【日の蔭りの中で】
サンフランシスコ条約60年
京都大学教授・佐伯啓思
2012年04月16日
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120416/plc12041603130003-n1.htm
この28日で『サンフランシスコ講和条約』が発効して60年になる。
この条約が締結されたのは1951年の9月8日であった。
昨年の9月8日は締結60年で、マスコミやジャーナリズムでも多少の特集など組まれるかと思っていたのだが、実際にはまったくその種の動きはなかった。
さすがに今年は発効60年で、多少の議論や検証はでてくるのではないかと思うが、それにしても、60年もたてば、あらゆる出来事が歴史という巨大な収納庫のなかへしまいこまれてしまうものなのであろうか。
『サンフランシスコ講和条約』は決して過ぎ去った歴史的事実というものではない。
まさしく今日のわれわれがその上に生を組み立てている礎石となっているからである。
『サンフランシスコ講和条約』の上にわれわれは戦後日本という国を構築してきたのである。
『サンフランシスコ講和条約』には、これを期して日本は「完全な主権を回復する」と述べられている。
「完全な主権」が何を意味するのかはもうひとつよくわからないのだが、いずれにせよ、占領統治された国家という変則的な状態はここに終了し、日本は主権国家となって国際社会に復帰したわけである。
英米などとの戦争はここで正式に終わったわけである。
確かに60年前の4月28日をもって日本は主権を回復した。
だがそれは本当に主権の回復だったのだろうか。
いうまでもなく『サンフランシスコ講和条約』と同時に『日米安全保障条約』が締結された。
『日米安全保障条約』は、
アメリカによる日本の防衛は「暫定的措置」だとし、
日本自身が「自国の防衛のため
漸進的に自ら責任を負うことを
期待する」
と記している。
ここでアメリカは、
日米安保体制が暫定的なものであり、
いずれ日本は
自主防衛という「本来の姿」へと戻るべきことを
明記しているのだ。
もちろん、日本の自主防衛への最大の障害は憲法そのものであった。
だから、
もし自主防衛という「本来の姿」への回帰を果たすとなると
どうしても憲法改正が必要となる。
そしてアメリカも、
『サンフランシスコ講和条約』締結にあわせて
日本が憲法改正へ向けて動くことを
期待していたようでもある。
だが吉田茂首相は憲法改正論を一蹴した。
平和憲法とアメリカによる防衛体制のもとで
経済発展を実現することこそが国益だと考えた。
もちろんそれが
国家としては「半人前国家」であることを
吉田はよく知った上での決断であった。
歴史に「もしも」は禁句だといわれるが、あえて「もしも」といえば、
この時に吉田首相が憲法論議を提起していたら
どうなっていたのであろう。
『サンフランシスコ講和条約』締結以前の占領状態は、公式的にいえば、いまだ戦争継続中なのであり、広義の戦争状態における占領である。
日本には主権はない。
したがって、「本来」の意味でいえば、あの憲法は無効である。
憲法制定とは、主権の最高度の発動以外の何ものでもないからだ。
「もしも」このような認識があれば、主権回復と同時に新憲法制定へ着手するのが「本来」の姿であった。
いいかえれば、
占領期間に制定された
憲法や教育基本法など、
「国のかたち」にかかわる基本構造を
そのまま受け入れた戦後が
改めてここに始まったのだ。
◇
これが、『サンフランシスコ講和条約』における「完全な主権の回復」である。
形の上では日本は主権国家となり、
実体の上では「不完全主権国家」となった。
『サンフランシスコ講和条約』によって、
日本は確かに国際社会に復帰したのである。
だがそれはまたアメリカへの新たなる従属でもあった。
それは、占領政策のように、アメリカによる目に見える統治ではないものの、
アメリカの圧倒的な影響力の圏域にとどめ置かれる、
というような種類のものであった。
しかもわれわれ日本人の大半は、
この従属を、やむをえない暫定措置だと思うどころか、
自発的に意図し、
積極的によしとした
のである。
ある人たちは、この従属に「利」がある、とみなした。
ある人たちは、この従属を、日本の国際社会への名誉ある復帰とみなすことにした。
そしてあれから60年もたてば、誰も『サンフランシスコ講和条約』こそが、戦後日本の矛盾の源泉だなどとは思わない。
それは、
戦後日本の経済発展の礎石であり、
「第2の開国」などといわれたりするように、
平和国家日本の世界への船出だとみなされるようになった。
戦後日本には大きな矛盾がある。
それは、日本の
安全保障上の、
あるいは経済上の
「利」は、
実は、
アメリカへの目に見えない従属によってもたらされた
のであり、
戦後日本の世界における「名誉ある地位」なるものは、
「半人前国家」であるがゆえのものだ、
ということだ。
端的にいえば、戦後日本の繁栄であり発展であるとされるもの、すなわち日本が得た「利」は、実は、「完全な主権」をいまだに回復していないがゆえに可能だったということになる。
そして60年たって、今日、実は戦後日本の繁栄や発展など、どうにも底の浅いものであったことが暴露されてきている。
経済成長も平和主義も、どうやら本当にはわれわれの支えにはならなかったことがわかってきた。
『サンフランシスコ講和条約』は
決して
過ぎ去った歴史的出来事と
いうわけにはいかないのである。(さえき けいし)
これを毅然として国会で述べ、憲法改正を提言する国会議員がいないことが、なんとも歯がゆい。
さつま芋の栽培は、親芋に芽吹かせて、その芽(茎)を摘んで畑に植え、いわゆるカスになった親芋は捨てます。
畑に植えられた芽(茎)は成長して茎(ツル)を蔓延らせ、地面の中に、新たなさつま芋が出来ます。それを収穫した後、地面の上に這ったツルは、捨てます。
昔は結婚式が個人の家で行われました。貸し衣装なんてものもないので、金襴緞子の花嫁衣装も個人で用意しました。当然、それを持って嫁入りします。
その、金襴緞子の嫁入り衣装が、さつま芋のカス親や、さつま芋のツルと交換されたのが、第二次大戦の終盤から戦後にかけての日本の姿です。
当然、道端に生えている草も、食えるものは食われてしまいました。
アメリカが日本に軍隊を持つことを進めた時、吉田茂は、警察の予備隊のような、現在の自衛隊の前身を、ちょこっと創って誤魔化しました。
もし、あの時、日本が新たな軍隊を創っていたら、北朝鮮のように、国民は餓死しているのに、軍備だけは一人前の日本になっていたでしょう。
いずれ日本が餓死しないで済むようになったら、その時は、憲法改正をして、主権国家としての軍隊を持つだろう。それが吉田茂の計算であり、願いでもありました。
大好きな葉巻を断ち、相手にあなどられまいと、巻紙に筆を使って書き、決死の覚悟で調印した、『サンフランシスコ講和条約』です。
なんだか上の佐伯啓思さんの文章を読んでいると、全てが親がかりで一人前になったのに、あたかも自分の力で立派になったかのように振る舞って、ジジババは邪魔だ!早く死ね!!死ねば遺産が入るなんて陰口を叩いて、それを聞いて育った孫が、全く同じようにジジババを邪魔にしている、今現在の日本の姿が、見事に浮かび上がって来ました(^^;
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(1407) 日本は主権国家なのか? 4月28日はサンフランシスコ講和条約発効から60年
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