9千の神社があるそうです。
しかし、この調査から外れた小さな神社も多く、実際は約11万社もあって、寺の総数を上回るとされます。
ところが不思議なことに、神社にどんな神様が祀られているかを知らないで、お参りする人がほとんどではないでしょうか。
それを許し、許されるのが、日本の神々と私たちの関係だといえましょう。日本の神様は実に寛容なのです。
一方、仏教やキリスト教、イスラム教といった代表的な宗教には、それぞれ釈迦やキリスト、マホメットという教祖がおり、また、経典や聖書、コーランといった確固たる教典が存在します。
しかし、「八百万(やおよろず)の神」がいるといわれる神道には、はっきりとした教典や教祖は存在しません。
なぜなら、日本の神様の多くは自然崇拝から生まれているからです。
日本人は古くから動植物はもちろんのこと、太陽、星、雨、風、また山や川、滝、岩にさえ、神が宿ると考えて、敬ってきた歴史があるのです。
たとえば、奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社は背後の三輪山、つまり山そのものがご神体となっており、そのため神社にあるはずの本殿がない造りとなっています。
三輪山と大神神社の鳥居
このように、普段意識することはなくても、あらゆる存在に神を見てきたのが世界にも珍しい日本人の宗教観といえます。
そんな日本人が昔から特に重視していたのが、「祖霊(それい)」(先祖の霊)を祀ることです。
実はここにこそ、神社や神道の起源が求められます。
ちなみに日本古来の宗教が神道として体系化されていったのは、中国から伝来した仏教の影響を受けてのことです。
さて、今でも日本人はお彼岸になればお墓参りをし、お盆には迎え火をたいて先祖を迎え、除夜の鐘に行く年・来る年を想います。
これらの「しきたり」の始まりは仏教にあると考えがちですが、そうではありません。
そもそも仏教には「祖霊」を祀るという思想はなく、これは日本人特有の信仰なのです。
現生の幸せを祈る
日本人が昔から「祖霊」を祀ることを重んじてきたのは、日本の風土と関係があります。
日本は昔から四季が豊かで自然に恵まれ、また島国であったために、歴史上、外部(外国)からの侵略をほとんど受けてきませんでした。
世界的に見ても、日本人の暮らしはたいへん恵まれていたわけですが、それは日本人の宗教観をある意味で独特なものにしました。
世界の多くの宗教が、厳しい現実社会から離れて来世を信じる、という信仰のスタイルをとっているのに対し、豊かな自然の中で生きてきた日本民族固有の宗教である神道には、極楽も天国もなく、ましてや地獄などありはしません。
日本人が天国や地獄の存在を信じるようになったのは、中国から伝わった仏教の影響です。
そもそも神道の世界観では、人は現世だけのものであって、あの世に行けば幸せになれる、などということはありません。
他の宗教が現世を「来世への旅立ちの空間」ととらえるのに対して、神道はこの世のまさに現在が「本物の世の中」だとするのです。
だからこそ、命の恵みを授ける稲など「五穀の神」に感謝しつつ、現世を愉快に、幸せに生きていこうと願うのです。
このように、いたって現実的な、これが本当に宗教といえるかどうか疑問視されるほど、神道は宗教色の薄い宗教なのです。
しかし、人は現世だけのものであっても、死を迎えれば、「祖霊」のいる世界へと帰り、そこから子孫のことを見守りつつ、時に子孫に迎えられて、また現世に帰るとされました。
こうして己の魂は、限りなく受け継がれていくと信じたのです。
自分の命は、祖先と子孫をつなぐもの―――
ここから「祖霊」を祀り、もてなし、感謝し、またそのご利益にあずかるという、日本人特有の信仰が生まれてきたのでしょう。
三内(さんない)丸山遺跡が語るもの
では、いつから日本人は「祖霊」を祀ることを習慣としてきたのでしょうか。
それは遠く縄文時代にまで遡ります。
たとえば、今から三千年以上前にあたる縄文後期の遺跡・風張(かざはり)遺跡(青森県八戸市)内の竪穴住居跡からは、神棚の存在を示す痕跡が発見されました。
奥行き4m余りの竪穴住居の正面奥に棚を吊るし、そこに土偶を祀っていたのです。
土偶は手を前に組み、合掌する祈りのポーズをしていました。
合掌土偶
http://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12%2C21230%2C43%2C153%2Chtml.
おそらく縄文人は、現代の我々が神棚にお参りすることを習慣としているように、この土偶を「祖霊」の宿る「依り代(よりしろ)」として崇めることで、先祖を敬い、家族の平和を願い、穀物の豊かな実りを祈っていたのでしょう。
さらに縄文人は、このように個々の家で「祖霊」を祀っていただけではなく、集落の中心に広場を設け、神を迎えて祭祀を行っていました。
それを如実に教えてくれるのが約4千年以上前の遺跡、三内丸山遺跡(青森市)です。
三内丸山遺跡
遺跡内に見られる6本の巨大な栗の柱跡は物見櫓との説もありますが、神が舞い降りる神殿との見方が有力です。
その脇には200人ほどが入れる大型住居があり、祭祀用の土偶などを埋めた盛り土が見つかりました。
すなわちこの広場は、集落の全員が集う祭祀(祭り)の場であったのでしょう。
この祭祀の場に縄文人は祖霊を迎え、あつくもてなし、感謝することで、海の幸・山の幸が豊かに採れることを願ったのです。
これが「祭り」の起こりであり、「祭り」を行うのは、神のご利益にあずかるためとされます。
こうして古くから集落に必ずあった「祖霊」を祀る場が、歴史とともに“鎮守の杜”、すなわち神社へと姿を変えて、現在に至っていると考えられるのです。
「名」をもつ「神」の起こりとは?
卑弥呼にも擬せられる女王が住まう国として、一躍脚光を浴びた吉野ヶ里遺跡(佐賀県)。
女シャーマンの住んだ祭殿が二重三重の楼観として復元されるなど、弥生の国の姿を今に甦らせていますが、この遺跡の中にも「祖霊信仰」の起源を見ることができます。
吉野ヶ里遺跡
http://www.panoramio.com/photo/216368.
40ヘクタールもあるこの環濠(かんごう)集落の始まりは、「祖霊」が眠る墳丘墓(ふんきゅうぼ)にあったと考えられています。
それは紀元前1世紀前半頃のことであったと見られますが、しばらくしてここに葬られる人物はいなくなりました。
しかし、この墳丘墓に対する祭祀は、吉野ヶ里の集落が消滅する3世紀まで、実に400年も続いたのです。
かつて吉野ヶ里遺跡の墳丘墓に葬られた人物とは、他集落との戦争を勝利に導いたリーダーとその一族だったのでしょう。
ここ吉野ヶ里に住んだ者たちにとって、彼らは尊敬すべき別格の「祖霊」となったと考えられます。
このように共同体みんなの英雄である「祖霊」が、その土地の地神(ちじん)(守護人)となるのです。
日本の弥生期においては、ほかの地域でも同じようにして、周辺の集落を倒し、国を形成し、首長となる英雄が誕生しました。
そうした人物を「祖霊」として祀っているうちに、それはやがてはっきりとした「名」をもつ「神」として祀られるようになったのです。
そうして地域の最大・最強の英雄こそ、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)といえるでしょう。
『古事記』神話の3分の1は、出雲大社に鎮座する大国主命が支配する出雲神話の世界で占められています。
しかしこの大国主命は、大和朝廷に敗れた英雄の一人でもありました。
大和朝廷(天皇家)による全国統一は3世紀末頃から始まって、5世紀には全土を掌握したとされます。
当時、大和朝廷はもちろん、出雲市や吉備(きび)氏といった各地域の有力豪族たちも、それぞれの「祖霊」を祀っていました。
本来ならば、その神々の地位は同格だったはずです。
しかし、有力豪族を従属せしめた大和朝廷は、自分たちが祀る神々が他豪族の戴く神々と同格では権威がないとし、有力豪族の神々の上に君臨する神を創造したのです。
具体的には、従来の豪族たちの神々を他神(国つ神・地祇)とし、一方で大和朝廷が祀る神々を天神(天つ神)として、天照大神を最高神とする高天原の神々を創設したのです。
このため、天照大神を祀る伊勢神宮は別格となり、他の神社と区別されるようになりました。
もっとも、現代日本人の意識では、天照大神も大国主命も、また全国に多々ある氏神(うじがみ)にも上下の区別はないといえましょう。
神より出(い)でて
神に入(い)るなり
ところで、こうした神話系の神様を祀る以外にも、神社はいくつかのタイプが存在します。
ここでは、とくに「祟(たた)り神」を祀る神社について触れておきましょう。
「神道」の世界観では、「祖霊」は果てしない遠い世界に行ってしまうのではなく、私たちの近くにとどまって、正月やお盆などの際、子孫の家を訪れるとされます。
しかし、このように「祖霊」はすぐ近くにいるがゆえに、非業のうちに斃(たお)れ、恨みを残して死んだ人の場合、その霊が祟ることがあると信じられたのです。
最も有名なのは、悲運のうちに九州大宰府に流され、そこで亡くなった「天神様」こと菅原道真でしょう。
その霊を鎮めるためにできたのが、北野天満宮(京都市)の始まりです。
また平将門や曽我兄弟らも、同じようにその祟りが恐れられて、御霊(ごりょう)鎮めの神社ができたのです。
これまで述べてきたとおり、もともと神道は、先祖を敬う宗教として始まりました。
そして神社は現世を幸せに生きるため、自分たちの「祖霊」に多くのご利益をお願いする場として、今に受け継がれているのです。
日の本に生まれ出でにし益人(ますびと)は
神より出でて神に入(い)るなり
江戸中期に伊勢神宮の神官が作ったというこの歌は、日本人の死生観を見事に表現しているといえましょう。
現世を生きる私たちは、先祖の神から魂をもらい、やがては先祖のもとに帰っていくのです。
日本人は神から生まれ、死ねば誰でも神になる・・・私たちにとって神社とは、自分の魂のあり処(か)を確認するための場所といえるのです。
仏壇というから仏教から来たと、なんとなくそう捉えていたのですが、確かに、日本は多神教であり、何かの宗教に属していなければ、特定の神様だけを祀るなんてことはなく、特定とされるものはご先祖さまだけですね。
仏壇というとご先祖さま。神棚というと氏神様をはじめとして八百万の神々を祀りますね。
母はとても信心深い人だったというか、明治くらいまでの人たちがそうだったように、お稲荷さんにお参りして、えびすさん、お薬師さま、天神様、虚空蔵菩薩なんてのもあったな。お勝手の荒神様はひがみっぽいから、先にお供えをするとか、なんだかそこいらじゅうの神社仏閣にお参りしては、お札を頂いてきて貼りめぐらすので、父が、こんなにあったら神様同士がケンカすらあ、とか言って笑ってましたけど(爆笑)それが、日本本来の姿だと思います。
そしてお経だの聖書だのを読むだとか、讃美歌を歌うだとか、コーランを唱えるなんていう、しちめんどくさい決まりごとはなく、おてんとうさまでも、お月さまでも、桜の木でも、なんでもいいから、手を合わせて、おはよう、こんちわ、こんばんわだけでいい。
誰かれ構わず信心しろなんて薦めることもなく、あちこちの神社仏閣の縁日には近隣で誘い合って出かけて、あそこの神社では前掛けとか、こっちのお寺ではザルだとか決まっていて、いつものお店で蕎麦やダンゴなどを食べて来る。
これほど素晴らしい民族が、他にあったでしょうか。
ご先祖様、多神教、バンザ~~イ \(^o^)/
ちなみに、モンゴルあたりの一部では、なんて言ったかな、巨大テントみたいなの。あの中に先祖を祀る仏壇があるそうです。やはり自然とともに生きている民族ですね。
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(1283)家の中に先祖を祀る仏壇があるのは日本だけ
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